せとうち寿司親方ブログ17―ナポレオンか、長八か

長八さん選挙ポスター

 前回の話(りんご寿司学校ならびに、サンタクロース寿司学校における親方選考の話)はデリケートな内容なので、すし業界の人間たちからの反応は少ないだろうと思っていた。ところが意外に反響が大きくて、驚いた。

 親方選考については、あからさまに語られることがほとんどない。密室の中の話になっている。ただしその効果は非常にドラマチックである。「すしの巨塔」という小説によく書いてあるが、首尾よく親方に選考されて有頂天になる奴がいる。一方で、運なく選考に漏れて「人生終わった」みたいに落ち込む奴もいる。

 あたしに言わせると、これらの態度は、両方とも正しくない。

 まず、うまくいった方の奴だ。当選してうれしがるのは結構なことだ。しかし、全てが自分の実力だと思うのは間違いだ。派閥の力関係とか、選考のタイミングとか、必ず「運」が絡んでいる。

 同じ理由で、仮に落選したって嘆き悲しむ必要はない。本人の実力以外の要素で結果が決まる場合が多々あるからだ。

 親方選考に出馬して落選すると、何週間かして通知が候補者に届く。この文面が慇懃無礼もいいところなのだ。「厳正な選考を行った結果、今回は残念ながらご希望に添えませんでした」と書いてある。

 あたしは自分がそういう目にあったことがあるので、こういう通知を受け取る気持ちが非常によくわかる。なぜ落選したのか、その理由が全くわからない。選ばれた人を見ると、さほど業績があるとは思えない。モヤモヤしながら落ち込む気持ちは、経験したものでないとわからない。 

 あたしみたいに図太い奴なら「ふざけんな。バカヤロー」と開き直って、すぐに立ち直る。だけど真面目な人は、訳も分からず拒絶されて、気持ちが滅入ってしまう。せっかく今まで努力してきたのに、説明もせずに、不条理な結果だけ突き付けるのは残酷である。そして失礼である。

 親方選考に出馬するのは、40代の半ばから50代の半ばくらいの職人だ。今の若い職人たちには、すし学校で働くのは人気がない。しかし中年の職人たちが若いころには、すし学校に残ってアカデミックキャリアを進むのが、すし業界における王道のコースであった。親方という地位は、そのコースにおいてはゴールである。つまり彼らは、この地位を目指して努力してきたわけだ。実力さえあれば報われる、と信じつつ。

 それなのにしばしば、にべもなく門前払いされる。その理由もわからずにだ。

 これをマラソンに例えるとだね。一所懸命に練習して大会に出て、だれよりも早く走って、ゴールのテープを切る寸前に、横から割り込んできたやつに金メダルを獲られるようなものだ。真面目にやっている奴は、たまったものではない。努力するのが馬鹿らしくならない方がおかしい。

 ところがだね。すし学校の側としても、やむにやまれぬ事情があるのだ。

 あたしにも昔は、親方選考というのが神秘的なものに見えていた。すばらしく優秀な人が何回も選挙に落ちたりするし、ほとんど聞いたことのない奴が、ポッと選ばれたりする。非常に摩訶不思議な世界だと思っていた。

 しかし自分が親方になってみると、他の親方を選ぶ立場になる。自分の勤めているすし学校では審査員になるし、他のすし学校の選考が行われる際には、外部の専門家として意見を求められることもある。こうなると、選考の裏側がとても良く見える。一見すると摩訶不思議な結果がなぜ時々起こるのかが、非常によくわかるようになった。

 たとえば以前、あるすし学校で起こったことを話そう。仮にそのすし学校を「カステラすし学校」としようか。

 ある部門で親方を公募したところ、7人の候補者が立候補した。その中でダントツに優秀なのは「辛子蓮根すし学校」に勤めている職人だった。だいぶ差があって2番手が、カステラすし学校生え抜きの職人だった。辛子蓮根すし学校の職人は40代の前半と若く、カステラの方は50代の半ばであった。

 年齢において10歳以上も差があるのに、業績においては辛子蓮根のほうが、カステラよりも圧倒的に多かった。その世界における知名度も、辛子蓮根の方が図抜けていた。それなのに、カステラの方が選考されたのである。

 理由は二つある。

 第1に、カステラすし学校と、辛子蓮根すし学校がライバル関係にあったことだ。その地域における覇者は「明太子すし学校」であるが、カステラと辛子蓮根は、2番手の地位をめぐって昔から争っている。

 こういう状況において、辛子蓮根すし学校を出た人間に親方になってもらうことは、カステラ寿司学校にとって、大きな恥辱となる。ライバル他社から社長がくるようなものだからね

 第2は、辛子蓮根の候補者の年齢が若すぎたことだ。選考の時点で40代の前半だったので、5年たってもまだ50歳に届かない。まだまだ若いから、これからさらに腕を磨くであろう。

 そうすると、65歳の定年までカステラすし学校に居ついてくれずに、ナニワすし学校であるとか本郷すし学校のような、超一流のすし学校に引き抜かれる可能性もある。

 それはまだ良いにしても、母校である辛子蓮根すし学校に戻られたりしては、カステラすし学校としては面子が丸つぶれだ。カステラ生え抜きの人間たちの士気を、大きく損なう。

 カステラ側としても、優秀な人材に来てもらいたいのはやまやまだ。しかし組織防衛という観点からみると、どんなに優秀だとしても、辛子蓮根の候補者を選ぶことは、リスクが大きすぎる。だから「この人はバツ」ということになってしまったのだ。

 落選通知の紙っぺらに書いてある「厳正な選考」というのは、こういうことなんだ。

 真実を書くのならば「あなたは優秀です。ですが我々のライバル校の出身なので、ちょっと政治的に困るのです。いくら優秀でも、日本人が韓国の大統領になれないのと同じです。また、あなたはまだ若いので、そのうちどこかに引き抜かれるかもしれません。辛子蓮根すし学校に戻られたりしたら、私たちとしては面子丸つぶれです。だから無難な人を採用しました」なのである。

 ここまで読むと、多くの人は「すし学校というのはとんでもないところだ。仲間内だけを優先する、ムラ社会だ」と、憤るかもしれないね。実際あたしも、まだ親方になっていなかったころには、つまり選ばれる立場であった時には、そう思っていた。

 ところがいざ、選ぶ側になってみると、「身内びいき」にはある種のメリットがあることがわかった。身内をトップに据えると、組織運営のコストが、ものすごく下がるのである。平たく言うと、部下をまとめやすくなるのである。

 すし学校の仕事は大変だ。市中のすし屋に比べて、難易度の高い寿司を握らなくてはいけなかったり、緊急で寿司を握らなくては行けなかったりする。それなのに、給料はむしろ、普通のすし屋よりも安い。

 そういうライフスタイルは、「楽してリッチに」という現代の若者のトレンドとは、明らかに真逆を行っている。だから最近では「すし学校なんかで働くなんて、まっぴらごめんだよ」と考える若い職人がとても多くなっている

 それゆえ、ほとんどの寿司学校はリクルートに必死だ。いくらプライドをもって仕事していたって、人が集まらなくては始まらないからだ。カステラ寿司学校ももちろん例外ではない。カステラ県はお世辞にも都会とは言えない。だから若い職人たちはなかなか居ついてくれない。大阪とか東京に出て行ってしまう。地元出身の職人を中心に、カツカツの人数で仕事を回しているのが現状だ。

 こういう状況において、生え抜きの人間をさしおいて、辛子蓮根出身の人間をトップに据えてしまうと、どうなるか。

 カステラ寿司学校の若い職人たちは、「自分たちが母校に残って頑張っても、トップには立てないかもしれない」と不安になる。何十年も安月給で務めた挙句、土壇場になってトンビに油揚げを攫われたら、たまったものではない。

 「それだったら俺は辞めて、好きなところで働くぜ。その方が給料高いし」と思わないわけがない。それですし学校を辞めてしまったり、新しい親方の言うことを聞かなかったりすることになる。こうなると、組織は瓦解する。

 だからどうしても、内部にずっといて気心の知れた奴を昇進させることになる。

 つまるところ組織防衛のために、年功序列システムを採用しているのだ

 ところで、経済学ではミクロ経済学マクロ経済学があるよね。ミクロ経済学においては、個人や家計の行動を解明する。マクロ経済学においては、国家など、大きな集団の行動を解明する。この考え方が、すし学校における親方選考に応用できるのではないか。

 候補者の能力を基準にして当落を決めるのは、ミクロ経済学的な視点と言えるだろう。「こいつは優秀だから、しかるべき地位につくべき」という考え方だ。これに対して、すし学校側の利益・都合を優先するのは、マクロ経済学的な視点と言えるだろうね。「われわれの組織を維持するには、どういう奴を選ぶのがよいか」という考え方ね。

 二つの基準は、まったく異なる。落選した人間が結果を不条理に思うのは、ミクロ的な視点から見ているからだ。個人中心の考え方ね。でもマクロ的な視点―つまり組織運営の立場―から見ると、摩訶不思議に思える結果も、実は合理的だったりする。さっき挙げた、カステラすし学校の例みたいにね。

 それではミクロ的な選考と、マクロ的な選考では、どちらがあるべき姿なのであろうか? 

 あたしは、昔はバリバリの「ミクロ派」であった。実力のあるものが認められない世の中はおかしい、と憤慨すらしていた。

 ところがすし学校を運営する側に組み入れられてしまうと、組織防衛というものが、いかに大切なものかということがわかってきた。

 たとえば人口が何百人かの村があって、そこで村長の選挙をやるとするね。二人の人間が立候補したとする。ひとりは都からやってきた奴で、ナポレオンとか諸葛孔明みたいに、才気あふれるバリバリの奴だ。もう一人は、村にずっと住んでいて面倒見の良い、長八さんだ。「ナポレオンが日本の村長に立候補するわけないやろー!」なんていう、現実的な突っ込みはおいといて、どちらの村長を選んだ方が、村のためになるか、考えてみようではないか。

 これは村によって違うだろうね。隣村を侵略して、領土を拡大しようなんて野心をみんなが持っている村であれば、ナポレオンを村長に選ぶであろう。

 でもナポレオンが村長になったとしたら、軍事訓練をやれとか、武器を買うからもっと働けとか、おそらく言い始めるだろう。だから村のみんなが、「今のままで、まあまあ幸せ」と思っているのであれば、長八の方を選んだ方がよい。ナポレオン一人がヒーローになるより、村のみんながちょっとずつハッピーな方が、良いではないか!

 この考え方は、大いに「あり」だ。だってナポレオンのせいでみんなが村を出て行ってしまったら、畑を耕すやつがいなくなってしまうではないか!

 それゆえ、わが国においては、長八さんの方が選ばれることが多いのだ。さっきのカステラすし学校の話でいうと、生え抜きが長八さんで、辛子蓮根すし学校のほうがナポレオンだね。

 この点があたしもようやくわかってきた。そしてその利点を評価するようになった。聖徳太子だって「和をもって尊しとなす」とおっしゃっているではないか)。それこそがわが国における「この国のかたち」なのだ。

 また、マクロ的な視点で選んでも、能力の高い人間がトップにつく場合もある。先に述べた「隣村を侵略して領土を広げようぜ」みたいな野心を、みんなが持っているような村では、長八ではなくてナポレオンを選ぶだろう。

 すし学校でも同じことだ。「世界に通じる寿司職人を養成しよう」なんてイケイケの雰囲気を持っている寿司学校もある。西日本でいうと左京すし学校とか、ナニワすし学校だね。こういう寿司学校では、しばしば能力を基準にして親方の選考を行う。また、こういうすし学校で働いている人間は、もともと能力が高い。だから能力を基準に選考した場合でも、年功序列で決めるのと、結果が同じになる場合が多々ある。つまり状況によっては、ミクロ視点とマクロ視点とが一致しうるのだ。

 いままでの論点をまとめるとだね。

 ⓵ すし学校の親方の選び方には、ミクロ的視点(=個人的能力を優先)と、マクロ的視点(=組織の秩序を優先)がある。

 ⓶ 多くののすし学校においては、マクロ的視点を採用している。

 ⓷ ミクロ的視点とマクロ的視点が、一致する場合もある。

 ということだ。

 ところで、あたしの論調もだいぶ行ったり来たりしているよね。

 このブログの最初では、「能力を基準として選考しないのはおかしい」みたいな勢いだった。しかしだんだん、「でもすし学校側にも事情があるんですよ」という説明に変わってきた。そして二つの考え方(ミクロ視点とマクロ視点)を紹介して、それらの関係を解説した。

 話に紆余曲折が多いので、ここまで読んでくださった皆さんは、「それであんたは一体、何が言いたいの?結局、ミクロとマクロ、どっちを支持するの」と思っているだろう。

 あたしが望むのは、「すし学校における親方選考は、こういう風に行われている」という現実を、世間の皆さんに知ってもらうことなのだ。マクロ派かミクロ派かというと、「心情的にはミクロ派だけど、まあマクロ方式をとる大学があるのも仕方がないんでないかい?」という考えだ。

 というより、経済政策なんかと同じで、「マクロ方式」と「ミクロ方式」は時期に応じて割合を変えてゆくべきだと思っている。「どっちがいい」という単純な話ではないのだ。

 また、「マクロ方式」を取っているすし学校の内部にも、「ミクロ方式」の方がいいんじゃないか、と思っている親方もたくさんいる。たとえば、さっきのカステラすし学校の話は、カステラすし学校に勤めている親方から聞いた。彼はカステラすし学校を卒業している。しかし身内ばかりが選ばれるのを見て「このままじゃまずい」と思っている。それであたしに、裏の事情を教えてくれたのだ。

 すし業界以外の人たちには、ぜひともこういう現実を知ってもらいたい。彼らに真実が伝われば、外部からの目が厳しくなるだろう。親方を選考するにあたって、第3者委員会の設置が義務付けられるようになるかもしれない。あるいは、「なぜその人を選んだのか」を、文科省なんかに報告することが義務付けられるかもしれない。それがすし業界を良くすることにつながると、あたしは思うのだ。

 20世紀には、わが国の科学技術は世界でもトップクラスであった。でも21世紀になって、順位がどんどんと下がってきている。

 研究予算が削られていることが、凋落の原因としてよく指摘される。

 もちろんそれも一因ではあるのだが、「マクロ基準」の悪い面がでていることが、より大きな原因ではないかとあたしは思えるのだ。

 「組織の維持」というマクロ基準に照らせば、どうしても「変わった奴」というのがはじかれてしまう。

 すし業界は狭い。どのすし学校もひとつの学年は100人くらいしかいない。この100人が入学から卒業まで、6年間も一緒に過ごす。

 学生時代や若い時に、すこし変わった生き方をしてしまうと、「あいつは変わっている」というレッテルを貼られてしまう。そしてムラ社会の中で、こういうレッテルはいつまでたっても消えない。だから母校の親方選考においては、非常に不利である。

 それで、他のすし学校に転出せざるを得ない。でもさっき挙げたカステラすし学校みたいに、多くのすし学校は、他の学校の出身者に対してとても冷たい。

 こういうわけで、ちょっと変わった奴は、母校ではよろしくない風評があるし、かといって外にも出られない。行く場所がなくなってしまうのだ。これがわが国の科学技術が衰退している主因だと、あたしは思っている。

 独創的な奴っていうのは、往々にして変人である。和を重んじるのは、司馬遼太郎さんのいう「この国のかたち」で、それはそれで良い点も多い。だから「マクロ的基準」を撤廃しろとは言わないけど、「ミクロ的基準」にもうちょっと立ち返った方がいいんじゃないだろうか。

 職人の都合を「ミクロ基準」、おのおののすし学校の都合を「マクロ基準」とすると、国全体の都合は「メガ・マクロ基準」とでも言えばいいのだろうか。

 国は、景気に応じて、個人の購買力と、企業の体力をバランスにかけた政策をとる。個人のためには給付金を出したりするし、後者のためには法人税を下げたりする。

 そういうふうにだね、すし学校の親方選考においても、状況に応じて基準を変えた方がいいんじゃないか、というのがあたしの意見である。

 だけど、わが国では、内部からの浄化というのはなかなか起こりにくい。

 だからすし業界以外の国民に現実を知ってもらって、外からすし業界にいろいろ言って欲しい。それだからあたしはすし業界の現状を皆様にお伝えしているわけ。身の危険を冒しながらだ。おのおののすし学校が、自分だけの都合を考えていては、国民全体のためにはよくないものね。長八さんばかりじゃなく、たまにはナポレオンも選んだ方がいいと思う。

 

 ブログをここまで書いて疲れた。一息入れよう。

 ふと見ると、郵便物が来ている。日本すし学会からだ。なんだろう。開けてみよう。

 なになに、「すし教育委員会の、委員になってください」と書いてある。

 すし教育委員会ね。すし学会が開かれたときに、全国の若い職人に対して、教育セミナーをやってくれってことね。

 お力になりたいのはやまやまだ。でもあれやると、すごく時間がとられるんだよね。スライド準備するの、大変だしなあ。

 そんな時間とエネルギーがあるのだったら「せとうち寿司」の弟子たちを、もっと教えてあげたいな。だってあたしは、今は「せとうち寿司」の親方なのだから。あいつらいつも、一所懸命働いているからね。他の学校の若い職人たちは、そこの親方が教えればいいんでないかい?

 というわけで、「お断りいたします」にマル

 なに、「お前こそ、自分のすし学校のことしか考えてないだろ」って?

 そーだよ。あたしは「ナポレオン」じゃなくて「長八」だからね。人間だれでも、身内がかわいいのさ。悪いか!

 と、開き直ったところで、今回はここまで。