諸行“有料”―ぼくが般若心経を覚えたわけ

もしかしたら、こういう事だったのかもしれない

 

 世の中には般若心経というものがある。仏教の経典の一つだ。すべてのものは移り変わり、同じくとどまるものは何一つない、ということが書いてある。言っていることは身も蓋もないのだが、それこそがまあ人生の真理なのであろう。

 ところで、ぼくはこの般若心経を、一通り覚えている。最初から最後まで一字一句間違えずに暗唱しろ、と言われると、ところどころ怪しいところはある。しかし今でも、2日くらいの準備時間をもらえれば、諳んじることができる。けっこう真剣に、般若心経のことを勉強した時期があるからだ。

 なぜワタクシが、般若心経を覚えたのか

 これは、ある高貴なお坊様のお導きによるものだ。今回はそれを書きますので、読んでやってくれんとね(なぜか九州弁)。流れがわかりやすいように、時系列で書くことにする。

 

修行その壱:母の四十九日から納骨まで

 ぼくの母は北九州小倉の出身である。1960年代に、山口県下関の出身であるぼくの父親と結婚して上京し、2003年に逝去した。

 母は、郷土愛の強い人間であった。東京に暮らしていても、旧友たちに会うために年に何回も小倉に帰っていた。同窓会などがあれば、かならず参加していた。だから母が逝去したとき、遺骨を郷里に収めてあげればきっと喜ぶであろうと、ぼくは考えた。今にして思えば、単純な考えであったが。

 四十九日を東京で済ませたあと、母親の実家に近いお寺に、遺骨をしばらく置かせてくれないかと電話をかけてみた。

 お寺の奥様が電話に出た。和尚様の奥様は「大黒様」というから、以下、この奥様のことを「大黒様」と記す

 ぼくは、母の遺骨を安置させて欲しい旨を、大黒様にお話しした。

 大黒様は、ぼくが東京に住んでいることを聞いて、不機嫌な声を出した。「うちでは北九州の方以外は、お骨はお預かりしてないんですよ」という。さらに「納骨堂は今いっぱいで、何年か先まで順番待ちなのですよ」という。

 ぼくはがっかりした。しかし地域の皆様の信仰を守るというのは、お寺さんの在り方として筋が通っている。また、順番を守らなくてはいけないのは、社会のルールだ。それで「ありがとうございました。では別のお寺さんに頼んでみます」と告げた。

 大黒様は「申し訳ございませんね。ところであなた、ご職業はなんですか?」とお聞きになった。

 ぼくの職業と、母の納骨とは何の関係があるのであろう?ぼくは疑問に思ったが、素直に「外科医をしております」とお応えした

 奥様はなぜか、急に上機嫌になった。外科医にもいろいろあって、ぼくはかなり貧乏な方の外科医である。ところがどうも大黒様は「外科医=リッチ」とお考えのようなのだ。「本当は、納骨堂はいっぱいなんですけど、特別に空きがあります」という。

 ぼくは理系の人間なので、彼女の言う意味がよく分からなかった。例えば飛行機の座席が200あるとする。その場合200枚の切符を売ってしまうと、もう空席はないはずだ。200-200=0のはずである。

 ところが大黒様の論理によると、200-200=1ということらしい。この論理がどうしてもわからなかったのだが、こちらは仏門については素人である。ニュートン力学の常識では、量子力学は理解できないではないか。同じように、ぼくの常識では推し量れない、深い理(ことわり)が、仏の世界にはあるのであろう。そう思って、とりあえず大黒様のご厚意に甘えることにした。

 電話をかけた1か月後に、お骨を持って小倉にある、そのお寺を訪れた。

 大黒様ならびに和尚様は、いきなり料金の話に移った。お骨を納骨堂で保管していただくには、保管料が必要である。この保管料は、電話でお聞きした時には、福沢諭吉(新円だと渋沢栄一だろう)40人ということであった。

 ところが和尚様は、ぼくに福沢諭吉60人を要求した。ちなみに、今回は尊いお寺様の話であるので何円とか何ドルとかいう記載はなるべく避ける。かわりに「諭吉」という言い方にする。

 なぜ20人もの多くの諭吉を請求するのであろうか?そんなに福沢諭吉のファンなのであろうか?もしかしたらぼくが、福沢諭吉が創設した大学を卒業したせいかもしれない。しかし、ぼくは卒業校のことまでは大黒様にお話ししていないはずだ。信徒の素朴な疑問に答えるのも、和尚様の職務の一つであろう。それでぼくは、なぜ20人多くの諭吉に登場を願うのか、和尚様に、おそるおそるお尋ねしてみた。

 そうすると和尚様は「遠くに住んでいる人だと、どうしても時々しか来てくれないから」という。

 つまり納骨堂を頻繁に訪問するよりも、まれにしか訪問しない方が、余計に料金をチャージされるシステムになっているらしいのだ。非常に独創的な課金システムである。

 たまにしか来ない方が「割高」になるのは、話はわかる。例えば東京ディズニーランドに、1週間のうち何曜日に来てもいいパスポートが、年間7万円だったとする。

 このとき、「金曜日だけ入場できるパスポート」があったとする。1週間が7日だからと言って、「金曜日だけ入場できるパスポート」が年間1万円というわけにはいかないであろう。おそらく2万とか3万とか、単純に7等分するよりも、少し割高になるであろう。

 ところがこのお寺では、金曜日だけのパスポートの方が、毎日来てもよいパスポートよりも高いのである!時々しか来ない方が「割高」になるのは理解できる。しかし「高く」なるのは、経済学的常識に照らすとおかしいのではないだろうか?

 そう思ったのであるが、仏の世界のむつかしい理は、俗人であるぼくに、解ろうはずもない。誤った道に迷いこんで、地獄にでも叩き落されたらたまったものではない。釜ゆでとかにされるのは嫌だ。熱いし。それで、お坊様の言葉に、だまって従うことにした。

 お坊様は現金で支払えという。ぼくは40人の諭吉は携えてきていたのだが、60人も連れてきていない。財布の中にいた諭吉を足し合わせても、15人ほどの諭吉がまだ不足していた。そこでぼくは北九州銀行へ走っていって、25人ほどの諭吉を引き落としてきた。

 お坊様は60人の諭吉を受け取ると、おもむろにぼくら遺族を本堂にいざなった。そこで「納骨の儀」が行われた。お坊様は10分くらいお経を読むと、再び納骨堂にぼくらを案内し、コインロッカーのようなクローゼットにお骨を安置させた。

 ここで再び大黒様が出てきて、「法要料」として諭吉10人を、ぼくに要求した。これにはびっくりした。納骨料として60人の諭吉を渡しているのに、さらに10人を支払うのか

 レストランなどでは、飲食の料金に加えて10~20%を「サービス料」としてチャージするところがある。ぼくはそういう店にはなるべく行かないようにしている。そもそも飲食料金はサービス料金の包含を前提として、設定されている。だから原材料費が2000円のステーキの値段が、8000円にもなるのだ。それなのに新たにサービス料をプラスするのはおかしい、というのがぼくの持論である。二重課金ではないか。

 ところが人間の心理とは不思議なものだ。ぼくはそのとき、大黒様の要求を不条理とは感じずに「15人ではなくて25人の諭吉を引き落としてきて良かった!」などと思ってしまったのである。お経にはトランス効果があるといわれている。先ほどありがたいお経を聞いたせいで、ぼくは一種の催眠状態に陥っていたのかもしれない。それで恭しく、余っていた諭吉の中から10人を大黒様に差し出した。

 大黒様はそれをふんだくって、いや、受け取ってくださった。領収書などくださらなかった

 ぼくは、所得税(もしくは法人税)はどうなっているのか気になった。商売をやっている人たちにとっては、税務署は鬼より怖いという。しかしお坊様は御仏のお使いなのであるから、税務署なんか小指の先で追い払えるに違いない。

 また、大黒様はぼくに試練を課しているのかもしれない。仏教では人がなくなると、三途の川を渡るという。三途の川の脇には奪衣婆(だつえば)という妖怪がいて、川を渡ろうとする人々の衣服をはぎ取るという。ぼくもおそらく死後は、そのような目に合うことになるのだろう。その際にぼくが狼狽しないように、レーニングの意味でお金をはぎ取ってくださっている可能性もある。きっとそうに違いない。

 とにもかくにも法要を終えて小倉から東京に帰るときには、ぼくの財布はすっかり軽くなっていた。現金の手持ちがほとんどなくなってしまったので、新幹線の駅弁が買えず、ポテトチップを食事代わりにした。

 

修行その弐:1周忌

 8か月ほどのち、一周忌が執り行われた。ぼくは再び小倉に行った。母の親類縁者10数人が集合し、読経と法要がなされた。法要が終了した際、ぼくは謝礼をお坊様に渡した。

 何人の諭吉を渡すべきか、ぼくはかなり悩んだ。一周忌における謝礼の相場がわからなかったからだ。ネットで調べると、「諭吉3人から10人」と書いてある。幅がありすぎる

 ぼくは考えた。「納骨の儀」では、すでに大量の諭吉をお坊様に支払ってある。ゆえに、今回はそれほど大勢の諭吉をお渡ししなくてもよいのではないだろうか?そこで、5人ほどの諭吉を封筒に入れてお渡しした。

 お坊様は封筒を、大黒様にお渡ししたあと、ぼくを接客室に案内した。接客室にはなぜか、若いアイスホッケー選手の写真が、ところ狭しと飾られていた。さらに、彼の来たユニフォームや、獲得したトロフィーなども陳列されている。

 アイスホッケーの選手は、お坊さまのご子息ということであった。京都に龍〇大学という、仏教系の学校がある。ご子息はそこで学びながら、アイスホッケーに打ち込んでおられるということであった。

 お坊様は、アイスホッケーという競技を行うには、いかに多くのお金がかかるのかを力説してくださった。それはそうだろう、とぼくは思った。スケートリンクを借りるのには高いお金を支払う必要があろう。防具やスティックも高そうだ。怪我をすることもあるだろうから、保険などにも入っているのかもしれない。

 ぼくは、初めは興味深くお聞きしていた。しかしお坊様があまりに長い時間、アイスホッケーのお話を続けるので、次第に考え始めた。なぜゆえにお坊様は、アイスホッケーについて、微に入り細にわたってご講義をしてくださるのであろうか?とくに、この競技には非常にお金がかかることについては、繰り返し説かれている。ぼくは法要に来たのであって、アイスホッケーのことを勉強しに来たのではない

 しかしお話をしてくださっているのは、徳の高い(はずの)お坊様である。きっと、ぼくのような俗人には解らない、仏教の奥義を伝えてくださろうとしているに違いない。そういえばアイスホッケーのスティックは、警策(きょうさく)に似ている。警策とは座禅の時に僧侶が持っている棒だ。禅を組むものの心に邪心が起こらぬように、肩を「びしっ」と叩くあれだ。お坊様の息子さんがなぜアイスホッケーをされているのかさっぱり訳が解らないが、もしかしたら将来、お父上を継いで僧侶になった時に、警策を使う訓練をしているのかもしれない

 お話をお聞きしているうちに、大黒様が応接間の入り口にやってきた。

 大黒様はお坊様を手招きして外にいざなったあと。なにやらひそひそ話をし始めた。「お布施」という言葉が漏れ聞かれる。密談が終わると、お坊様はぼくの前に戻ってきた。

 先ほどとは打って変わって、険しい顔をされている。お坊様は「ちょっとこっちへおいでなさい」と、ぼくを本堂にいざなった。そして天井を指さした。天井は金箔で葺いてある。お坊様は言われた。「来年にはこの天井をふき替えるつもりなんですよ」

 ふき替えには諭吉が600人ほど必要だという。

 さらにお坊様は「お布施」という言葉についての解説をし始めた。「お布施とは、感謝の気持ちを表すものですよ」という。

 それは解っているつもりだった。感謝を込めて5人の諭吉をお渡ししたのだが、なにか問題があったのであろうか?

 ぼくは、お坊様の話の連続性のなさに戸惑っていた。お坊さまは最初、アイスホッケーの話をされていた。それが突然、天井の修理費になった。そして今は、お布施の意義について説いてくださっている。話題について、まるで論理的な相関性がない。

 例えば、「アイスホッケーの話からカナダの話になり、それが発展して為替レートの話に移るのならば、話の流れに違和感はない。「アイスホッケーはカナダが強いですよね。円安のせいで、カナダに行くのもなかなか大変になって…」という感じである。

 しかし「アイスホッケー」「天井」「お布施」の三者を、どのように関連付けたらよいのであろうか?ぼくには全く見当もつかなかった。

 「アイスホッケー」と「天井」は、何とか結びつけることができる。「このあいだアイスホッケーの試合を見ていたら、選手が打ったパックの勢いが強すぎて、天井に当たったんですよ」という風にだ。

 しかし「お布施」と結びつけるのはかなり苦しい。「天井に当たったパックが落ちてきて、お布施に当たったんですよ」などと言おうものなら、吉本の芸人でなくとも「なんでホッケーリンクに、お布施が置いてあるねん!」と突っ込みたくなるであろう。

 不可解さに困惑するぼくをみて、和尚様は「反省しているな」と思ったのであろう。再三、「お寺の経営も近頃は大変だ」「本堂の維持は、かなりお金がかかるものだ」「アイスホッケーにも相当な費用がかかって…」という言葉を繰り返しながら、ぼくを寺から解放した。寺の玄関を出るときにふと見ると、黒塗りのベンツが、お庭に鎮座していた。

 

修行その参:お葉書ならびにお電話によるお導き

 ぼくは東京に帰ってしばし平穏な日々を送っていたが、2週間後にお寺からお葉書が送られてきた。「本堂の修理を行いますので、ご寄付をお願いします」とある。諭吉30人が1口で、最低でも1口は寄付して欲しいそうだ。

 ぼくは豊かではない。母の葬儀にもかなりの出費があったし、納骨堂の管理費や「納骨の儀」にもかなりの諭吉をお支払いしてある。東京から小倉まで往復する費用だって馬鹿にならない。さらにこちら側の勝手な都合ではあるが、住民税を払い終えたばかりの時期でもあった。

 ぼくは外科医をしているが、手術を終えて患者さんが退院したあと、患者さんにご寄付をお願いしたことは、いままでただの一度もない。ベンツだって持っていない

 和尚様のご要求にお応えできなくても、地獄に落とされることはないのではないだろうか?そう思ったので反応せずに放っておいた。

 ところがさらに2週間ほどして、大黒様じきじきに、ありがたいお電話を受けたのである。大黒様は「お葉書、お送りしましたよね」という。嘘をいうと閻魔様に舌を抜かれるので、ぼくは「はい」とお応えした。

 「和尚がお話したはずですが、お布施とは感謝の心なのですよ」と言う。

 ぼくは考えた。「お布施が感謝の心を表す」のが正しい命題としても、「感謝の心はお布施でしか示せない」という命題は、必ずしも真ではないのではないか?今度、数学を専門にしている友人に聞いてみよう。

 考えているぼくに、大黒様は畳みかけた。「本堂が立派になれば、お母さまも喜ばれますよ。

 これもまた難解な理論である。母の遺骨が安置されているのは納骨堂である。本堂とは別の建物だ。本堂と納骨堂とは20メートルほど離れている。たとえばぼくの隣の家が改築しても、ぼくの居住環境は変わらないだろう。それと同じで、本堂にある天井の金箔が新しくなったとしても、故人にとってはあまり変わらないのではないか?

 しかしそれは悟りを得ていない俗人の考えで、お寺さんの世界では常識を超越した論理が存在するのかもしれない。やはりまだまだ、ぼくの修行が足りないのだろう。

 落胆しつつ、「ありがとうございます。よく考えさせていただきます」と答えた。

 「信心はかたちで表してくださいね!」大黒様はドスの利いた声で何度も念を押しつつ、ようやく電話を切ってくださった。

 ぼくの職場である、病院にもときどき「誠意を見せろ」という方がおいでになる。医者や看護師の態度に不満があったり、待たされる時間が長かったりした際に、サービス改善を求めてそういう要求をする。

 意見を呈示してくださるのは大変にありがたいことだ。しかしこちらとしては、もともと誠意をもって仕事をしている。だから「誠意はお見せしているつもりですが」とお答えするしかない。

 そうすると彼らは激高して大きな声を出されたりする。発声の練習をするのは、ストレス解消のためにはとてもいいことだ。ぼく個人としても、元気のいい方は大好きだ。しかし他の患者さんの迷惑になるのは困る。したがって泣く泣く、高松東警察署のおまわりさんにお電話することなることになる。

 大黒様の「かたちで表しなさい」という言い方は「誠意を見せろ!」というヤンチャな方々と、少し通じるものがあるように、ぼくには思われた。

 しかし大黒様と、〇クザの方々とが同じなわけはない。両方とも人相は悪いけれど。やはりぼくの修行が足りないせいに違いない。ぼくはもっと、仏教のことを知らなくてはいけない。そう思ったので、仏教の基礎を学ぶことに決めた。

 

修行その四:般若心経との出会い

 数ある経典の中でも、最も有名なのは、般若心経である。仏教にはいろいろな種類のお経がある。だがそれらのエッセンスは、すべて般若心経に通じるという。そして幸いなことに、般若心経に関しては数多くの解説書がでている。ほとんどが素人にも解りやすいように、やさしく書いてある。

 それで本屋さんに行って、「やさしい般若心経」という本を購入してきた。

 読んでみると、これがなかなか面白い。ぼくはそれまで、お経というものは、無味乾燥な漢字の羅列かと思っていた。しかし学び始めてみると、おのおのの言葉は周到に配置されており、修辞にも工夫が凝らされていることに気が付いた。

 たとえば、構造が対称な繰り返し部分が織り込まれている。「色即是空、空即是色」などがそうだ。また、似たようなフレーズが続く箇所がある。「不生不滅、不垢不浄、不増不減」などである。こうした規則性があるので、思ったよりもずっと覚えやすいこのである。

 これに加えて、お経というものには音楽性がある。声に出して読んでみると、何となく心が清らかになった気がする。それで手帳に般若心経を書き写して、暇なときに見返していた。するといつのまにか、だいたい覚えてしまった。

 

修行その五:和尚様および大黒様へのお別れ宣言

 般若心経は幾千年にわたる、人類の叡智の結晶である。数週間だけ学んだぼくが、般若心経を理解したというのは、うぬぼれもいいところだろう。しかしこのお経は「物事にとらわれるのはやめなさい」という、お釈迦様のお言葉のように思われた。そう考えると、ふっと心が軽くなる気がした。

 目下のところぼくを悩ませているのは、「本堂の天井を修理するから諭吉を30人以上払え」という、お寺さんからの要求である。和尚様および大黒様からのありがたい要求であるので、お断りするのは気が引ける。もしかしたら、死後に地獄に堕ちて、針の山に登らされるかもしれない。それは痛いから嫌だ

 しかしいくら和尚様と大黒様が偉かったとしても、お釈迦様には及ぶまい。そしてお釈迦様は「物事にとらわれるのはやめなさい」とおっしゃっておられる。だとしたら、和尚様と大黒様の要求に「とらわれない」選択をしても、お釈迦様に応援していただけるのではないか!

 そうだ、そうしよう。お釈迦様に味方になっていただければ、死んだあとに針の山に登らされなくても済むに違いない!

 現実的な問題として、ぼくの仕事も大変になってきていた。そのころぼくはまだ30代で、外科医として脂の乗り始めた時期だった。一例でも多くの手術をこなしたいので、休みはあまりとりたくなかった。法事のたびに寺に来なさいと和尚様には厳命されている。しかし東京から北九州まで何回も往復するのは大変だ。それに、お寺に行くたびに多量の諭吉を請求されると思うと、気が重い。結論から言えば「故郷に遺骨を安置してあげたい」という最初の考えは、単純すぎたと認めざるを得ない。

 それで、墓地を東京近郊に購入して、そこにお骨を移し替えることにした。

 2か月ほど探した。タイミングよく、よい霊園が千葉県の柏に見つかった。それで、お寺に電話をおかけした。

 大黒様が出た。

 ぼくは、北九州にたびたび伺うのはなかなか厳しいこと、お寺さんに心配をおかけするのは申し訳ないので、お骨を千葉の墓地に移し替えようと思っていることを、お話した。

 大黒様は、「それなら最初からうちの寺に来なければよかったのに」とおっしゃった。

 まことにその通りである。だけど、ぼくが外科医であることを知ると、急に納骨堂を空けてくれたのは誰だったっけ?そうは思ったが、お骨はまだお預けしたままである。故人の手前、あまり大黒様を怒らせたくはない。

 それで「畏れ入ります。近く、お骨を取りに伺いますから」と話した。

 大黒様はガチャっと電話をお切りになった

 

修行その六:お骨の引き取りと「般若心経デビュー」

 大黒様(ならびに和尚様)のご機嫌を損ねたぼくは、「やばいな」と思っていた。母はもう故人になってしまっているから、危害を加えられることは、まずなかろう。しかしお骨がお寺さんにとって「招かれざる客」になってしまったことは、いくら鈍いぼくにも、よくわかった。そういう状況でお骨をおいておくことは、気がひける。

 それで万難を排して時間を作り、北九州にお骨を取りに行くことにした。大黒様に電話をかけて、お寺さんに伺う日時を告げた。

 大黒様は不機嫌な声で「じゃあ、わかるようにしておきますから」と言った。

 なにが「わかる」のかがよくわからなかったが、不興を買った手前、詳しくは聞けない。ぼくだってそれくらいの遠慮はするのである。

 

 ともあれお伝えしておいた日時に、ぼくはお寺を訪れた。7月初旬の、暑い日だった。

 小倉に在住している叔父が、同行してくれた。この叔父は何年か前に逝去してしまったのだが、かなり腕っぷしが強く、若かりし頃には小倉商業高校で番長をしていた。子供だったぼくは、いつもあこがれの目で彼を見ていた。

 お寺は小倉駅から離れているので、お骨を移送するためにはどうしても車が必要だ。しかしタクシーだと、お骨を乗せるのを嫌がる可能性がある。それで前もって、ぼくが車を出してくるよう、叔父にお願いしておいたのである。叔父は腕っぷしが強いから、和尚様ならびに大黒様と武力衝突が起こっても、頼りになるはずだ。

 お寺の玄関にたどり着くと、若い男が出てきた。近くの専門学校生で、アルバイトで留守番をしているとのことであった。

 ぼくは、東京からお骨を取りに来た旨をお伝えした。

 学生は「お聞きしておりますよ」答え、ぼくら二人を納骨堂にいざなった。

 母の遺骨を納めたクローゼットの扉は空き放たれ、お骨が取り出せるようになっていた。ぼくはお骨を取り出すと、「和尚様にご挨拶したいのですが」と言った。

 すると学生は、和尚様の伝言を教えてくれた。「ご自由にお持ち帰りください。

 この言葉を聞くと、叔父は色めき立った。

 「『ご自由にお持ち帰り』とは何事だ。荷物じゃねえんだよ!

 学生に文句を言おうとする叔父を、ぼくは引き留めた。学生は和尚様のお言葉をそのまま伝えているだけで、彼自身には何の咎(とが)もない。

 それに、ぼくとしては少しほっとしていた。電話で大黒様は、かなり怒っておられた。和尚様も怒っておられるであろう。応接間で見かけた、アイスホッケーのスティックを持って殴りかかられたらどうしよう。そこまでいかなくとも、嫌みの一言くらいは言われるであろう。それに比べると、居留守くらいかわいいものだ。

 それよりも、ぼくは別のことが気になっていた。1年前にお骨を納めた際には「納骨の儀」が行われた。「納骨の儀」があるのならば、お骨を引きとる際にも「退骨の儀」が必要なのではないか?

 荷物ならば勝手に持って行っても問題はないであろう。しかし何と言っても「お骨」なのだから、クロネコヤマトの宅急便よろしく、あっさり持ち出すべきではないのではないだろうか。といって、和尚様はおいでにならない。

 仕方がないので、自分で念仏を読むことにした

 幸いにして般若心経はだいたい覚えていたし、手帳にも書き写してある。本堂を勝手に使って、念仏を唱えてやろうかとも思った。

 しかしながら本堂の天井を修理するための「ご寄付」はしていない。だから大黒様が突然出てきて、「本堂使用料」として諭吉を何十人も請求される可能性もある

 そう思って、納骨堂のクローゼットの前で「般若心経」を唱えさせていただいた。

 もうここに来ないで済むと思うと、晴れ晴れする思いであった。

 実はぼくは、手切れ金、いや「退骨の儀」の謝礼として10人ほどの諭吉を準備していたのである。これは、自分にあげることにした。だって、念仏を唱えたのは自分なのだから

 学生には諭吉は多すぎると思ったので、樋口一葉を一人、渡してあげた。みたところ二十歳になるかならないかのその学生は、嬉しそうに受け取った。車を出してくれた叔父にもお礼をしようとしたが、叔父はどうしても受け取ってくれなかった。

 お骨を叔父の車に運ぶ際に、寺の庭を通った。見覚えのあるベンツが停まっていた。夏の太陽が黒い車体に映っていた。

 

修行その七:その後

 以上が、ぼくが般若心経を読むことができるようになった顛末である。

 小倉のお坊様と大黒様には、本当に感謝している。彼らは、ぼくから大量の諭吉をふんだくる、いや徴収することによって、ぼくの金銭に対する執着に喝を入れてくださった。そのおかげでぼくは無常観に目覚め、般若心経に興味を持った。あまつさえ、自分で唱えることすらできるようになった。お坊様ならびに大黒様は悪徳、いや徳をもってぼくを導いてくれたわけだ。

 母の遺骨は、千葉県の柏にある、ある霊園に移した。この霊園は無宗派であるので、法事を行う場合でも特定のお寺さんにお願いする必要がない。3周忌や7周忌など、しっかりと行うべき法事の際には、ぼくは霊園を通じてお坊さんの手配をお願いする。

 霊園はお坊様のコミュニティに連絡を取ってくれ、日時の合うお坊さんがおいでになってくれる。つまりはパートタイムのお坊さんにお願いするわけであるが、明朗会計である。法事の規模に応じて諭吉3人とか5人とか指定してくださるので、本当に助かる。

 お盆やお彼岸には、ぼくは自分で般若心経を読む。自分でも「プチ法事」が行えるようになったのは、お経を覚えたからこそである。それもこれも、あのお坊様のおかげである。本当に感謝の言葉しか見つからない(笑)。

 

 母のお骨の件でお寺さんともめてから、もう20年も経ってしまった。

 お坊様はお元気であろうか?お寺さんが今どうなっているのか検索してみた。伝説上の動物を名前に含む、そのお寺のホームページは簡単に見つかった。若い僧侶が奥方と二人、幸せそうに写真に写っている。どうやらアイスホッケーの息子さんが、あとを継いだらしい。

 写真では、なかなかの好青年に見える。大学時代にアイスホッケーに打ち込んだおかげで、スポーツマン精神を身に着けたのであろう。良かった、良かった。

 でも君のホッケースティックの何本かは、ぼくの払った諭吉が化けたのですよ。だからお父様に、あんまり怒らないように言うといてや(九州弁)!