なんもない田舎街こそ、通のバカンスだぜ

こういう街がいいんだな

 お盆前の週末に、ふっと時間ができた。そこで足摺岬の周辺を、1泊でぶらっと旅行した。ぼくの住んでいる香川県から高知市までは、車で2時間だ。足摺までは高知市からさらに3時間くらいかかる。しかし運転が好きなので、まったく苦にならない。ぼくは高知県が大好きなのだが、特に夏が良い。南国の気分を満喫させてくれる。

 今回は「土佐佐賀」という地域を楽しむ結果となった

 「楽しむ結果となった」とは、ずいぶん変な言い方だと、みなさま思われることだろう。

 ふつう旅行に行く場合には、先ず目的地を決める。たとえば温泉に行くならば、どこそこの旅館に泊まって、どの料理を食べようなどと計画を立てる。

 ところがぼくのひとり旅に限っては、そういうことはしないのである。

 ぶらっと車で行って、なんとなく気に入った場所を一日中ほっつき歩くだけ

 だから車で通りかかって「おっ!ここ、なんかよさそうじゃん!」と思ったら、そこが旅行の目的地となるのである。

 「そんな旅行が楽しいの?」と、思われる方も多々おいでになるであろう。

 楽しいんだな。これが。

 それに、こういう旅行を重ねると人生観がすこし変わるのである。このことについてはあとで説明する。

 まずは、「土佐佐賀」の駅をご紹介する(図1)。

図1:これが「土佐佐賀」の駅だ!

 これが駅ですが、なにか問題でも?まあ、新宿駅ほどにぎやかではないですけどね。喉が渇いた人のために、自動販売機だってあるのである。もちろん無人なので、駅のホームに勝手に入ったって、入場料なんかとられないのである()。

図2:ホームの様子。当然、無人駅。

 無人駅とて電車は1時間に1本は出ているし、バスだって一日に3便もあるのである(図3)。ちなみにほとんどの電車の目的地は、「中村」というところに向かう。「中村」から東京まで行くのは非常に便利で、電車・飛行機の乗り継ぎが良ければ、たった7時間しかかからないのである。ロンドンなんかより、ずっと東京に近い

図3:交通至便なのである

 「土佐佐賀」の駅は、このように交通至便なところにある。また、都市計画を練りに練って建造したので、駅前でも絶対に渋滞なんか起こらないのである(4)。

 

 

 

図4:渋滞知らずの「駅前通り」

 また、人々の気持ちがおおらかなので、駅前に車を停めたって駐車料金なんか取られないのである。それをいいことにぼくは車を駅前において、この街をさすらい始める。

 駅の近くには立派なスーパーがある(5)。日常必要なものは、コンビニなんか行かなくたって全部、手に入る。

 

 

 

 

 

図5:街で一軒のスーパー。コンビニなんか無い!

 

 レストランは街に3軒あるのである(6)。やはりというか当然というか、カツオのたたきを売っている。おそらく夜になると漁師仲間や町の人たちが集まって来て、酒盛りをやるのだろう。いつか参加したいものだ。

 

図6:街の「中心地」にある居酒屋

 土佐佐賀の駅からここまでは、だいたい15分くらい歩いて来た。建物と建物の間には、田んぼが広がっている(7)。真夏日で気温は35度くらいあるのだが、田んぼに貯まっている水のせいか、歩いてもそんなに暑くない。不思議である。

 

図7:田んぼの中に家が点在している

 

 もちろん住宅街もある(図8。一軒一軒の家に庭があり、壁や瓦に凝った造りをしている。土地が安いから建物にお金をかけられると言ってしまえばそれまでだが、都会にはないタイプの風格がある。京都だとか東京の街も、戦前はこんな感じだったのではないだろうか。

図8:住宅街の通り

 商売柄、病院や医院もチェックする(9)。おそらく近隣の中規模病院の医師が、週に何回か診察に来るのであろう。「夏だけ2週間ぐらい働いてもいいな」など、勝手なことを考える。

図9:街の診療所

 さらに10分くらい歩くと、漁港につく(10)。ぼくのルーツは大分県で、漁民の子孫である。そのせいか船が大好きで、何時間見ていても飽きない(11)。そして船のサイズを見れば、その用途がだいたい推測できる。図11くらいの船は少し小さいので、外海に行くのは心細い。おそらくは、港の近辺で養殖している、カンパチだの鯛だのに餌をやるための船なのであろう。

図10:漁港につく

 

図11:たくさんの船が繋留されている

 ここまで読まれて来て、みなさま「あんたの行きはるとこ全部、ふつうのものばっかりやんか!なんか面白いものあらへんの?(なぜか関西弁)」と思われることだろう。

 だから最初に言うたやないですか。「一日中、ほっつき歩くだけ」って

 でも「こういう旅行をすると、人生観がすこし変わる」とも書いた。

 その話に移る。

 まず、皆さまにお尋ねしたい。

 人は人生の終期を迎える場所を、自由に選ぶことができるだろうか?

 たいていの人は「できる」と思っているのではないだろうか。「生まれてくる場所は自分で選べない。でも死ぬ場所は当然、自分で選べるだろ?」みんな、そう思っているのではないだろうか。

 でも、はたして本当にそうだろうか?

 多くの人は、生まれ育った場所、つまり故郷で晩年をむかえたいと思っている。

 「俺は浅草で生まれた。高校や大学も東京で過ごした。だから死ぬときは、当然、故郷である浅草で死にたい。」

 「私は博多で生まれた。就職は大阪でしたけれど、やっぱり齢をとったら、幼馴染のたくさんいる博多で過ごしたい。」

 そう思っている人が大部分だろう。

 しかし現実は、望みどおりになるとは限らない

 たとえばぼくの友人に、内科の先生がいる。彼は都内で長く勤務医をされていたのだが、先ごろ65歳になられて、勤続していた病院を定年退職された。

 彼は余生をおくるのに十分な蓄えはあるが、医者の仕事はやめたくなかった。働くのを止めてしまうと、老け込む可能性がある。それが怖いのである。

 とはいえ、医者であふれかえっている東京で、働き口は見つからない。だから思い切って、九州のある県に移住してしまった。移り住んでまだ日が浅いのだが、自然の豊かな場所で、楽しく暮らしている。

 結果としてハッピーになったから良いのではあるが、数年前にはその生活を予期していなかったことも事実ではある。

 このように、諸般の事情により、住み慣れた場所を齢とって離れる場合はありうるのである。そして、ひとつの場所(多くの人にとって、それは”故郷”であろう)に対する執着を捨ててしまえば、よりポジティブに残りの人生を過ごせることだってあるのだ。

 幼馴染や昔の同級生は、それは大切だろう。彼ら彼女らと一緒に会うことは楽しいだろう。でも齢をとってからだって、昔の仲間と同じくらい親しい友人を、作れるんじゃないだろうか?

 そういう意味で、人はひとつの場所に縛られる必要はないと、ぼくは思っている。これは、ぼくの歩んできた道にも関係があるかもしれない。ぼくは山口で出生し、東京で修学し、医者になってからは10年くらい、修行で全国各地を転々とした。その後東京に戻ってまた10年くらい働いたものの、40代の後半になって、縁もゆかりもない香川にやって来た。そしてそこに根を下ろして、今年(2022年)でもう8年になる。中国大陸にルーツを持つけれど、東南アジアや新大陸に渡って根を下ろした華僑みたいなものである。

 いろいろな場所を移り住んだものだから、もはや「故郷」への執着心は希薄になっている。「晩年を送るなら、ここじゃなきゃ嫌」みたいな、特定の土地に対するこだわりはない。

 ただ、いくらぼくとて、どこで死んでもいいというわけではない。人と人との間に相性があるように、人と土地にも相性はあるのだ。

 そこで「ここで死ぬことになったとしても、まあ仕方ないな」と、考えているエリアを、ひそかに選定しているのである。ぼくはこのエリアを野垂れ死にOKエリア」と呼んでいる。自分はけっこうやりたいことをやって生きているので、いつかどこかで野垂れ死ぬかもしれない。そうなっても後悔はしない土地はどこか、熟考の上、決めているのである。

 12は、2014年の段階におけるワタクシの「野垂れ死にOKエリア」である。北九州や下関、東京近郊、伊豆などが示されている。北九州ならびに下関は自分の幼少時の思い出の地だ。東京は小児期ならびに学生時代を過ごした、実質的な故郷である。そして伊豆や箱根あたりは、なんとなく好きである。大阪も、理由はわからないが好きである。たぶん住民の気質が自分の性格に合うからだと思う。

 ささやかなわがままを言わせてもらうと、海のない場所で死ぬのは嫌だ。ぼくのルーツは大分県の漁民であるので、これはもう仕方ない。遺伝子に刷り込まれている好き嫌いは変えようがない。山や高原がお好きな方には失礼だが、ぼくは内陸部で死ぬのはカンベン願いたい。

図12: 2014年における「野垂れ死にOKエリア」

 13に示したのは2022年における野垂れ死にOKエリア」である。図12と比べると、瀬戸内海の周辺に、非常に大きなエリアが形成されたのがおわかりだと思う。このエリアの拡大こそ、今回のような、なんもない田舎町をほっつき歩く旅行の成果なのである。

図13:2022年における「野垂れ死にOKエリア」

 「ほっつき歩き旅行」は温泉にも入らないし、ロープウェイにも乗らない。高級なレストランにも行かない。地元の人が行くような場末の飲み屋に行く。

 だからこそ、その土地で暮らしたらどうなるかイメージできる。「もしもここで暮らすことになったら、どういう感じか」がわかってくるのである。

 人々は、長く住んだ土地をなかなか離れられない。それは、その土地を愛するからだと、みんな思っている。だが、知らない土地で暮らすことへの不安も、実際には大きな理由のはずだ。人は未知のものが怖いのである。

 ぼくとて、東京から香川に移り住んだばかりの頃には、よもや「まあ四国で死んでもいいや」と思うようになるとは予想だにしていなかった。しかし香川に来て日々を過ごすうちに、やはりその土地になじんできた。

 さらに、車で高知や愛媛に行ってぶらぶらする回数を重ねるうちに、それらの土地の良さも解ってきた。それで「ここならずっと住めるじゃん(東京弁)」と考えるようになったのである。

 不思議なことに、こうした野垂れ死にOKエリア」の拡大とともに、気持ちにゆとりが生じて来た

 入試に例えると、この気持ちがよく解ってもらえると思う。「ここの学校じゃなきゃダメ!」などと思っていると、受験にかなりプレッシャーがかかる。緊張しすぎて、かえってミスをしたりする。しかし第2希望や第3希望でもいいやと思っていると、肩の力が抜けてのびのびやれるものだ。

 それと同じだ。ひとつの場所に固執するより、ここで死んでも別にいいやと思っている候補地がたくさんある方が、人生の先行きについて気持ちが明るくなる

 だからワタクシとしてはですね、皆さんにも「野垂れ死にOKエリア」の拡大をお勧めするわけです(ここら辺の論理展開、ほんの少しだけ強引だな)。

 そのためには、高級旅館なんか泊まっちゃダメですよ。だってそれは、その土地での「日常」ではないのだから。車だけでぶらっと廻るのもダメですよ。警察の聞き込み捜査なんかと同じで、自分の足で情報を集めないと、身につきません。

 こういうわけで、なんもない田舎町をただぶらつくことの大切さが、わかっていただけたと思う。わかっていただけなくても先に進む

 

 土佐佐賀の港の近くには、やはりというか当然というか、カツオのたたきの製造工場がある(14)。高知に来ると、ほとんどすべての居酒屋にカツオのたたきが食べられる。こういう工場があるからこそ潤沢に供給ができるのであろう。道草を食いながら歩いて、ここまで駅から30分くらいである。

 

図14:カツオ工場。街の”基幹産業”である。

 さらに5分くらい歩くと浜辺につく(15)。8月第1週の週末で、しかも快晴だというのに、ほとんど海水浴客がいない。気温が高すぎるので(35度くらいあった)熱射病を怖れているのか、あるいは子供が少ないためか。

図15:漁港の隣の浜辺。夏なのに人がほとんどいない。

 「遊泳危険」の看板がある(16)。要するに、「勝手に泳いで溺れる奴は自己責任やきね(高知弁)」ということだ。「遊泳禁止」ではないところがミソである。ここら辺のおおらかさが南国気質である。

図16:「自己責任」で泳ぎなさい!死んでも知らんき!

 土佐の人は酒好きなことで有名だ。他人の家に遊びに行くとお茶ではなくて酒が出て来る、などという地域もあると聞く。もしぼくがこの街で暮らすことになったとしたら、しばしば仲間と酒盛りするに違いない。酒を飲んで泳がないように、気をつけよう。たこ八郎さんの冥福を祈る

 浜辺を見終わり、ふたたび駅に向かう道すがら、巨大な建造物が現れた(17)。これは津波が起きた時の避難施設である。中に入ってみたが、きわめて堅牢である。これがあれば、たとえ津波が起きたとしても、みな命を落とすことはあるまい。そう考えると、なんとなく嬉しくなる。

図17:津波の際の避難施設

  土佐佐賀の駅まで戻ったあと、停めておいた車に乗る。20分くらい運転して、宿毛(すくも)という街につく。宿毛高知県西部の中核都市である。しかし東京や大阪の人はまず知るまい。宿毛もやはり、「なんもない」田舎町である。まずは、本日のねぐらの安ホ…ではなく、堅実な感じのホテルに到着(18)。オッサンの一人旅にはうってつけである。

 

図18:「質実剛健」なホテル

 街並がすばらしい。平成をぶっ飛びこえて、もはや昭和である昭和どころか戦前でも通りそうな勢いである(図19NHKの朝ドラで、ときどき戦前を舞台にしたものがあるが、ここで撮影すればあらためてセットなんかいらないのではないか。図20の「まこと食堂」なんか実にいい。非常に落ち着いた街並みである。ここいらがわかるのが「通」なのである

図19:昭和の街並

 

図20:昭和30年代と見まがうばかりだ

 夕食の時間になったので、目をつけておいた店に入る。夏の夕暮れは良いものだ。一日中、炎天下を歩き回っていたのではやくビールが飲みたい。看板が光り輝いて見える(図21)。

 

図21:街の飲み屋。看板が輝いている。

 カツオのたたきを当然、注文する(図22)。この辺りはキビナゴという魚が名物だ。海のワカサギみたいな魚なのであるが、それも頼む(図23)。

図22:カツオのたたき

図23:ご当地名物、キビナゴの塩焼き

 以上ワタクシの、ある夏の週末のご紹介でした。ふつうの方々の夏休みはおそらく、露天風呂だとか、眺望の良い部屋だとか、テーマパークだとか、三ツ星シェフの作ったご馳走だとか、そういうものを楽しまれると思う。

 ところが、ワタクシの旅行には、そういうものは一切出てこない

 露天風呂なんかなくても、炎天下歩き回ってシャワーを浴びるのは(それが安ホテルだとしても)かなり気持ちいい。

 眺望の良い部屋なんか必要ない。酒飲んだらすぐに寝るから。

 テーパパークなんか行かなくたって、港で海を見ていると楽しい。

 三ツ星シェフのご馳走は食べないが、その代わりにニンニクまみれのカツオのたたきを食べる。

 こういうふうにですね、限りなく「日常」に近い楽しみを求めることが、「通」の旅行なのですよ

 そういう旅行こそ、私たちの「野垂れ死にOKエリア」を拡大し、人生に余裕を与えてくれるのです。

 わかりましたか?

 わかりましたね!