せとうち寿司シリーズ9ー「すし処方」について

武田仕出し店製造「マンボウすしパック」

 

 一般業界の方々は、すし職人と言えば、みんな包丁を朝から晩まで握って刺身を切っていると思うだろう。

 ところが、必ずしもそういうわけではない。

 たしかにあたしを含めて、包丁を一日中握っている職人も多い。だが、まったく包丁を握らないで仕事をしている職人も多いんだ。

 こういうと、みなさまの「職人」の概念が大きく変わるかもしれない。

 しかし「すし保険」のしくみに悖(もと)って考えると、これはごく当たり前の帰結なんだ。

 「すし保険」の根本的な精神は、「日本が世界に誇る、“Sushi”の文化を発展させるために、あまねく国民に寿司を食べてもらおう」ということだったよね(せとうち寿司親方ブログ第1話参照)。この「あまねく国民に」というところがポイントだ。大きな街に住んでいる国民ならば、寿司を食べに行くのはたやすいことだ。

 ところが国民の中には、過疎の村に住んでいる人がたくさんいる。海から遠く離れた山奥に住んでいる人も数多い。こうした人たちにも旨い寿司を食べてもらえるように、日本政府はどんな場所であろうと、なるべく寿司屋を置くようにしている。国や地方がお金を出して公立の寿司屋を設立する場合もあるし、職人に補助金を与えて、そういう場所で店を持つことを奨励してもいる。

 そういう辺鄙な場所には、新鮮な状態で魚を運ぶのは難しい。そこでニーズにこたえるべく、「仕出し」ビジネスが現れ、発展してきた。「仕出し」の会社は、工場で寿司をつくってそれを真空パックにする。そして造った寿司を店に発送する。

 職人たちはストックされたパックのなかから、その客に合ったものを選択して提供する。この客は太っているからトロは駄目だな、だからマグロの赤身をだそう。この客は血圧が高いから、塩分を控えた方がよい、だから塩気の多いイクラはやめておいて、酢で〆たコハダをだそうとか考える。こうやって客の状態にあった鮨を組み合わせて、それぞれの客に向いたメニューを作る。

 このシステムにおいては、たしかに職人は自分で包丁を握らない。

 しかし客たちには、自分のコンディションにあった寿司を食べることができる。だから、わが国の偉大なる「すし文化」を国民に理解してもらおうという、「すし保険」の基本精神は実現されているわけだな。

 今はとりあえず解りやすいように、山奥だとか過疎地を例にとって説明した。だけど、都市部・田舎を問わず、職人が一人でやっているような店では、この「仕出し」システムを利用している店が多い

 都市部だと、活きの良い魚を買い付けることはさほど難しくない。しかし職人が一人で切り盛りしている店では、魚をさばいたり、下ごしらえをしたりなんて手間のかかることはなかなかできない。だから「仕出し」システムを利用するわけだ。

 国内の「仕出し」の大手としては「大塚仕出し店」や「武田仕出し興業」なんかが有名だ。すし店側は、こういう「仕出し店」でつくられた「すしパック」を、客に提供するわけだね。ちなみに「仕出し店」には外国資本のものもあって、「ファイター仕出しカンパニー」なんかは非常に有名だ。

「仕出し店」とすし店の関係は非常に深い。とくに外国の「仕出し店」との関係は、国益にすら関連しうる。ただこれについては、別の機会にお話する。

 「すし店」と「仕出し店」の関係に戻る。読者の皆さんはきっと、「ちょっと待ってよ。自分で寿司をつくらないのに、どうやって利益を上げてるの?どうせ『すしパック』を食べるんだったら。お客さんが直接、パックを買えばいいじゃない?」と思うにちがいない。

 これに対する答えだが、店はそれぞれの客に適したメニューを考えることに対して報酬を受け取るんだ。さっき言ったように、年齢や状態に応じて、それぞれの客に向いた寿司は異なる。たとえば肥った客に対しては、トロやウニみたいな脂肪分の多いネタは向かない。したがって「イカ・カッパ巻き・シャコ」みたいなメニューを作成する。成長期の子供に対してはカルシウムとタンパクを十分に与えなくてはいけない。したがって「生シラス・アジ・カジキマグロ」みたいなメニューが適している。

 こういうメニューを一人一人の客に対して作ることに対して、「すし保険機構」から、一回当たり何千円かの報酬が、店に支払われる。だから、職人だけど包丁は握らない、という生き方が成立するわけだね。

 ただ正直なところ、あたしみたいに、いつも包丁をふるっている職人からすれば、包丁を握らないで、はたして楽しいのであろうかと思う。

 ところが彼らにしてみれば、いやいや包丁を持つなんていうのは単なる肉体労働なのであって、それに固執するのは古いスタイルだ。本当の職人は手先じゃなくて頭を使うものだ、と思っている。

 まあ人間っていうのは自分の生活スタイルが、他人より上だと思いたがる動物だからね。北国の人は、雪景色の美しさを自慢するし、南国の人は青い海を誇りに思っている。それと同じなわけで、どっちが上かなんて争うのは虚しいことだ

 包丁の技で勝負するタイプの職人は、俗に「外派」と呼ばれている。すなわち自己の外面にある道具を使って刺身の持ち味を出そうとすることから、こう呼ばれている。メニューを考えるタイプの職人は「内派」と呼ばれている。内面的な思考、つまり頭を使うことによってお客さんを満足しようとするからだ。

 これとはまったく別の括りになるが、すし職人は、勤務の形態によっても二つに分類される。あたしみたいに、店に雇われているタイプと、自分で店を持つタイプだ。前者は「勤務職人」、後者は「開業職人」と呼ばれている

 つまり寿司職人は、業務の内容により「内派」と「外派」に二分され、勤務形態により「勤務職人」と「開業職人」に二分されるわけだ。

 そしてこれら二通りの分類の間には、ある程度の相関がある。「外派」としてやっている大半の人間は「勤務職人」であり、「開業職人」の大部分は「内派」なんだ。

 そうなるのは、きわめて自然なことなんだ。

「外派」は魚を自分でさばく。魚は、海の状態によって獲れたり獲れなかったりする。つまり供給が不安定だ。したがって在庫管理をする係が、まず必要だ。注文の多寡に応じて魚を解凍する係も必要だ。さらに、豆アジみたいな小さな魚であれば骨を外したり、エビやカニであれば殻をむいたりする、下ごしらえの係も必要だ。このように、ある職人が「外派」として腕をふるうためには、たくさんのスタッフに支えてもらわなくてはいけない。それほどたくさんの人間を雇用することは、個人経営の店ではなかなか難しい。したがって、「外派」でやって行こうとすれば、大きな組織に属さざるを得ない。それで「外派」の多くの職人は「勤務職人」なんだ。しごく当然の理屈だろう?

 これに対して、「内派」は仕出し店の送ってくれる、真空パックの寿司を客に供する。だから、魚を加工するための大がかりな設備や、大勢のスタッフは必要ない。ゆえに、基本的にはワンオペでやっている「開業職人」の働き方に、よく馴染む。こういう理由で「開業職人」の大半は「内派」なんだ。これもわかりやすい理屈だろう?

       

 ところが、この逆は成立しない。「開業職人」の大半が「内派」ではあっても、「内派」の職人のほとんどが「開業職人」かというと、それは違う。「勤務職人」の中にも「内派」はたくさんいる。というより、「勤務職人」も半分以上は「内派」なんだ。

 というのは、パックの寿司を提供するとは言っても、個人経営の店ではなかなかあつかいきれない客もたくさんいるからだ。たとえば、マグロやイカみたいに、ありふれた素材が向かない客がいる。こういう客は体質的に、リュウグウノツカイだとか、マンボウなんかの寿司を食べないと、弱ってしまう。これらの魚は、非常にまれにしか獲れない。だから獲れた時にパックに加工しておくしかない。また、他の魚との取り合わせが難しいので、包丁の技術というよりも、寿司全般に対する知識の方がものをいう。ゆえに、「外派」ではなくて「内派」の職人が担当する方が向く。ただ、開業している職人の店だと、リュウグウノツカイの寿司パックなんか置けない。だって、滅多に出ないから。

 このように、まれな素材が不可欠な客や、品目を複雑に組み合わせることが必要な客は、けっこう多い。こういう客は、いくら真空パックのすしを出すと言ったって、職人が一人でやっている小さな店では扱いきれない。人も設備も伴った店でないといけない。したがって、大きな店舗にも「内派」部門が必要になるわけだ。

 ただ「内派」と「外派」では、「勤務職人」と「開業職人」の比率が異なっている。「外派」ではほとんどの職人が「勤務職人」だが、「内派」では「勤務職人」と「開業職人」の割合は4対6といったところか。この関係は、下の図を見てもらえるとわかりやすいと思う。

 

       

 ところで昨今、政府により新しいシステムの導入が検討されている。このシステムに対して「内派」の「開業職人」たちは、かなり警戒心を抱いているらしい。

 どういうシステムか、説明する。

 さっき話したように、「開業職人」には、すしのメニューを考えることに対して「すし保険機構」から報酬が支払われる。この報酬が彼らの収入源となる。すなわち、こうしたメニューを提供する回数が多いほど、彼らの収入が増えるわけだ。

 いままでは、患者が来店して寿司を食べるたびに、職人がメニューを作成していた。寿司をひと月に1回食べるのならば、1年間に12回、職人からメニューを作成してもらわなくてはいけなかったわけだ。すなわち、一人の客について年に12回分の「メニュー作成料」が、「すし保険機構」から職人に支払われていた。

 ところが人間の嗜好なんてものは、そうそう変わるものじゃない。だから作ってもらうメニューが、何年も変わらないなんてことがよくある。

 そこに財務省が目をつけた。「毎月メニューを変えるわけでないとすれば、1回作ったメニューを、何か月か続けて使っても良いんではないか?」と言い始めた。そしてこのシステムを「リフィルメニュー制度」命名した。日本のファミレスもそういうシステムをとっているところが多いが、「リフィル」というのはもともと、アメリカの大衆レストランのシステムだ。こういうレストランでは客に大きなコップを渡す。客はコーヒーだのコーラだのを自分でつぎにゆく。コップには”It’s free to refill”と書いてある。リフィル(refill)は「もう一回注ぐ」という意味で、つまり、「お代わりはタダだよ」という意味だ。それと同じように、開業職人が作ったメニューも、いままでのように1回だけではなくて何回も使えるようにしなさい、というふうに、財務省は言っているわけ。

 開業職人たちにとって、これは由々しき問題だ。彼らの収入のうち、かなりの部分はメニューを作成することに対して、「すし保険機構」から支払われる報酬だ。1回作ったメニューを何回も繰り返し使えるとなれば、かれらが手にする「メニュー作成料」は何分の1かになってしまう。だから当然、減収になる。

 いまのところ「リフィルメニュー制度」の受け入れは強制ではない。それのシステムを採用してもいいし、採用しなくてもいいということになっている。

 だけどある店がこのシステムを採用したら、周りの店の客たちは、システムを採用した店に流れるだろう。客も「メニュー作成料」の20~30%を支払っているわけだからね。支払うお金が少ない方が良いに決まっている。それもあって、主として「開業職人」から構成されている「日本すし会」は、「リフィルメニュー制度」の導入に大反対をしている

 「リフィルメニュー制度」の構想は、けっこう前からあったらしい。「すし保険」の財源は、国民が払っている保険料だ。保険料は強制的に徴収される。つまりは税金だ。そして、税金の使い道を管理することが財務省の仕事だ。

 すし保険のバランスシートは、大幅な赤字になっている。また今後も、どんどん赤字が拡大してくることが予測されている。この理由は簡単で、人々の寿命が延びているからだ。齢をとっても寿司は食う。それだけでなく、若い時よりも、もっと手の込んだ寿司が必要になる。骨がのどに刺さったりしたら大変だから、包丁をふるう「外派」の職人たちは、魚を調理する際に相当、気を付けなくてはいけない。真空パックのすしを扱う「内派」の職人にしたって、塩分や脂肪分にかなり注意しないと、旨いと言ってもらえない。

 このように、齢をとるにつれて寿司に対する要求水準がどんどん高くなってくるのに対し、支払う保険料の額は少なくなる。引退して収入が減るのだから当然だ。

 それゆえ、「すし保険」の財務状況は火の車になっている。そのため政府は国債を発行して穴埋めをしているのだが、このままいくと破綻するのは時間の問題だ。

 だから、日本の財布を管理する立場の財務省としては、「すし保険」にからむ支出を抑えようとするのは当然のことだ。それで、どこか削れるところはないのかと、かねてから目をつけていたんだね。

 ところが、主として開業職人たちから構成されている「日本すし会」は、ずっと「リフィルすしメニュー」制度に反対していた。自分たちの収入が減るから、当然のことだ。そして「客のコンディションは一定しないこと」を反対の根拠としていた。つまり年齢によって味覚は変わるし、体調によってもその時に食べたい寿司は違う、だから少なくとも1か月に1回は客に会って状態を確認しないと、よい寿司を食べさせることはできない、という理屈だ。

 この理屈もそれなりに説得力がある。それに、なににもまして「日本すし会」の反対が強硬であるがゆえに、あれほど強大な権力を持つ財務省(と、直接の監督官庁である厚労省)とてそう簡単に「リフィルすしメニュー」を導入できなかった。

 しかし、ここ数年のコロナさわぎで、状況ががらりと変わってしまった。まず、客たちが店に来なくなってしまった。店で他の人に肺炎をうつされるのが怖いからだ。開業職人たちも、店にあんまりたくさん客が来るのを歓迎しなくなった。自分も肺炎をうつされる可能性があるし、クラスターなど発生しようものなら営業停止になる

 

 そこで職人たちは、新しいシステムを一時的に使うことにした。電話で客の状態を聞いて、状態が変わらないようであれば、先月作成したメニューをそのまま使ってもらう。客は先月つくったメニューを持って、「仕出し店」に自分で寿司をとりに行く。こうすれば、今までは毎月すし店に行っていたのを、2か月もしくは3か月に1回に減らせるではないか。

 このシステムを使い始めたばかりのころには、客たちは「本当に大丈夫なの?」と不安に思っていた。やっぱり月に一回は職人に会わないと、味覚が狂ったり、体調が悪くなったりするのではないか、と怖かったのだね。

 ところがおどろいたことに、いざシステムが回り始めてみると、ほとんど困らない。つまり、毎月すし屋に行かなくたって大丈夫だってことに、客たちは気が付いてしまったんだね。

 あたしなんかは、そりゃそうだろう、と思ったね。あたしは、魚の胸鰭のあたりを使ってすしを作るのが得意だ。こういう寿司はかなり特殊なので、職人がたくさん働いている大きな店でも、なかなか握っていない。それで、いろいろな都道府県から、あたしの店にお客さんが来てくれる(ありがたいことだ)。お客さんたちは、日ごろは地元の店で寿司を食べている。あたしがお客さんに握るのは、自分でさばいた胸鰭を使って握った寿司だ。これに対し、お客さんたちがいつも召し上がっているのは、仕出し屋が作った真空パックの寿司である。同じ寿司といっても性質はまったく違う。

 とはいえ、あたしは彼らに寿司を握るにあたって、日ごろどういう寿司を食べているのかを確認しなくてはいけない。日ごろどういうものを食べているかによって、そのお客が求める味は異なるからね。

 そこで、近所の店から発行されている、かれら向きの「すしメニュー」を確認すると、ホントーに変化が少ない。1年や2年、同じメニューを使っていることなって言うのはザラであるし、ひどい場合には5年くらい全く同じなんてこともある。だからあたしとしては、毎月すし店へ行くことを義務化する必要があるのであろうか、とずっと前から思っていた。

 ただ断っておくが、あたしは開業職人という生き方を否定しているわけではない。都市部だと開業職人はだいたい9時5時の生活だが、地方の店だと本当に忙しくしている職人がたくさんいる。近くに大きな店がないから、寿司を食べたくなると、地域の住民がみんな、個人の店に来るんだね。確かに田舎だと人口は少ない。だが、寿司屋の数はそれ以上に少ない。それに過疎化の影響で高齢者が多い。高齢者の中には夜中に突然、「親方のすしを食べないと調子が悪い」といってやってくる人も多い。さらに言えば、そういう客には真空パックの寿司を食べさせるだけでは駄目な場合も多々ある。近隣の漁師さんにお願いして魚を手に入れた上、自分で魚をさばかなくてはいけないこともある。あたしは、こういう職人たちを心から尊敬している

 ただ仕事が大変なもんだから、地方の職人には成り手が少ない。それで、学費を免除する代わりに、へき地での勤務を10年くらい義務付ける、「自立すし学校」という学校が関東地方の北部にある。なにが「自立」なのかはさっぱりわからないんだが、すくなくともその学校の設立の精神については、あたしは深く共鳴するね。

 このように、地域住民のために命削って働いてる人たちが、「開業職人」の中にはたくさんいる。こういう職人たちはむしろ、「リフィルメニュー制度」の導入を歓迎しているのではないだろうか。業務が減るわけだから。

 あたしの観察するところによると、「リフィルメニュー制度」に反対している職人は、都市部に多い。すし職人に限らず、今の時代はみんな大都市に住みたがるよね。これは一種の現代病ではないかとあたしは思っているんだが、それについては、またあらためて話す。

 とにかく、すし職人たちが集中するものだから、東京や大阪には寿司屋が増えすぎてしまった。当然、一人当たりのパイは小さくなるわな。ちょっとした減収でも大きく響くことになる。それで、躍起になって新制度の導入に反対しているわけ。

 でもあたしは、いくら職人たちが反対しても「リフィルメニュー制度」は必ず定着すると思っている。それが時代の流れだからだ。

 さっき述べたように「日本すし会」は、前には「客の状態を月に1回は把握しないと、よいメニューは作れない」と言うことを、反対の論拠にしていた。

 ところがその根拠がなりたたないことが、コロナさわぎによってわかってしまった。

 そうすると「日本すし会」は、「すし職人の収入が減るから」と言い出した。

 あたしは、そのストレートさにびっくりした

「日本すし会」は主として、「内派」の開業職人によって構成されている。これにたいしてあたしは「外派」であり、かつ「勤務職人」だ。リャンハンついて彼らと異なっている。職務内容も俸給体系も大きくちがっているので、実際には彼らとは全く別の職種だ、と言っても良い

 だけど「すし職人」という点で、世間からはひとくくりにされている。だから、あたしとしても、なるべく彼らの肩は持ちたい。

 だとしてもだ。「自分たちの収入が減るから制度を変えないでくれ」というのは、言い訳として、はしたなさすぎる。根本的なところで勘違いをしている。

 そもそも「すし保険制度」は、貧富にかかわらず、国民に旨いすしを食べてもらおうという精神のもとに設立された。

 昭和や平成の初期には、たまたま財源が豊かだったから、結果的に職人たちは潤った。だが、それは偶然の結果なのであって、制度そのものの目的ではない。

 たとえばフランス革命の前には、貴族階級の人間たちは、非常にいい暮らしをしていた。でも革命によりほとんどが零落した。かれらも制度の変更に対してはずいぶん不満があったに違いない。ただ中世には王政が時代に合っていたから貴族が豊かになったのであり、彼らを豊かにするために王政というものが生まれたわけではない。原因と結果をはき違えてはいけない。それを「俺たちは今までのように良い暮らしがしたいから、制度を変えるな」なんて言ったって、歴史は嗤って踏みつぶしてゆく。それと同じだ。

 既得権を守ろうとしていくら抵抗したって、世の中の変化には逆らうことはできない。財務省(とその手下の厚労省)は「日本すし会」とせめぎあいをしながらも、「リフィルメニュー制度」を定着させててゆくだろう。また「リフィルメニュー制度」のみならず、いままですし職人たちを守っていたさまざまな規制は、ひとつひとつ外されてゆくに違いない

 あたしはすし学校で職人の卵たちを教えている。すし学生や、見習い職人たちにこういう話をすると、非常に嫌な顔をされる。これはまあ、当たり前のことだ。バラ色に思えている自分たちの将来に、水をさすようなものだからね。

 ただあたしは、「あんたらの将来は暗いよ」って言ってるわけではない。「崩れ行く既得権をあてにしていていいの?」と、若い彼らに問いかけているわけ

「メニュー作成料」が減るのであれば、その他のところで頑張ればいいじゃないか。たとえば包丁の腕を磨けば、誰が作っても1回あたりの報酬が決まっている「メニュー作成料」なんかどうなったって、生きていける。

 本音を言えば、みんなが心配しているのは、自分がどうなるかってことだろう? すし職人全体の生活ではないはずだ。だったら、「すし職人たち全員を守る制度」を守るためにエネルギーを使うよりも、自分の技を磨くことにエネルギーを使った方が、ずっと効率が良い。きわめて明快な理屈だ。

 だから、「今後、すし業界は大丈夫ですかね」なんて若手に聞かれたら、「そんな心配してる暇あったら、他人の持ってない技を磨けよ」ってあたしは答えている。あたし自身だって、どうすれば他の職人よりうまく寿司を握れるか、いつも考えている。

 おっと、今回も長くなっちまった。

 それではここいらで失礼する。包丁さばきのトレーニングをする時間になったんでね。また今度。