山中の「駅前食堂」に、土佐のサムライを見た

燦然と輝く看板

 高知県が、ぼくは大好きだ。

 ラテン系というか、人間が明るくて、瞬発力がある。「ヤンキー濃度」が高い、と評されることもある。

 しかし「ヤンキー」のどこがいけないのであろうか。ぼくも高知にちょくちょく通うようになってから、親しい友人が何人かできた。もちろんみんな、今はまっとうな職業についている。しかし昔の写真などを見せてもらうと、たしかにヤンキーであった人もいる。

 彼らと一緒に酒を飲んだら、すごく楽しい。白金台や代官山あたりのスノッブよりもずっと義理堅く、思いやりもある。いろいろな話も知っている。

 だからぼくは暇を見つけては、高知に遊びにゆく。

 ぼくの住んでいる香川県から高知県へは、車で行けば2時間かかる。「車で2時間」と聞くと、都会に住んでいる人には、とても遠いように思えるかもしれない。

 しかし実際には、非常に近く感じられるのだ。ぼくの身体感覚では、池袋から横浜に電車で行くのと、同じくらいに思える。関西ならば梅田から三宮といったところか。

 高知が近く感じられる理由は、二つある。

 第1に、運転によるストレスが全くない。

 香川から高知には高速道路が通っているのであるが、この高速は絶対に渋滞しないのである。ぼくは長らく関東に住んでいた。それゆえ休日になると車で箱根や軽井沢によく遊びに行っていた。東名高速や関越に乗っていくのだが、連休ともなると必ず渋滞につかまった。それが当たり前だと思っていた。

 しかし四国では絶対に、こういう渋滞は起こらない。「渋滞のお知らせ」も出ることは出る。ただし四国においては、時速50キロで走行しなくてはいけなくなると、もはやそれが「渋滞」なのである。したがって、運転するのがきわめて快適なのである。

 第2に、景色が良い。

 四国という場所は、「山のある島」である。島であるがゆえに海が近いし、中央部の四国山脈が「島」を南北に分断している。そのため、ある程度の距離を移動するとなると、海も、山も、渓谷も、湖も、すべて車窓に入る。景色のバリエーションが富んでいるゆえ、運転していて退屈しないのである。

 四国に「お遍路」の文化があるのは、日本人ならば皆、知っているだろう。ところが、他の地方には「お遍路」はない。なぜ四国にだけ「お遍路」の文化があるのか、ぼくはときどき考える。これは先ほど述べた、景色の多様性と無関係ではないのではないか。

 もともと、歩くという行為と信仰とは相性が良い。だからこそ巡礼(pilgrimage)という概念が一般化するのだろう。わが国に宗教が発生、もしくは伝来してから、かなりの時間が経った。長い歴史の中で、真実や救いを求めて「歩く」行為をした先人たちは、数えきれないほどいたに違いない。しかし歩く文化が形をとって残ったのは、四国における「お遍路」だけである。なぜか?

 四国が、ほどよい大きさの島であったことは理由の一つであろう。「お遍路」をする人たちは、救いを求めて歩くのだ。多くの場合には社会生活が順当とは言えず、したがってあまり豊かではない。当然、栄養状態も良くない。

 ゆえに九州で「お遍路」をすれば、広いは暑いはで、行き倒れになるリスクがある。北海道など論外である。この点、四国は気候が穏やかだし、歩くのに難儀をする場所もそれほど多くない。それだから四国だけに「お遍路」文化が根差したのだろうと思う。

 行き倒れのリスクがそれほど高くないことに加え、四国の道は景色の変化が大きい。山道を歩いていたと思えば急に広い川辺が現れ、おだやかな砂浜を歩いていたと思えば、いつのまにか波の打ち寄せる岸壁になっている。こういう変化の多さが、巡礼をするにしても魅力的だったのではないだろうか。

 要するに、四国の道は変化に富む。運転していて面白いのだ。そんなわけで、ぼくは気が向けば、ぶらりと高知へ出かける。

 

 その週末もぼくは、高知に出かけて友人と酒を飲んだ。土曜の夜は、高知の市内に泊まった。日曜の午前にホテルを出た後、高松に帰るために道路を運転していた。

 この道路は国道32号線と言い、四国山地を縦断している。運転がしにくい、いわゆる「酷道」の一つではあるのだが、景色がすこぶる良い。

 渓谷に隣接しているので、山を彩る花や木々の美しさも、深山独特の幽玄さも、同時に味わえる(図1)。

図1:国道32号線の車窓より

 たまに車を停めて渓谷をのぞき込むと、水が非常に澄んでいる(図2)。アユやイワナにとっては、さぞや住み心地がよいであろう。

図2:渓谷の水が澄んでいて美しい

 心洗われるドライブの道すがら、小さな看板が、なぜかぼくの目に入った。

 その時は気にせずに運転を続けたのだが、1-2分後に、言葉にならない違和感を覚えた。なにか重大なことを見落としたときの、あの感じである。

 「なんか変なこと書いていなかったっけ?

 さきほど何気なく目に入った、あの看板が原因であると、ぼくの本能は告げていた。

 そこで、引き返して、なにが書いてあったか確認することにした。

 看板周辺の景観を、まずお示しする(図3)。食堂がある。さっき見た看板は、この食堂のものであった。

図3:道路わきにたたずむ食堂

 「毎日牛乳」とかかれた看板の裏に、キーワードが隠されていた(図4)。

 「駅前食堂」と書いてある

図4:駅前食堂?

 ぼくは気が付いた。これが違和感の原因だったのだ。

 「駅前?どこよ、駅って?」

 食堂の主人が、自分の店になんと名前を付けようと自由だ。しかし、いやしくも「駅前食堂」を名乗る以上、駅前でなくては困る。国民として、それぐらいのルールは守ってほしい。前日に元ヤンキーたちと酒を飲んだせいで、ぼくもヤンキーっぽい気持ちになっていた。だから、ひとつ文句でもいいに行ってやろうかと思った。

 ところが、ところがである。よく見るとたしかに、駅はあった。ぼくが、気付かなかっただけなのである。

 「駅のような大きなものに気が付かないなんて、こいつアホか?

 と皆様、思われていることであろう。しかし、かなり意外なところにあるというか、特殊な駅なのである。

 状況を説明する。

 香川と高知を結ぶ鉄道は土讃線といって、四国山地を縦断して両県を結ぶ。山地を縦断する点においては、ぼくが運転していた国道32号線も同じである。

 しかし両者は、並行して走っているわけではない。ときおり交差はしながらも、基本的には別々に走行している。

 図5をご覧になっていただけると、両者の位置関係が何となくわかっていただけると思う。

図5:道路と高架線路の位置関係

 食堂の近傍において、鉄道は道路と3次元的に交差している。運転しながら線路は目に入っていたのだが、まさか駅があるとは思わなかった。

 地上から15m程度離れた位置に、その駅は存在していた(図6)。

図6:「駅」の看板

 このようなところに駅があるとは!

 ぼくは、食堂の後方にある階段を登った。(図7

図7:ホームにのぼる階段

 無人駅なので、勝手にホームに入ることができる。駅のホームに立ってみた。

 この駅は鉄筋を組み上げたトラス構造をとっており、幾何学的にとても美しい。

 

図8:ホームの様子

図9:駅の通路

         図10:鉄筋の組み合わせが、非常に美しい

 この駅は「機能美」という言葉をそのまま、形にしたようだ。なぜ鉄道にハマる人があれほど多いのかが、しみじみよくわかった。

 高架から渓谷を見下ろしてみた(図11)。

図11:駅から渓谷を見下ろす

 

 

 駅は渓流から20メートルくらいは離れているのだが、静かなので水のせせらぎがよく聞こえる。渓谷の脇の木々も、とても美しい。(図12)今は冬なので花は少ないが、紅葉が美しい。春や夏は、さだめし絶景であろう。

         図12:駅の近くの道。紅葉がきれい。

 よくこのような場所に、駅をつくれたものだ

 ぼくは、わが国の土木技術の高さに驚嘆した。同時に、建設にたずさわった方々の苦労を思うと、胸が熱くなった。人工美と自然美が、見事に共存している。これを見て心を動されない人間は、いないのではないだろうか。

 もっとも、ホームから転落したらそのまま渓谷に落下して、本当の意味での天国行きになる。この点だけは注意だ

 駅のホームから、くだんの食堂を見下ろしてみた。(図13)こうしてみると、たしかに「駅前食堂」である。

図13:駅から見下ろす、「駅前食堂」

 ホームからの景観があまりに美しかったので、10分くらい見とれていた。

 そのあと階段をおりて、「駅前食堂」を観察しに行った(図14)。

図14:階段を下りる

 昭和の香りが満載である。昭和40年代にタイムスリップしても、まったく違和感はない。ボンカレーオロナミンCの、さび付いた看板があれば、さらに良い(ここら辺の感覚がわからない人は、これから先を読まない方が、いいと思います)(図15-16)。

図15:食堂の外観

図16:食堂の正面

 店の裏手では柿を干している。(図17)周辺には畑もあるから、野菜は自給をしているのだろう。ぼくはこういう生き方が大好きだ。文字通り、地に足がついた感じがする。

図17:店の裏で作っている、干し柿

 

 そこで、この食堂で早めの昼食をとることにして、ドアを開けた。

 床はコンクリートだ。タイルすら敷いていない。

 廃材置き場からとってきたようなテーブルが、3組おいてある。椅子が明らかにミスマッチである。きっと、廃業したスナックからもってきたに違いない

 いい、実にいい!(ここらへんが解らない人は、読むのやめてください)

 石油ストーブがおいてあって、その傍らにおばあさんが座っていた。きっと、この近辺の農家の人なのであろう。

図18:食堂の内装

 房の手前には、ガラスケースがおいている。(図19)その中には実際の料理が、値段別においてある。どれも低価格で、100円から250円くらいである。ちなみに250円メニューは「かぼちゃとみょうがの天ぷら」と「きんき煮つけ」「鯖塩焼き」「香の物盛り合わせ」である。どれも美味しそうだ。車で来ているのでビールを飲めないのが、つくづく残念である。

図19:メニューとガラスケース

 どれにしようか迷っていると、先ほどのおばあさんが言った。

 「お茶はそこに入ってるから、自分でついでね。」

 おばあさんは客ではなく、この店の一員であったのだ。

 指さす先を見ると、小さな台の上に魔法瓶かおいてある。そのわきには、ワンカップ大関の空き瓶が5、6個おいてある。ワンカップの瓶が、湯飲みなのだ!ぼくは嬉しくて、ぞくぞくしてしまった(ここらへんの感覚わからない人は、読むのやめてね)。

 厨房はガラスケースの向こうにあった。3坪ほどの広さの中で、50歳くらいのオッサン(ぼくもオッサンだが)が、前掛けをして調理をしていた。この人が店主なのであろう。

 ぼくはガラスケースの中から、卵焼きとウィンナー、ならびに小松菜炒めを取り出した。そして店主に向かって、ご飯と味噌汁を注文した。

 店主はぼくと目を合わせた。ストレンジャーであるぼくに驚くでもなく、いぶかりもせず、黙ってうなずいた。

 ぼくはバス停に置いてあるような椅子に腰かけると、ワンカップの容器でお茶を飲み  ながら、食事が出てくるのを待った。

 しみじみ落ち着く

 ぼくは厨房の中のオッサンを眺めながら、ぼんやり考えた。

 若干小柄ではあるが、眼光鋭く、動きは俊敏である。この人も昔は、きっとヤンキーだったのだろう。

 面白い奴に違いない、とぼくは思った。

 「駅前食堂」と名付けた、気概が良い。

 マンションの広告には「駅まで徒歩5分」などとよく書いている。わが国では、特に大都市圏では、駅までの近さが利便性の指標なのだ。とくに「駅前」は最強である。東京でいえば目黒の駅前や、大阪で言えば福島の駅前にあるタワマンなど、何億円するか分かったものではない。

 そういう豪邸と比べれば、土佐のド田舎の「駅前」など、自転車置き場ほどの価値もない。それなのにあえて「駅前」を名乗る、そこがいい。

 「ここだって駅前だぜ」という、人間の意地を感じる

 「七人の侍」という映画がある。舞台は戦国時代の農村だ。農民たちは、近隣に巣くう野武士による収奪に、苦しんでいた。勘兵衛(志村喬)をはじめとする7人の侍たちは、農民たちに乞われて、彼らを指揮しつつ野武士たちと戦う。ぼくはこの映画は、古今東西のすべての映画の中で、最高だと思っている。

 「七人の侍」の中で、三船敏郎演じる「菊千代」が、屋根に旗を突き立てるシーンがある。野武士との戦闘で仲間を失い、悄然とする村人たちを鼓舞するためである。この旗が良い。薄汚れた布切れに、〇を6つと△をひとつ、そして「た」の字を書いただけのものだ。〇と△は侍たちを、「た」は農民たちを表すのだが、シンプル極まりない。(図20

図20:「七人の侍」より

 しかし立てられた旗が風にたなびく姿をみて、サムライと農民たちはふたたび勇気を取り戻す。

 ぼくはこのシーンに、特別な意味を読み解く。

 「七人の侍」がつくられたのは、昭和29年である。戦争でズダボロに負けてから、たった9年間しか経っていない。今の時代から回顧的に見れば、朝鮮特需を経て高度経済成長が勃興しつつある、明るい時代に見えるかもしれない。しかしそれは結果論に過ぎない。実際に昭和29年の日本に身を置いてみれば、人々はまだまだ、外国に対する劣等感の中で暮らしていたのではなかろうか。

 虫けらのごとき存在であった農民たちが戦う姿に、日本人は自らの姿を重ねたに違いない。戦争には敗けたが、それがどうした、そういう意地があったに違いない。

 ぼくはそうしたタイプの意地に、大きく共感する。 

 人はだれしも、なにものかに抑えられて、あるいは縛られて生きている。

 ただ「俺は俺」と開き直れば、そんなものはどうということはない

 あえて「駅前」食堂と命名したこのオッサンも、そういうセンスを持っているに違いない。

 これこそ正しい高知県人、つまり「ヤンキー」魂である。

 ただ高知県の「ヤンキー」たちの名誉のために言わせていただくと、大阪の盛り場などにいる「半グレ」と、高知のヤンキーとは、明らかに性質が違う。

 前者は単なる犯罪集団だ。しかし高知のヤンキーは、正確に言えば「10代のころは不良をしていたが、その後はまともになり、きちんと働いている」人たちなのである。その多くは農業や漁業、もしくは工場や商店経営など、自営業者である。

 これは高知県の産業構造に、大きく関係する。高知県には大企業がない。したがって、ほとんどの人が一次産業にたずさわるか、自分で店を経営せざるを得ない。サラリーマンをデフォルトとする東京とは、状況がまったく異なる。

 就職をしないのだから、大学へ上がる必要もそれほどない。だから高校時代をかなりゆったりと過ごす。生命力の強い子は、エネルギーを持て余してヤンキーになる。そういうことなのである。言ってみれば、ヤンキーがクラブ活動みたいなところがある。

 また、そうした活動を通じて相互のネットワーク、つまり地縁が強まる。これは農業や漁業など、土地に根差した職業に就くにあたって、実利があるのである。

 たとえば漁師の場合、おのおのが別々に漁に出て行っては、作業の効率が悪い。各人の役割を分担して、守らせる必要がある。構成員の密なネットワークがあってこそ、円滑に仕事を進めることができる。ヤンキーたちは長幼の序を非常に大切にするが、無意識的に、社会生活を始める前の訓練をしているのではないか?

 ぼくは医学生を教えている。医学生の中にはいろいろなタイプがいるが、一番苦手なのは、無気力・無反応の学生だ。言われたことはこなすのだが、「何か質問ある?」と聞いても、意味不明な微笑を浮かべるだけで、自分の意見を言わない。こういう学生が増えている。

 ぼくはエネルギーのある人間が好きだ。入試制度は最近、多様化が進んでいる。特に医学部の場合、地方勤務を嫌がらない医師を育てようということで、「地域特別枠」なども設けられている。これにならって医学部にも、「ヤン…」、ではなくて「ちょっとヤンチャな高校生、特別枠」も設けてもよいのではないか?たまたま勉強する環境がないけれど、ヤンキーの中にも、地頭の良い子はたしかにいる。成績だけよくて無気力な学生より、よほどいい医者になると思うのだが。

 そんなことを考えているうちに、料理が運ばれてきた。(図21

 

図21:個人的なフルコース

 腹が減っていたせいもあるのだが、すべてのものが非常に美味しい。

 卵焼きなど、味になんともいえない力強さがある(図22)

図22:昭和の弁当に入っていそうな卵焼き

 ぼくは大学時代、かなり真剣にラグビーをやっていた。夏合宿などでは、めちゃくちゃに腹が減る、ゆえに食事が非常に美味しかった。その時と同じ美味さである。そういえば、床がコンクリートのこの食堂は、ぼくが所属していたラグビー部の部室によく似ている。

 ワンカップ酒の瓶で飲む、ほうじ茶がとりわけうまい。

 千利休は、陶工の長次郎に命じて、素朴な茶碗を作らせた。わび・さびの精神を体現するためである。しかし利休さんよ、ワンカップの容器で飲む茶の美味さを、アンタ知ってるかい

 ぼくはこの食堂にすっかり満足した。

 支払いをしようと声をかけると、店主は厨房から出てきた。

 ぼくはお金を渡しながら、「とてもおいしかったです」と言った。

 「ありがとう。また寄ってね。」

 そう返ってくるかと思った。

「あたりめーだろ。俺が作ったんだから」くらいの返答であれば、ぼくとしては100点満点をあげたい。ただ、いくらなんでも、そこまで期待するのは厳しかろう。

 しかし、しかしである。店主は、意外な言葉を発した。

 「お客さん、テニスが得意なんじゃない?

 「???」

 この言葉は、かなり意外だった。

 なぜそう聞くのか、尋ねようとした時、常連のお客さんが何人か入ってきた。

 それで、問い返すタイミングを失ってしまった。

 帰りの運転の最中、オッサンの言葉の意味を考えてみた。

 だれかぼくによく似た、テニスの選手がいるのであろうか?

 あるいはオッサンは昔テニスをやっていて、ぼくの醸し出す雰囲気に親近感を覚えたのか。こちらはオッサンを品定めしていたのだが、オッサンもこちらを品定めしていたのであろう。

 しかし「テニス」とは?

 いまだに、さっぱり意味が解らない。しかし少なくとも、ネガティブな意味ではなかろう。そんなことをまさか客に聞く店主もおるまいが、「お客さん、借金ある?」とか「お客さん、失業中?」などよりは高い評価である、と考えてよいのではなかろうか。

 要するに、あの元ヤンキーの(と決めつけている)店主の「面接」において、一次審査くらいはパスしたと考えてよいであろう。何回か通えば、彼とも友達になれそうだ。

 こうして、ぼくの高知におけるヤンキー・シンジケートは、ますます拡大してゆくのであった。