せとうち寿司親方ブログ4ー「基礎すし学」と「実践すし学」

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こういう寿司は…食いたくないよね。

 「せとうち寿司」シリーズも今回で4話目になる。

 すし職人は世の中にたくさんいる。また、寿司は日本人の生活に密着している。

 そうでありながら、すし業界の外にいる人間にはほとんど、すし業界の内情はわかっていない。「名の通ったすし屋だからだ」とか、「あそこの店にはいつも客が入っているから」とかいう理由で、食べに行く店を決める人間はとても多い。というより、ほとんどの人間がそうなんじゃないだろうか。

 しかし、名の通ったすし屋だとしても、そこにいる職人の腕がいいとは必ずしも限らない。極端な例だが、〇クドナルドは、日本はおろか世界でも知らない人間はいないくらいの有名チェーン店だ。景気が悪くなっても、いつでも〇クドナルドの前には行列ができている。

 だからといって、〇クドナルドの料理(?)が世界最高というわけではないだろう?

嘘だと思ったら、あんたの彼女もしくは奥さんの誕生日に、記念だからといって〇クドナルドに連れてったらいい。その結果はどうなるか、責任取らんけどね。

 こんなことは少し考えれば当たり前なんだが、人間というのは必ずしも合理的な判断をするとは限らない動物だからね、あたしも含めて。

 

 うちの店によく来る医者も、酔っ払ったらよくブツブツ言ってる。奴はケーセーゲカとか言って人間の体の形を治すのを専門にしている医者だ。

 奴曰く、同じくケーセーゲカと言っても、女性のお肌の色つやを良くするのをもっぱら専門にしている奴もいるし、胸の形をよくすることに命かけてる奴もいる、頭の形を治すのを得意にしているのもいるし、ネズミの手術ばっかやってる奴もいるんだと。

 皮膚の美容を専門にしている医者の所へ行って、胸のかたちを治してくださいと言ったってそれは無理というものらしい。逆もまた然りだそうだ。

 患者さんが最高の結果を求めようと思うのならば、医者にかかる前に、その医者が、何が得意なのかをよく調べるべきだ、と奴はいつも言っている。

 これは寿司の世界でもまさに当てはまる。

 すし学校の親方と言えば、寿司業界のオーソリティーである。

 しかしだからと言って、寿司を握るという点において、一流の腕前を持っているとは限らない。

 これはとても変な話だろう?字面だけ見ると、すし学校は、鮨を握る技術を若い職人たちに教える場所じゃないか。だったらそこの親方は、すしを握るのは誰よりもうまくなくてはいけないよね?

 ところが実際は、必ずしもそうなってはいないんだ。

 これを理解するには、すし業界の裏事情をよく知らなくてはいけない。

 あたしが(すし業界における一部勢力の批判を浴びつつも)このブログを書いているのは、普通の人々が、すし業界の事情をもっとよく知れば、もっと美味い寿司を食べられるようになると思うからだ。

 

 

 今回は「基礎すし学」と「実践すし学」の話をする。

 江戸時代とか明治時代は、「すしを握る」ということは極めて簡単なことだった。

 魚河岸へ行って魚を買ってきて、それを切って飯の上に乗っければ、それで鮨の完成。きわめてわかりやすい。

 ところが近代に入って、状況はどんどん複雑になっている。

 人口増加と乱獲のせいで、海にいる魚は年を追うにつれ減少している。

 また日本以外の国においても、すしは人気が出る一方だ。

 そうすると、それらの国々の職人たちの技術もどんどんと向上してくる。日本人も顔負けの技術を持つ職人がいろいろな国で育ってくると、もはや寿司は日本独特のものだとは言えなくなってしまう。

 日本政府が、「すし保険」ならびに「すし学校」という制度を作るに至ったのは、すべての日本人に安定して鮨を供給するためである、とブログの第1話で述べた。

 しかし理由はそれだけではない。日本発の文化である「すし」というものについて、外国にお株を奪われないようにすることも、同じくらい重要な狙いなんだ。

 わかりやすく説明しよう。たとえば今、世界でもっともワイン文化の進んだ国はどこか、と訊かれたとするね。

 そうすると、100人中、95人はフランスだと答えるんじゃないだろうか。

 ところが歴史的には、ワインの発祥の地はフランスではない。

 ワインはローマ時代に、すでに愛飲されていた。

 地中海の温暖な気候がブドウの成育に向いていて、そのブドウを発酵させたらワインができたわけだ。

 すなわちワインの本場はもともとローマ、つまりイタリアなわけだ。

 ところが現在においては、イタリアでもそれなりのワインを造っていることは造っているけれども、こと高級ワインとなるとフランスには及ばない。

 フランスの醸造家が精魂を込めて、少しでも良いワインを造るように永い年月をかけて研究した結果、フランスの水準がイタリアを追い抜いてしまったわけだ。

 寿司についてもこの現象が起こりうる、と日本政府は危機感を抱いた。

 寿司は文句なく日本発祥の食文化で、かつ、現在のところは日本が世界的にもトップの水準を走っている。

 しかし、他の国のすし職人たちだって、創意工夫をつくしている。

 例えばアメリカのすし職人は海苔巻きをひと工夫して、アボカドを使って独特な寿司を考え出した。いわゆるカリフォルニア巻きだが、これはなかなかの発明だとあたしは思う。

 

 さらに中国やフランスなんかの料理人は、アメリカ人よりももっと舌が肥えている。

 またカニイクラ、鮭みたいな、鮨の素材に対するアクセスは、ロシアの方が日本よりも良い。

 だから、うかうかしていると、いつの間にか「すしと言えばロシア」なんていわれる時代が来るかもしれない。

 そうならないためには、日本の寿司職人だって伝統的な寿司を握っているだけではなく、技術革新をしていかなくてはいけない。

 それも「すし学校」の大きな使命の一つだ、ということだ。

 そこで考えて見て欲しいんだが、先進的な寿司を創出するにはどうしたらよいと思う?

 まず考え付くのは、鮨を握る新たなテクニックを開発することだ。

 例えば、「〇いしんぼ」という有名なグルメ漫画に出ていた例を挙げよう。

 ウニの軍艦巻きと言うものがあるよね。シャリを海苔で巻いて、その上にウニをのっけるあれだ。

 その軍艦巻きを食わされた食通(海〇雄山)が、職人に向かって「同じことばっかりやってないで、ちょっとは技術革新をせんかい!」と激怒した。

 そこで職人は、海苔の代わりにキュウリを薄く切ったので軍艦巻きを作った。

 海苔もウニも個性のある素材であるから、お互いに味がぶつかり合う。

 キュウリを使うことによって、ウニの持ち味をよく引き出せたという話だ。

 こういうふうに、鮨の作り方を変えて、あるいは素材を変えて、今までになかった寿司を創り出すみたいなのは、すし文化における技術革新の一つのあり方だよな。先に述べたカリフォルニア巻きなんかもこのジャンルに当たる。

 

 この軍艦巻きなんかは非常にわかりやすい例なんだが、玄人の世界に入るともう少しレベルが高くなる。

 たとえば、包丁の使い方を変えて、より魚の持ち味を上手く引き出すという試みがなされている。

 寿司でシャリの上に乗っかっているのは、言うまでもなく刺身だ。

 ところが刺身が直接、海で穫れるわけではない。魚を丁寧に包丁で処理して身を切り分け、それを薄くそいで、初めて刺身ができあがる。

 丸の魚を包丁でさばく段階において、包丁の使い方を工夫すれば、刺身の味はかなり変わってくるんだ。

 魚は生き物であるから、骨もあれば血管もある。

 たとえば、アジみたいな小さな魚には小骨がたくさんある。こういう魚を使って寿司をつくる際には、骨をうまく避けないと、歯ざわりの悪い寿司になってしまう。

 逆に言うとだね、アジの体にある骨の位置を熟知した上で、それに気を付けて包丁を動かせば、旨いネタを引くことができるわけだ。

 

 またたとえば、さっき瀬戸内海で上がったばっかりのヒラメを使って寿司を作るとするね。

 その場合、ヒラメのどこに血管があるかを熟知していないと、良い刺身を切り出すことはできない。なぜなら、獲れた段階で漁師が血抜きをしてくれているとは言え、やはり多少の血液は体内に残っているからだ。盲目的に切り分けようとして血管を傷つけたりすると、刺身が生臭くなってしまう。

 でも逆に、ヒラメの血管の位置を熟知していて、それをうまく避けるように刺身を引けば、旨い寿司が握れるというわけだ。

 こういうふうにだね、鮨の素材である魚の構造を詳しく理解することは、旨い寿司を握る上で必要不可欠だ。

 昭和の時代までは、すし職人なんてものは単純に数多くのすしをにぎりゃ、それでいいみたいな雰囲気があった。でも時代は進化するわけだからね、やっぱり寿司を握るんだって、頭とサイエンスを使わなきゃいけない。そこで魚の構造について調べることが、「すし学」において研究の対象になりうるというわけだ。

 ところがだね、寿司というもののクオリティを高めるために、もっと異なった角度からアプローチをすることもできる。

 たとえばだ。うまい魚を育てるために、どういう餌を配合すれば良いのかを研究している人間たちがいる。海洋資源はどんどん乏しくなっているから、すしを作るための魚は天然のものだけでは足りない。だから養殖しなくてはいけない。牛にビールを飲ませると良い牛肉が作れるそうだが、それと同じで魚だって何を食べるのかによって、ずいぶんと味が変わってくる。何を魚に食べさせると肉質が良くなるのかを研究することで、魚の味がよくなり、つまりは寿司を美味く作ることができる。

 あるいは、さらに一歩進んで、魚の細胞を育てている人間たちがいる。活きた魚の細胞をとって、魚の体液に似た組成の液に浸しておけば、細胞は育ってくれる。こうやって細胞を育てて増やすことができれば、環境変化やなんかで獲れる魚の量がガクッと減ったりしたとしても、安定して寿司ネタの供給ができる。

 

 さてここまで、以下4つの試みを挙げた。

 A. 素材の組合せを研究する(海苔→キュウリ)

 B. 魚の構造を理解する(血管や骨の位置)

 C. 魚の味を良くするために、飼料の工夫をする

 D. 寿司ネタを作るために、魚の細胞を培養する

 

 これら4つの試みが、広い意味で見るとみんな、うまい寿司を作ろうという方向にベクトルが向かっているのは、これは間違いない

 しかしだね、上のAからDまでの研究をやっている職人が一人ずついたとしてだね。

 あなただったら、どの職人の握った寿司を食べたいと思うだろうか?

 いろいろ意見はあると思うんだが、あたしはAもしくはBだと思う。

 A(素材の組合せを工夫)の職人は、いつも新しい工夫をしようと思っているから、寿司を握るのだって漫然と毎日同じことを繰り返しているわけではないだろう。この海苔は良いとか悪いとか、細かいところまで材料を見ているはずで、だから良い寿司が握れるだろう。

 B(魚の構造を熟知)の職人は、魚の構造にこだわって刺身を引くわけだから、小骨の多い魚だってうまく調理できるだろうし、マグロなんかの大きな魚を切ったら刺身の角がきっかり立っているだろう。こういう職人の作る刺身は美味いだろうし、したがって寿司もうまいだろう。

 ところがC(魚のエサを研究)の職人はどうかというと、少し疑問だ。魚の味を良くすることはもちろん大切だけれども、養殖とか漁獲は漁師の仕事のはずだ。漁師に、焼き魚とか煮魚なんかの、簡単な魚料理をつくらせたら、たしかにうまい料理を作るだろう。材料を選ぶ目があるからね。

 だが、漁師に寿司を握らせるのはどうだろうかね?ちょっと話が違ってくるんじゃないか?寿司を握るという技術は、よい材料(つまり魚)を作るという技術とは、似ているけれど明らかに違うものだ。だから、Cの職人は、少なくともAやBのタイプの職人に比べると、寿司を握るのはうまくないと思うな。

 D(魚の細胞を培養)となるとこれはもはや論外で、おそらく彼らの握った寿司なんて食えたもんじゃないと思うね。人間のエネルギーってものには限りがある、実験室に居る時間が長ければ、寿司を握る時間は自然と短くなる。職人の腕も、落ちる筈だ。

 

 A(素材の組合せを工夫)およびB(魚の構造を熟知)と、C(魚のエサを研究)およびD(魚の細胞を培養)の立ち位置の違いは、わりとはっきりしているよな。AおよびBは、「客の前に立って鮨を握る」という行為に主眼をおいて、それをいかに高めていくのかを追求しているよね。こういうのを「実践すし学」という。

 それに対してCおよびDは、旨い寿司を作りだすには何が必要なのか、ということに焦点を当てている。つまり、鮨というものの土台に着目をしているわけだ。こういうのは「基礎すし学」という。

 あたしはあくまでもすし職人であるから、「客の前に立って鮨を握る」ということに最大の価値観を置く。魚の細胞なんか培養してる暇があったら、一枚でも多くの刺身をさばけよ、と思う。

 ところがだね。これは現場の人間の考え方なのであって、すし学校を運営する側の考え方では必ずしもないんだ。

 「すし学校を運営する側」と言うのは、コクリツであれば日本国の役人であり、私立であれば理事たちだ。

 こういう人たちには、職人の技術の機微がよくわかっていない。「すしを握る」という実践的行為と、「すしを作るのにはどうしたらよいか」という概念が混乱してしまっているんだ。

 だから、例えば京大の山中先生みたいにノーベル賞をとる日本人が現れて、ある科学技術の分野がブームになると、「じゃあiPS細胞を使って革新的な鮨を作らんかい!」みたいな、メチャクチャな発想をする

 そして、流行とか時代の変化を微妙に読み取って、それに迎合するのが得意な人間は、どこの世界にも必ずいる

 こういうタイプの人は、すしを握る技術をそこそこ身に着けたら、魚の細胞を培養することに血道を上げて、いつの間にか、すし業界の有名人になっていたりするんだね。

 こういうことを言うと、「どういう生き方をしようと人の自由だ、おまえには関係ないだろう」という人も多いだろうな。

 たしかにその通りだ。

 しかしだね。ある職人の名前が通っていたって、その職人が必ずしも鮨を握るのが上手とは限らないと言う事を、国民は知らなさすぎる。日本のすし業界のレベルを上げたいのならば、日本国民はもっと、このことを知っていなくてはいけない。

 その理由を説明する。

 ちょっと前に天皇家が、魚の心臓の部分をつかって造った寿司をつかって、外国の賓客をもてなしたことがある。「なんで心臓の部分が必要になったのか?」と突っ込まれると困るんだが、おそらく宗教的な理由だったんだろう。

 天皇家としては国の面子に関わることであるから、やはり日本でトップのすし学校である、本郷すし学校の職人を呼んで鮨を握ってもらおうとした。

 言い忘れたが、すし学校の親方ってのは1人ではない。

 すし学校にはたくさんの部門がある。魚の骨を専門に調理するのが得意な部門もあるし、眼玉や皮を調理するのが得意な部門もある。

 天皇家は、本郷すし学校の、心臓を調理する部門に声をかけた。

 ところがその部門では、リクエストに応えるだけの技量を持った職人が、一人もいなかったんだ。

 それはなぜかというと、その部門では「いかにして活きの良い心臓を持った魚を開発するか」と言う、生物学的な研究に、職人たちのエネルギーが向けられていたからだ。

 

 本郷すし学校に引き受け手がいないものだから、天皇家はやむなく、お茶の水にある、天命堂という私立のすし学校に、話をもって行った。

 たぶん、皇居にも近くて便利だったんだろう。

 そうするとたまたま、そういう分野を得意な職人がいて、その職人がリクエストに応えた結果、接待は成功した。

 引き受けた職人は、そのすし学校で親方をしているんだがマスコミに誉めたてられて非常に人気が出た。4~5年経った今でも、天命堂すし学校のその親方は、すし業界のヒーローの一人になっている。

 このことは、天命堂すし学校にとってはかなりの朗報だった。しかし逆に、本郷すし学校の面目は丸つぶれだ。すし学校における「すし研究」の方向性があやまってしまった結果、こういう悲(喜?)劇がおこったんだね。

 本郷すし学校の職人たちは、だれもかれも、人間としてのパワーが桁外れている。

だから、彼らがもしも、すし職人の本分である「すしを握る」という事に精進していたのならば、彼らは天皇家のリクエストに応えることができたはずだ。

 ところが、すしを握っている時間より、サイボーのバイヨーをやってる時間が長かったから、職人としての腕が落ちてしまったんだよね。

 ここで考えてみて欲しい。

 もしも心臓のすしを依頼したのが天皇家ではなくて、一般庶民であるアタシやあなたが、「心臓のすし」を握ってくださいといって本郷すし学校に行ったのならどうなっただろう

 本郷すし学校の職人たちはおそらく実力通りの、一流とは言えない出来栄えの鮨を出したであろう。また、われわれにしても「なんか変だ」と思いながらも、「まあ、天下の本郷すし学校のすしだから、間違っているはずはない。こんなものだろう」と納得していたことだろう。

 事は天皇家の絡むことであるから、万が一にも失敗があってはいけないと言う事で、はじめて問題が露呈したわけだよね。

 つまり、すし学校とか権威とかの内情を知らないと、損をしてしまうという話。それだからこそ、すし業界とは縁のない人たちにも、すし業界の内情を知って欲しくて、こんなブログをあたしは書いてるわけさ。

 ちなみに、あたしの属する分野においては、本郷すし学校はどうやら正しい方向に進んでいて、すしを握るのがうまい職人がたくさんいる。魚の心臓をあつかう部門だけが特殊なんだったんだろうな。

 

 すし職人ならば、やっぱり基本的には先ほど述べた「実践すし学」に心血を注ぐべきだ。これはアタシのポリシーだ。

 魚を育てることもたしかに大切だけど、それは漁師さんの仕事。魚の細胞を培養するのも大切だけど、それは学者の仕事。

 

 ノーベル賞の山中先生の握った寿司、みんな別に食べたくないだろ

 まあ、江頭2:50の握った寿司よりは、まだいいけどね。

 ということで、今回はここまで。