せとうち寿司ブログ15―タイパ、タイパと言うけれど…

これもタイパ

 

 最近「タイパ」という言葉をよく使うよね。「タイム・パーフォーパンス」のことだ。知識を身につけたり、技術を学ぶためには一定の時間がかかる。その時間が短ければ短いほどよい、というのが「タイパ」の考え方だ。

 すし学校の学生たちも、「タイパ」という言葉をよく使っている

 学生たちはすし学校を卒業しても、すぐに職人として働くことができるわけではない。「すし国家試験」に合格して初めて、すしを握る免許が交付される。この国家試験をパスするためには、けっこうな量の内容を学ばなくてはいけない。すし学校で6年間にわたって学んだ内容から、まんべんなく出題されるわけだからね。

 限られた時間の中で、膨大な知識を頭にいれるのはなかなか大変だ。だからなるべく短い時間で、効率よく覚えたい。その気持ちはわかる。すし学生たちがタイパタイパと騒ぐのも、まあ仕方ないと思う。

 だけど試験だけではなくて、プロとしての職能を身に着けるにあたっても「タイパ」を重視する傾向が広がっているように見える。

 例えば一流の料理人になるためには、少なくとも10年くらいはかかる、というのが昭和の常識だった。皿洗いから始まって、野菜を切ったり、先輩の作った料理の盗み食いをしたりしながら、からだで料理を覚えてゆく、というのが「お約束」だった。

 ところが最近では、「10年間も修行をやるなんて、馬鹿じゃない?」などと堂々とネットで発言をするタレントがいるし、そういう奴に共鳴する若者も多い。

 試験なんかは場当たり的にすませれば、それでよいかもしれない。でも、それはまだ学生、すなわちアマチュアだからだ。すし免許を取得したあと、学生たちはプロの職人になるために修行をする。プロになるための修行において「タイパ」を追求するのは、ちょっと違うんじゃないか、とあたしは思う。

 知識や技術には深浅がある。できるだけ深いところまで追求するのが、プロというものだ。ところが「タイパ」の信者たちは、知識や技術には深浅があるってことを、見落としているんじゃないだろうか?

 わかりやすく説明しようか。

 たとえば「リンゴ」というものを全く知らない奴がいたとするね。一回もリンゴを見たこともないし、食べたこともない。「リンゴ」という名前すら知らない。

 だれかがそいつにリンゴの写真を見せて、「これはリンゴですよ」と教えるとする。そうすると、「リンゴとは赤い果物である」という知識が、そいつの頭に入るわけだ。

 そのうえで終戦後に流行った「リンゴの唄」を、そいつに聞かせる。「赤いリンゴにくちびるよせーてー」という、あれだ。

 その歌をきいて、そいつはどう思うだろうかね。

 リンゴというものをもともと知らないわけだから、リンゴに対してなんの思い入れもない。だから「リンゴ」がほかのものに置き換わったって、歌は同じように聞こえるはずだ。

 つまり歌詞の「リンゴ」を「ボール」に換えて「赤いボールにくちびるよーせーてー」としたって、そいつにとっては大した違和感はないだろう。

 ところがあたしにとっては、同じく赤くても「リンゴ」と「ボール」とでは、歌詞の印象が大きく違う。まあリンゴに唇を寄せるのはわかる。リンゴに唇を寄せれば、甘く酸っぱい香りがする。おそらく歌の主人公は女の子で、リンゴの香りを楽しんでいるのだな、と想像がつく。

 ところがボールに唇を寄せるとなると、「世の中広いから、赤いボールに口づけする奴も、まあいるだろーね。でも変な奴だね」と思う。みなさんだって同じだろう?

 ほら、同じように「リンゴ」を知っているって言ったって、名前だけ知っているっていうのと、香りや味も知っているっていうのとでは、同じ歌を聞いたって、感じ方が違うじゃないか。

 思うに、知識には「ここまで学べばそれでよし」っていう、きっかりとした境界線はないんじゃないか。あることについて表面的に知ってるのと、深く知ってるのとでは、そのものに対するとらえ方が違う。あるいはそのものを通して見る、世界の見え方が違う。知識ってのはそういうもんじゃないか?

 だから「短い時間で知識を得る」って言ったって、その知識の深さはどこまでなの?と突っ込みたくなってしまうのだ、あたしにはね。

 でも「タイパ」を好む人たちは、どうも知識というものを、スーパーで売ってる、「おせちセット」や「クリスマスパーティーセット」みたいに考えているように見える。パックかなにかに包まれていて、それを買えばとりあえず困らないぜ、なんて思っているのではないか。

リンゴ可愛や

 あたしがタイパという言葉が嫌いな理由はまだある。なんか「タイパ」という概念の裏には、自己中心的な考え方があるように思えるんだな。

 前に、仕事の関係で、ある人間とメシをくったことがある。そいつは、重要度に応じて友人たちをランクづけしてるんだと、得意げに話していた。重要な友人はAランク、普通の友人はBランク、どうでもいい友人はCランクと格付けをして、それを基準にして面会のスケジュールを立てるんだと。「こうすれば効率よく時間を使えるんですよ」なんていっていた。

 あたしはそれを聞いて、いやーな感じがしたね。

 そいつは、たしかにかなり地位の高い奴だった。でも、天動説よろしく、自分を中心に世界が回っていると思っている。思い上がりもいいところだ。

 まあ、自分の「秘訣」をあからさまにあたしに語ったところからすれば、あたしはその時点においては、少なくともBランク以上にはいたのだろう。

 だけどよっぽど「あたしはFランクくらいでいいですから」って言ってやろうかと思ったぜ。それ以来、そいつとは合わないようにしているから、今頃はXランクくらいに落ちてるんじゃないだろうかね。ハハハ。

 こいつの考え方と、「タイパ」の考え方とでは、共通点があるように思えるのだ。   「タイパ」は、できるだけ短い時間で知識を身に着ける、という生き方だよね。

 情報量が少ない方が当然、それを学びとるのに必要な時間は短い。だからどうしても知識を、「役に立つ知識」と「どうでもいい知識」に弁別することになるはずだ。そしてその基準は、「自分にとっては」ということだよね。

 この点がさっき言った、「友人ランク付け」と似ているように思える。すこし子供っぽいようにあたしには思えるのだが、皆さんはどう思うかね。

 また「タイパ」という考え方には、「自分が悪い」と考える発想が欠落しているように思える。

 われわれが何かを学ぶとき、理解するのに時間がかかることがあるよね。あるいは時間をかけて学んでも、解らないこともある。こういう場合には「タイパが悪い!」ということになる。

 すし学校では、あたしのような教官が、学生に対して講義をする。どうも学生たちは、われわれの講義について「タイパ」で評価しているようなのだ。

 たとえば講義した内容がよくわかり、かつ国家試験に出そうな内容ならば、「タイパが良い」ということになる。逆に、内容がよくわからなかったり、あんまり試験に関係がなさそうならば「タイパが悪い」と陰で言っている。

 たしかに、教え方の上手い教官は存在する。

 だけど、講義が理解できないとすれば、自分の基礎知識が欠けているとか、考えるために十分なエネルギーを使ってないとか、そういうことだって原因だろう?

 わからない責任を教師だけに取らせるのは、ちょっと違うんじゃないかな。

 こういう理由であたしは「タイパ」という言葉が、好きではない。

 こういうと今度は、「あんたが好きかどうかなんて、俺には関係ないよ」という奴も多いだろうな。たしかにそうかもしれない。昭和生まれのオッサンの価値観を押し付けちゃいかんね。

 だけど、タイパタイパと騒ぐ若者には見えない「なにか」が、今後の時代を生き残ってゆくカギになると、あたしには思えるのだ。少なくともすし職人の世界ではね。

 きょうび、人工知能がすごい勢いで発展している。すしを握る機械も、急速に進化している。これまでは、機械ではごく簡単な寿司しか握れなかった。でも今後は、人間が握るような寿司も握れるようになるだろう。

 そういう中で、すし職人たちはいかにすれば生き残ることができるのか。あたしはこの問題について、いつも考えている。

 機械などに負けないためにはどうすればよいか?

 ポイントになるのは、握った寿司の良し悪しを評価するのは、最終的には人間という事実だ。たとえ世の中がどのように変わろうが、この事実だけは絶対に動かない。

 そこでだね。

「製品」として寿司というものを握るのではなくて、「作品」をつくる姿勢で寿司を握ればよいと思うのだ。

 たとえば同じ茶碗と言ったって、機械でつくった茶碗と、職人が作った茶碗とでは意味合いが違うだろう。

 対称性や、厚さの均一性なんかについては機械でつくった茶碗の方が上だろう。でも一流の職人の作った茶碗の方が、機械で大量生産した茶碗よりも、ずっと値段が高い。

 それはなぜかというと、機械でつくった茶碗にはない、なんらかの「価値」があるからだろう?その「価値」が一体何かってことを、言葉で説明するのはとてもむつかしい。人の手でつくった温もりであるかもしれないし、厳しさとか妥協のなさといった、作り手の姿勢なのかもしれない。

 つまるところ、技術を磨くために職人が費やした時間や努力が、何となく滲み出ているからこそ、機械でつくった茶碗よりも高く評価されるのだよね。言葉では表現できないけれど、そういう「価値」があるってことは、たしかな事実だ。

 寿司をつくるのにしたってそういう「価値」が出せるのではないだろうか、とあたしは言いたいのだ。

 これからの時代、マニュアルで処理できることについては、人工知能が全部やってしまうだろう。だからそういうものを超越した価値を、寿司職人だって作りださなきゃいけない。一見ムダに思える、昔ながらの修行のどこかに、その「価値」があるように、あたしには思えるのだ。

 今回は、なんかわかりにくい話になっちまった。

 「タイパ」を声高に叫ぶ人たちは、「なんだよ。時間かけて読んで損した。もっとわかりやすく説明しろよ」というかもしれないね。

 悪いけど、やめとくよ。この話は解る人にはわかるし、解らない人にはいくら説明したってわからない

 こんなアホな文章だって、書くのにはそれなりに時間と労力は必要なのだ。解らない人に向けてこれ以上説明するのは、あたしにとって「タイパ」が悪いんでね。