せとうち寿司親方ブログ13-「マウント」について

この人にはちょっと無理だろうなー。

 ここ数年だと思うのだが、「マウント」という言葉が流行っているね。「マウント」というのは、人前で自慢をして、自分の優位性をひけらかすことだよね。

 たとえば車の話が出ると「いやー、ぼくはフェラーリに乗っていてね」とか「最近、俺のマジェスタ、調子が悪くってね」とか、自慢する奴がいる。

「いい車をもっている」という点において、マウントをとっているわけだ。

 旅行についても、さりげなく自慢する奴がよくいるね。たとえばヨーロッパの話なんかが出たりすると、ワタクシはパリによく行って、どこそこのホテルに泊まる、そのホテルのレストランでは鴨肉の料理が美味しくて、なんて話を長々とする奴だ。こういうのは旅行マウント、もしくはスノッブマウントとでも言うのかな。

 こういう「何について自分は優れている」という、「自慢しているポイント」が特定できるのは、わりと素直なマウントだね。「マウントの初級者」とでもいうんだろうか

 マウントも「応用編」になると、自慢のポイントを言葉で明示しない。たとえば会社の記念式で、社長だの会長だので、長々と話をする奴がいるじゃないか。早く終われよと、そいつ以外の全員が思っているんだが、嬉々として20分も30分も話をする奴らだな。こういう奴らの話の中には、たしかに自慢の部分は多い。ただし長時間、自慢だけをし続けることはけっこう難しい。だれだってそれほど多く、自慢ができるネタを持ってるわけではないからね。でもやっぱり、聴いている方としては「マウント」されているように感じる。

 話の内容が自慢だけというわけではないのに、なぜ「マウント」に感じるのだろうか?あたしが思うに、彼らが伝えようとしているのは、実は話の内容そのものではない。それよりも「俺は、お前らを話に長時間つき合わせておくだけの、権力を持っているんだよ」というメッセージを、より強く訴えたいんだ。

 つまり、自分の強い立場について、マウントしているわけ。

 「他人の時間を支配できること」について、直接的な言葉ではなくて、態度で誇示している。だからそういう奴の話には「あー」とか「えー」とかいうムダな間投詞が多い。これらの間投詞には意味はない。だが、話を引き延ばす効果はある。それゆえ、「できるだけ聴衆を引き留めておく」という、話し手の真の目的には、非常になじむ。こういうのは、言ってみれば中級編のマウントだろうね。

 

 かと思うと、柔道で言うと「巴投げ」みたいな高度なテクニックを使ってマウントする奴もいる

 たとえばドラマなんかで、主婦が集まってだべったりするシーンがよく出てくる。メンバーの一人の子供がいい大学にいったり、旦那が出世したりすると、「お宅のお子さんは地頭がいいから」とか「夢は社長夫人ね」なんて、さりげなく嫌味をいう奴らがいるよね。望んでもいない人に「マウント」を強要しているわけだ。

 こういう奴らの本当の目的はもちろん、他人を褒め上げていい気持ちにさせることではない。

 その証拠に、「うちの子はいくら言ってもゲームばっかりやってて」とか「うちの宿六は酒ばっかり飲んで」みたいな、自分に関する内容に、必ず話を持ってゆく。他人を持ち上げると見せかけて、自分への同情を買っているわけだ。こういうのは「逆マウント」ともいうべきなんだろうが、マウントの上級編だね。

 こんなふうに、「マウント」のいろんなテクニックを分類してみたら、けっこう笑えるだろ?

 マウントすることを芸風にしている芸人がいるよね。デ〇夫人とか、マ〇コ・デラックスとか、神〇うの何かもそうじゃないか?彼女らのスタンスは「自分は特別」という視点から、他人の行動を論評することだよな。いわゆる「上から目線」が芸風だ。

 マウント芸人はみんな女、もしくは女を装った男だよな(ひと昔前ならば「おカ〇」と言えたのだが、今そういうとちょっとまずいね)。

 男の社会にはもともとマウントがあふれているから、男がマウントをしてもシャレにならないからだろうね。ただ例外的に、男でもためらわずにマウントする奴はいる。たとえば麻〇太郎だ。あれはもう根っからのアホだから、相手にしたって仕方がない。自分が笑われていることにすら、気が付いていなんじゃないか。

 ところで、マウントは「悪」なんだろうか?

 さんざんマウントについてギャグをならべておきながら、いまさら言うのもなんだが、あたしは必ずしも「マウント」は悪だとは思っていない。それは以下のように考えるからだ。

 まず「人々がまったくマウントをしない社会」が仮にあるとしてだね、それがどういうものかを想像してみようじゃないか。

 「マウント」とは自分の欲望の達成について、他人に顕示する行為だよね。すなわち「マウント」と「欲望」には、密接な関係がある

 あたしはすし職人だから、経済のことはよく解らない。だけど、「景気」と「欲望」は、切っても切れない関係にあることは、なんとなく肌でわかる。

「別に趣味はありません。週末には家族と近くの公園に行って、うちで作ってきたおにぎりを食べるのが楽しみです」なんて奴ばっかりなら、経済活動は活発にならない。

 みんながみんな、「私は地味にいきているんでございます。人に自慢なんてとんでもない」なんて、昔話に出てくる正直者のおじいさんみたいな生き方をすると、やっぱり世の中は発展しないんじゃないか。

 ついこの間、悪友と飲んだのだが、「夏休みをどう過ごしたか」という話になった。

 「おれはこの間、マジェスタに乗って温泉行った。高級オーベルジュだから、大人は一人15万とられたぜ。家族4人で45万だったぜ」なんて、マウントされちまった。

 だけど、こういうアホがいるから、「この野郎」と思って人々は発奮し、一所懸命に働いたり勉強したりする。それで世の中が活性化する。つまるところ、それが「景気」なのではないだろうか?だとすると「マウント」は人々を刺激する起爆剤みたいなもので、あながち悪いものとは言えないんじゃないか。

 でも、だからと言って野放図なマウントを許していいとも思えない。マウントするやつは気持ちいいかもしれないが、される方はあんまり愉快ではないからね。

 だから「これを守るなら、マウントしても良い」みたいな「ルール」があればいいんじゃないだろうか

 いったいどういうルールを創ればいいんだろう?

 あたしが思うに、「それなりの代償を払うこと」だと思う。

 この関係をあからさまにシステム化した場所がある。銀座のバーだ。この間、あるすし学会の招待講演で、銀座の一流と言われるバーのママの話を聴いた。

 われわれすし職人は、客商売である。だから接客のプロから秘訣を聴いて、サービス向上に役立てなさいよ、というのが講演の主旨だった。

 あたしは熱心に、銀座のママの話を聴いた。

 その結果、銀座のバーとは、客が(ホステスに対して)マウントをする場所であり、ホステスたちの仕事の本質は、「いかに客に気持ちよくマウントさせるか」につきることが、よく解った。

 だけど彼女たちだって、望んでマウントされてるわけではない。だれがすき好んで、オッサンたちの「重役になりました」だの「年収が何千万あって」だの、自慢話を聞くもんか

 もし彼女たちがバーのホステスではなくてラーメン屋をやっているとするよ。カウンターに座ったオッサンが、ラーメン食い終わっても2時間も3時間も自慢話をしたとするね。彼女らがそいつに、頭からラーメンのスープをぶっかけたとしても、あたしが裁判官なら無罪にする

 オッサンたちは、バーに来るたびに何十万円も落とす。だからこそ、彼女たちはマウントを認めているのだ。

 つまり銀座のバーとは、客にとっては、金銭を支払ってマウントを楽しむ場所であり、ホステスにとってはマウントされる代償として金銭を受け取る場所なわけだ。マウントすることの代償=金銭 という関係が、非常にクリアカットである。

 

 さきほどデ〇夫人とか〇ツコ・デラックスとか、マウントを売りにする芸人の話が出たよね。彼女たちとて、マウントのコストを支払っている

 どういうことか。

 もともと「マウント」という言葉は、サルが仲間内の序列を明らかにするために、他のサルの背中に乗っかる行為をさしていた。つまり、「マウント」はサルの専売特許だったんだよな。

 そのサルの専売特許だった行為を、人間に対して用いるということはだね。「無駄に威張るやつは、サル並み」と間接的に言っているわけだよね。だから「おだまり!」的な、高圧的スタンスをとってはいるものの、結局、笑われているわけだよね。だって、やっている行為はサル並みなんだもの。みんな、それがおかしいから、芸人たちが出演する番組を見るんじゃないか?

 マウント芸人たちは一見、世の中であるとか、ある人を批判しているように見える。だけど聴衆が注意を払っているのは、言われている対象ではなくて、じつは言っている奴なんだよな。

 「マウントしやがって、アホだなー」と思っているわけだ。そういう風に人に嗤われることが、彼女らがマウントの代償として支払っているコストなんではないか。

 もっとも聴衆は、純粋に彼らを嗤っているわけではなくて、彼らが自分たちの思っていることを言ってくれているので、快哉している部分もあるとは思うけどね。

 それにマウント芸人たちの多くは、実は自分が嗤われていることに気が付いているんじゃないか(麻〇太郎と違って)。それを知りつつ、売りにしている可能性が高いね。ある意味で頭がいい(麻〇太郎よりはね)。

 

要するにだ。

 ①「マウント」は景気を刺激する上で役に立つ。だから完全に否定すべきではない。

 ② しかし「マウント」をする場合には、対価を支払うべきである。

これがあたしの考えである。

 「へー、マウント認めちゃうの、あんたは」と思う人もいるかもしれないね。

 でも考えてみると、人間の社会活動の多くは、マウントなんじゃないか?

  たとえば、ピアノを習っている奴なんかは、ときどき発表会にでるよね。あれは「私はこれだけ上手にピアノを弾けますよ」ということを、皆に知らしめることが目的だ。自分のピアノのスキルをみんなに自慢しているわけで、マウントじゃないか。

  展覧会に絵を出すのだって、マウントだ。だって、自分はこれだけデッサンのセンスがありますよ、と皆に言っているわけだから。結婚式なんか、「マウント」の最たるものだよな。だって、自分が配偶者を得るだけの魅力を持っていることと、家族を養うだけの経済力を持っていることを示しているわけだから。

  というと、「あんたこそマウントしてるだろ。こんなブログ書いて」という人もいるだろうね。

  そうです。まったくその通りだ

  あたしは自分の考えを、皆さんに伝えたくて駄文を書いている。たまたまうまく書けた時には、「読んでみろよ、面白いだろー」みたいな、ドヤ顔的な気持ちになることもある。そういう角度から見ると、このブログは、たしかにマウントだ。

  だからこそ、あたしは代償を払っている。

 人々は「せとうちの野郎は、またこんな話を書きやがって、アホやなー」と思っていることだろう。「つまんねーよ。こんな話」と思われる方も多かろう

 そういう風にだね、揶揄されたり嫌われたりするリスクが、このブログを書く代償だと思っている。そもそも、ものを書くってことは、そういうリスクと隣り合わせなんじゃないか。

 それにだね、こういうアホなブログだって、社会をある程度は活性化させてるんじゃないか?さっきも言ったように、休みの日には公園で弁当食うのが楽しみな人間ばかりになってしまうと、景気は良くならないだろ。それと同じで、文章書いても投稿しないと、やっぱりインスタとかフェイスブックがにぎやかにならないじゃないか。

 そういうわけで、すし職人の話もまだまだ、しつこく続いてゆきます。これからもよろしくお願いします

 と、自分に都合よくまとめたところで、今回は終了。