「すし学校における人事」ーせとうち寿司親方つれづれ話5

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この意味は本文を読んでいただければわかります

 前回は「基礎すし学」と「実践すし学」の話をした。

 寿司というものは、単純に考えると魚の切り身をシャリの上にのせたものに過ぎない。

 だが、それが一つの文化になりえたのは、刺身なりシャリに対して、先人たちがこだわりを持ったからなんだね。

 一口に刺身って言ったって、それが天から降ってくるわけじゃない。

 まず魚を獲って、あるいは育てて、それを切り分けて、きれいに形を整えて、それで初めてすしネタになりうる。

 このプロセスのどの部分が欠けても、寿司は作れない。

 だからいい寿司を作るためには、良い魚を獲る専門家も、それを冷蔵する専門家も、解体する専門家も必要であるし、出来た切り身を刺身にする専門家も必要だ。全国に80校ほどあるすし学校には、このように細分化されたそれぞれの分野を担当する部門がある。そして、それぞれの部門の親方(=責任者)がいる。

 こうした部門は、その内容に応じて「基礎すし学」と「実践すし学」に大別される。

 すしを作るプロセスは、「魚」の段階をスタートとして始まり、客の前に出される「寿司」がゴールになる。

 このプロセスの入り口に近い部分が、「基礎すし学」であり、ゴールに近い部分が「実践すし学」だ。

 たとえば、「水温を何度にすれば、最も味の良いマグロを育てるか」を研究する部門は「基礎すし学」に分類されるし、「いかにして切れば、刺身の味を最も引き出せるか」は「実践すし学」に分類される。

 そして、おのおのの領域はさらに、時代の状況に応じて発展を遂げている。

 たとえば20世紀の中頃までは船さえ出せばいくらでも魚が獲れたので、「基礎すし学」における大きなウェイトは、魚を獲る技術に置かれていた。

 しかし20世紀も後半になると、乱獲であるとか領海の問題のために、魚を獲るだけではなくて育てる技術が重要になってくる。それで「基礎すし学」の花形部門が、「遠洋漁労部門」から「近海養殖部門」へと移った。

 さらに時代が進んで21世紀になると、地球温暖化アジア諸国の経済発展に伴い、ますます水産資源が不足してきた。そうするともう養殖したって不十分なので、魚の細胞を培養して魚肉を造ろうなんて発想がでてくる。こうして「魚肉再生部門」なんていうのが、多くのすし学校で創設されて、それに大きな予算がつけられたりする。

 こういうふうに多角的な側面から、日本の「すし」の水準を上げてゆこうとすることは、良いことだ。だから、一つのすし学校に「基礎すし学」に属する部門と、「実践すし学」に属する部門がたくさんあること自体には、あたしとしても異論はない。

 ただ、こういった「すし学校」の組織の在り方が、かえって「よい寿司を国民に提供する」という、すし学校の本来の使命を損なう遠因となることも、かなり多いんだ。今回はその話をする。

 

 第4話で、天皇家が心臓のすしを所望した時、本郷すし学校で期待に応えられる人間がいなかったので、お茶の水のすし学校の親方が腕を振るった話をしたよね。

 なぜこんなことが起こったのか、あたしにはだいたい見当がつく。つまるところ、すし学校中での出世のシステムと、大きな関係があるんだ

 すし職人のキャリアプランにはいろいろある。自分で店を経営して流行る店にするなんて言うも一つの生き方だろう。経済的に最もトクなのは、おそらくそういう生き方だ。

 だが、新しい寿司を開発したい奴とか、特殊な魚を握ってみたい奴、あるいは物事にのめり込むタイプの奴は、すし学校で教官になるキャリアを選ぶ。その場合、やはり親方、つまりその部門のトップになることが、一つの大きな目標になる。

 別に親方にならなくたって、寿司を握る技術を追求してゆくことはできる。実際のところ、非常に腕がよいのに、運がないばっかりにナンバー2だとかナンバー3の地位にいる人間は、どこのすし学校にもたくさんいる。

 だから、仮に親方になれなかったとしても、それはその職人が駄目ってわけではない。むしろ、親方になったからと言って、自分が何でもできるように錯覚している人間の方が、あたしは愚かだと思っている。

 とはいえやっぱり、すし学校におけるキャリアを選ぶ以上は、親方になるのは一つの大きな目標であることは事実だ。

 相撲とりになるやつはやっぱり幕内になりたいだろうし、フレンチの職人になるのなら、できればミシュランで星の一つも獲ってみたい、そんな心理だね。最近は、役人になりたい奴も昔よりはずいぶん減ったらしいけど、いったん省庁に就職したらみんな局長だとか次官になりたがる。すし学校においても、やっぱり同じような現象が生じる。

 何十年か前の小説だけど、「白い木板」というのがある。「木板」というのは寿司屋のカウンターの比喩なんだ。小説の内容は、あるすし学校における、親方の地位をめぐっての競争をテーマにしたものだ。主人公は、ナニワすし学校の、ある調理部門におけるナンバー2なんだが、金をばらまいたり権謀術数を駆使したりして、なんとか親方になろうとする。

 いまでは「白い木板」の時代ほどには、親方に権力がなくなった。それでもやっぱりなりたい奴は多い。

 そこで、すし学校において、親方がどうやって選ばれるのかを説明しよう。

 ここからはちょっとアブナイ話になるので、自己責任でお願いします。

 

 すし学校における親方の選び方は、そのすし学校が国立か、私立かに応じてまるっきり違ってくる。第3話(弱者からみたすし閥)でも書いたんだが、私立のすし学校の場合には、密室で勝手に決めることも多い。これは、そこのすし学校の卒業生が最優先という原則があるからだ。建前上、公募を行う場合もあることはあるが、すごく優秀な人間が応募しても、書類だけで落とされてしまったりする。こういうのは次元的に、裏口入学と全く変わらないと思うんだが、なんでみんな黙っているんだろう。

 ちょっと前に東京にある私立の、西新宿すし学校という学校が、入学試験で男子には下駄をはかせて問題になったことがあった。学校を卒業して職人として修行する時期は20代の後半から30代前半にかけてだ。この時期は、女子における出産・育児の適齢期と見事に一致する。だから女子の職人の中には、途中でリタイアしてしまう人もいる。そうなるとすし学校としてはマンパワーが不足して、立ち行かなくなる。

 この点、男の職人は出産しないし、育児の負担も少ない。だから就職すると、なかなかやめない。そういう理由で、西新宿すし学校としては男子を優先して採用したかったわけだ。これはやっぱり不正と言われても仕方ないとは思うが、すし学校の側の考えもわからないわけでもない。

 しかし、学生を能力通りに選ばないことと、親方を実力通り選ばないことは、同じくらい不正なことなんじゃないだろうか?多くの私立のすし学校においては、親方がガラス張りの透明さで選ばれる場合の方がむしろ稀で、大半は密室の話し合いで決まってしまう。なんで、それについては誰も何にも言わないか、あたしはつくづく不思議に思う。

 まあこの点は今回のテーマではないので、国立(コクリツ)および、まっとうな私立のすし学校における、親方の選考に絞って話を進める。

 国立の場合には、一部の私立のすし学校とは違って、リジチョーだとかドウソウカイチョーが密室で話し合って、「まあまあ今回は平成〇年の(わが校の)卒業生の△△君で行きましょうや」みたいに決めるわけにはいかない。なにせ、日本国民の税金で運営されているわけだからね。議員の選挙なんかと同じで、基本的には公正な体制が求められる。それで、親方を選考する際には選挙が行われる。

 すし学校には多くの部門があるのだが、それぞれの部門の親方が、それぞれ一票を持っていて、投票を行う。得票の多寡によって、ある部門の親方が決定する。

 これは、一見すると公平な制度なんだが、じつは多くの問題を抱えている

 最大の問題点は、往々にして投票する側が、候補者の能力を的確に評価できないことだ。

 たとえば、基礎すし学の一部門で「飼料学」という部門がある。魚にどのような飼料を食べさせると、最も味がよくなるかを研究する部門だ。一方、「実践すし学」の一つの部門に、タコとかイカのような軟体動物を使って作る寿司を専門に扱っている部門がある。この部門を「柔らかもの部門」としようか。

 仮にあるすし学校において、「柔らかもの部門」の親方を選ぶことになったとするね。

 腕に覚えのある一人の職人が立候補したとする。彼は、タコのフニャフニャした肉質を、シャキッとしたものして噛み応えのある寿司を作るのが得意だ。このために、タコの繊維の方向に対してどの角度で包丁を入れればよいかとか、氷水で何分間洗えばよいのかなんかについて、特別な技術を持っている。

 一方、そのすし学校の「飼料学」の親方は、ブリの養殖を専門にしている。ブリにどういう餌を食べさせると、旨くなるかに関しては世界的な権威だ。また、タコがどういう食べ物をエサにしているのか、基本的な知識は持っている。それも「飼料学」の範囲だからね。

 だけど「飼料学」の親方は、自分でタコを料理するわけではない。繊維に対して包丁を入れる角度によって、タコの味が変わるなんて言われても、ピンと来ない。人間っていうのは、なんでも自分の価値観を中心に物事を判断する。だから、「飼料学」の親方は、「美味いエサさえ与えれば、タコの味は良くなるはずだ。切り方なんて、あんまり関係ないさ」なんて考えたりする。だから、ある職人が、ネタを切る腕についてアピールしたって、「フーン。そうかい」くらいに思うだけだ。

 こういう反応は「飼料学」部門だけではなくて、他の部門も似たり寄ったりだ。例えば、安定して寿司ネタを供給するために、魚の市場価格について管理する「水産流通学」という部門がある。その部門の親方は、漁業経済には明るいが、タコの切り方に上手い下手があるなんて、よくわからない。

 つまり、自分の専門とする分野以外については、誰しも的確な判断ができないんだな。これは当たり前のことだ。

 

 そうするとどういうことが起こるか。

 

 「柔らかもの部門」の親方に、もう一人の人間が立候補したとする。

彼はタコやイカのすしは普通に握れるが、神業的な技術を持っているわけではない。ただ人当たりは良くて、すし学校主催の忘年会や、ゴルフコンペなんかには欠かさず出席する。

 これに対して、もう一人の候補者であるタコの切り方の達人は、ゴルフコンペなんか一回も出たことはない。そんな暇があるんだったら、タコの切り方をもっと研究したいと思っている。

 あなたが「飼料学」もしくは「水産流通学」の親方であったとしてだね、いずれの候補者に投票するだろうか?

 結果は明らかだ。ゴルフコンペの職人だよね。両方とも実力のほどはわからない、だったら愛想のよい方に投票するのは、これはもう当然のことだ。

 となるとだ。

 将来的に親方になりたいと思っている、すし学校の職人たちはどういう行動に出るだろうか?

 いくら腕を磨いても、腕の良し悪しが(投票権を持っている)ほかの親方たちにはわからない。むしろ人当たりがよくて社交的な奴が評価される。それであれば、職人としての腕を磨くのはほどほどに、あとは飲み会やゴルフなんかに顔を出すことに精を出すんじゃないか?

 まあこういうふうに、すし学校における親方の選考で最も大切なのは、基本的には周辺との人間関係というのが、現実だ

 だから要領の良い奴は、他の親方たちといい関係を作ろうとして、いろいろと工夫をする。

 そういう工夫の中で、もっとも効果のあるのは、どういうことだと思う?

 それはね、気に入られたい人間に、わかりやすいことをやることなんだ。

 これは当たり前のことだよな。

 だって例えば、あなたがスポーツの好きなタイプだとするね。高校では野球部だったし、今でも時々、スキーやゴルフに行く。

 あなたの部下として、二人の人間がアプライしてきたとする。趣味は何かと訊くと、一人はバスケットボールが好きで、もう一人は囲碁が好きだという。

 この場合、前者の人間を採用しようと思うのは当然だろう?

 ところが逆に、あなたがプログラミングが好きなタイプ人間だとするね。

 この場合には、あなたは、囲碁が好きな人間を採用するんじゃないだろうか。

 こういうふうに人間と言うのは、どうしても自分のやっていることに近いことをやっている奴に対して親近感を持つものだよね。

 

 ここで、さっき話した「柔らかもの部門」の話に戻ろうか。要領のよい候補者は、どういう行動にでるだろうか?

 先に述べた「飼料学」の親方と近しくなろうと思ったら、彼との接点を作らなきゃいけない。このために例えば「いかなる飼料を与えると、旨い味のタコができるか」なんかについて勉強し始めるんだ。

 たまたま会合で、飼料学の親方と、彼に気に入られたい「柔らかもの部門」の職人があったとするね。

 その職人は「明石海峡のタコは味がいいですよね。あそこには小さなアジがたくさん住んでいて、それを食べるからなんですね」と言う。

 そうすると、「おっ君。よく解っているね!私の専門はブリの養殖なんだが、ブリの餌としても小アジは適していて…」みたいに話が弾むだろう。「飼料学」の親方による評価は、赤マル急上昇だ。次の選挙で1票獲得、というわけ。

 かくして、タコの調理そのものでは達人の候補者は敗北し、「飼料学」を少々かじった職人が当選する。こういうふうに、自分の専門以外にも手を伸ばして、その分野の親方たちと親しくなるのは、すし学校で出世する手法としては、とても役に立つ。というより、職人としての腕そのものより、ずっとウェイトが大きいというのが、多くのすし学校における哀しい現実なんだ。

 語り口から推察できると思うが、あたしはこういう傾向はよろしくないと思っている

 ただこれに対して、批判もあるだろう。

 「たとえ寿司を握ることそのものが本来の専門であったにしても、魚がどういう餌を食べているのか知っていたって悪くないではないか」と言う批判が、まず考えられるね。

 たしかにその通りだ。

 どの海域にどういう小魚がいて、それに応じて魚の味がどう変わるかの知識は、旨い寿司を握る上でそれなりに役に立つ。材料を選ぶ際に使えるからね。

 ただあたしが言いたいのは、例えば、明石のタコは旨いっていうことを知っておけばそれで充分だろうっていうことだ。明石のタコが何を食べているのか別に知らなくたって、良い材料は選べる。もっと言えば、産地についてのウンチクが全くなかったとしても、材料を見たり切ったり、味わったりして、その材料の良し悪しを判定する能力の方が、すし職人にとってはずっと重要なんじゃないか?

 そりゃ魚に関する事だったら、仮に直接すしを握ることに関係しなくったって、知ってた方が良いに決まっている。ただし、すしを握るという道は厳しいからね。それだけやっていたって、技を極めるのは非常に大変だ。だから、専門外の事に対してあまり多くの労力を費やしてしまうと、本業がおろそかになるんじゃないかってのが、あたしの考えだ。どんなにパワーのある人間だって、やはりエネルギーには限界があるからね。野球でも一流、囲碁においてもプロ級なんて人間はいないだろう。結局、どっちつかずになってしまう。

 こういう背景で、本郷すし学校にとって極めて不名誉であり、天命堂すし学校にとっては僥倖であった「心臓騒動」が起こったんだと思うな。つまり、本郷すし学校における心臓調理部門の長は、まな板の前に立つ時間は短いが、他の分野の親方と仲良くするのがうまい、政治家タイプの人間だったんだろう。そりゃ政治家にはすしは握れないよ。

 

 でも、その道の実力そのものより、人付き合いの方が出世には重要だというのは、一部のすし学校の中だけではなくて、世間一般の現実なのかも知れないね。会社とかに勤めている人間だって、仕事のできる奴だけが出世するとは限らない。またたとえば相撲の世界だって、相撲が強かった大関とか横綱が、協会で高い地位に上がるとは限らないからね(このブログの挿絵はそういうイメージ)。

 

 そろそろ終わりにしようと思うんだが、最後に断っておくことが一つある。

 今回述べたのは、あるすし学校の内部から、上に上がろうとする場合の話だということだ。たとえば明太子すし学校のある部門に候補者が二人いて、どちらを選ぶ、と言うような場合。

 これに対して、あるすし学校から、別のすし学校の親方にアプライする場合は、話がまるっきり違ってくるんだ。たとえば、ナニワすし学校の人間が、せとうちすし学校に来るような場合だね。

 ざっくり言うと、その場合に限っては、実力勝負なんだ。投票権を持っている、他の部門の親方たちに気に入られようったって、もともと面識がないんだから、そんなことできっこない。だから、当該分野の識者に話を訊いたりだとか、実際に皆の前で寿司を握らせるとかして、実力本位で選考を行う。

 腕に覚えがあるけれども、あんまり愛想のよくないタイプの職人なんかには向いているコースだ。

 こういうタイプの選考が多く行われるほど、本当に腕のよい職人が親方になって、業界全体のレベルが上がってくる、とあたしはいつも思う。

 だが哀しいかな、そういうケースは親方の選考の、だいたい3割くらいしかないんだ。

 あとの7割くらいは、今回の話で紹介したみたいに、ほかの部門の親方たちに顔の効く人間がすでにいて、外からどんなに優秀な職人が立候補したってかなわない。また、国立・私立を問わず、母校出身の人間だけを選考の対象にしているすし学校は、ごまんとあるからね。

 このことについては、改めて述べようと思う。今回はここまで。