「流れ者」たちの宴(うたげ)

こういう近況報告が多いんですよ

 先週の土曜日に松山で、高校の同窓会が催された。

 正確にいえば高校の「四国同窓会」で、卒業生で四国に今すんでいるか、住んだことのある人間たちが年に一度集まって、酒を飲むのである。

 この集まりがまた、味がある。

 一口に同窓会といっても、いろいろある。

 ほとんどの学校の同窓会は、その高校なり大学の所在地で行われるはずだ。

 たとえば香川県には高松高校という名門高がある。香川県ではナンバーワンの進学校だ。お盆や正月に高松のホテルに行くと、この高校の同窓会をよくやっている。皆が帰省したおりに、行われているわけだ。

 高松高校を卒業した後に、仕事の関係で東京や大阪に移り住んだ人もかなりいるだろう。しかし就学期に高松にいたということは、おそらく実家は高松か、その近辺にあるはずである。だからこそ高松高校の同窓会は、ほとんどの場合、高松で行われるのだ。高松高校の同窓会が、たとえば那覇で行われることは、滅多にないと思う。

 ところがぼくの卒業した高校は、松山なり高知で「四国同窓会」をやってしまう。高校が東京にあるにも拘わらず、である。これはかなり、異色なことなのではないだろうか。

 「四国同窓会」の異色な点は、もうひとつある。

 通常の同窓会であれば、同じ学年か、あるいはせいぜい2~3年の学年内で招集がかかる。とくに共学の学校の場合はそうだろう。共学の学校では、在学中に恋愛をすることも多いはずだ。恋愛とまではいかないまでも、ひそかな思慕であるとか、憧れの気持ちをクラスメートに抱くことは、だれでも多かれ少なかれあるはずだ。時を経て「憧れの君」と再会し、思い出を甘酸っぱく噛みしめることも、同窓会の目的のひとつに違いない。とくに20代や30代前半の場合には、単なる再会に留まらず、さらに結婚につながる可能性だってありうる。だからあんまり齢の離れている人間同士は、集まらないだろう。したがって招待される人間の年齢がある程度、限られてくる。

 要するに、フツーの同窓会というものは、①卒業した学校の近くで行われ ②参加者の年齢は近接しており ③(共学の学校の場合には)疑似恋愛的な要素も含む ものである。

 ところがわが「四国同窓会」は、これらの基準すべてに、見事に当てはまらない

 高校は東京の荒川区にある。この地域はいわゆる下町で、高級な地域とはお世辞にも言えない。ただし交通については極めて至便で、15分も電車にのれば池袋や上野につく。

 これに対して四国同窓会は毎年、徳島・高松・高知・松山をローテートしつつ行われる。これらの街は、一応は県庁所在地ではある。だからメチャクチャな田舎、とまでは言えない。しかし東京からは、かなり離れている。

 距離のみならず、心理感覚的にも、四国は東京からかなり離れている。

 香川・愛媛・徳島・高知はすべて、関西文化圏にある。ぼくなどはもともと山口の出身であるので、さしたる違和感もなく四国の生活に溶け込むことができた。しかし生粋の関東の人間が移り住んだ場合には、馴染むまでに少し時間がかかるはずだ。

 つまり四国は距離的に東京からかなり離れているし、その距離感は文化的な差異により増幅されるのである。

 それなのに、高校の同窓会を松山や高知で開催する強引さがたいしたものである。

 参加者の年齢層が幅広いことも、「四国同窓会」の異色な点である。

 なぜ年齢層が広くなるかというと、年齢に関係なく、卒業生というだけで招待状を出すからだ。関西圏ならば卒業生もそれなりいるだろうが、四国ともなると、住んでいる卒業生は、やはり多くはない。だから年齢の制限など設けてしまうと、十分な参加人数が集まらないのである。

 それゆえ蓋を開けてみると参加者は、23歳の医学生から、20年間も大学で教えているオッサン教員まで、年齢差がほぼ30歳にわたることになる。

 ここまで異質な同窓会であるがゆえに、そこで交わされる会話の内容も、普通の同窓会なんかとは全く性質が異なる。

 まず、同窓会にありがちな出世自慢が一切ない。

 これは別に、参加者たちが人格者だからではない。単純に、出世自慢なんかしたって意味がないのである。

 この点については、たとえば医者の同窓会と対比するとよくわかる。

 ぼくは高校を出た後、都内の大学の医学部に進んだ。その大学は総合大学であるが、医学部だけは別のキャンパスだったので、他の学部との交流がほとんどなかった。そのため同窓会は、医学部の内部だけで行われる。しかも開催される場所は毎年、大学病院の近くにあるパブと決まっている。つまり同じ同窓会とは言っても、「四国同窓会」とすべての面で真逆なのである。

 医学部の同窓会は、どういう雰囲気であったか。

 ぼくは8年前に香川に越して来る前は、母校の大学病院に勤務していた。そのときには毎年、大学の同窓会には必ず参加していた。クラスメートたちはいい人間が多く、彼らと過ごす時間が楽しかったからだ。

 一つだけ残念だったのは、どうしても皆、出世自慢に流れる傾向があったことだ。

 ただこれは、考えてみると当たり前の帰結なのだ。同じ職業で同じ世代の人間では、(世俗的な意味での)成功をはかる物差しが、大きくは違わない。だからちょっと話を聴いただけで、その人がどういう境遇にあるのかが、簡単にわかってしまうのだ。

 そのためどうしても、みんな自分を大きく見せようという心理が働いてしまう。そうすると、どこそこの教授になりましたとか、院長になりましたとか、近況報告が自慢話のオンパレードになってしまうのだ。

 教授や院長くらいならまだ良いほうで、酒に酔ってくると、開業をしていて収入が何千万円ありますとか、製薬会社の役員をやっていて交際費が年間2000万円使えますとか、えげつない話も出てきてしまう。(この模様は前にブログで書いています→チョンル・プージン - Nagasaoのブログ (hatenablog.com))。

 別に医者の世界だけではなく、同質・同業の人間が集まるタイプの同窓会においては、これと同じ現象が起こるのではないだろうか。たとえばぼくの高校にも、「四国同窓会」とは別に、キャリア官僚たちが集まる同窓会とか、弁護士たちが集まる同窓会があるらしい。

 ぼくは官僚でも弁護士でもないので、そういう同窓会に参加したことはない。しかし、例えば官僚の同窓会では「このたび局長になりました」とか、「官庁を辞めて民間企業の役員になりました」などという話が、多く出てくるのではないかと思う。

 ところが「四国同窓会」においては、ほとんどそういう話はでてこない。

 主たる原因は、参加者の職業がバラバラであることだ。出世を自慢したって、他の参加者には、その価値がわからないのである。

 「四国同窓会」の参加者の職業は、証券会社を経営していたり、弁護士をしていたり、農学部林業を教えていたり、高知県の過疎地域で町おこしをしていたり、新聞記者をしていたり、外科医をしていたりする人間たちで、見事なまでに統一性がない。

 だから例えばぼくが、「こういう手術を年に何百例やっています」なんて自慢をしたとしても、「あっそう。フーン」で終わってしまうのである(しないけどね)。

 その素っ気なさが非常によい

 ただしみんな、お互いに対して無関心というわけではない。

 たしかに他人が「世俗的な意味でどのくらい成功しているのか」についてはほとんど興味がない。

 しかし「どのような人生を歩んできたのか」については、大いに関心がある。だから新メンバーが加わると、「お仕事は何をしているのですか」ではなく、「あんたは、なんで四国に流れてきたの?」から会話が始まるのである。

 刑務所に新人(?)が収監されると、まずは牢名主の前につれて行かれて、「てめえはシャバでなにをやらかした」と訊かれるそれとよく似ている

 刑務所の中では、囚人により刑期が異なる。終身刑クラスの大物から、2-3カ月暮らせば釈放される小物まで、多岐にわたる。

 「四国同窓会」も構図が似ている。20年もいる長老もいるし、今年から四国に来ました、などという初心者もいる。

 だいたいにおいてこういう「初心者」は20代後半か、30代前半くらいである。官庁やマスコミなどでは、若い人間たちを鍛えるために、いわゆる「ドサ周り」をやらせる。たとえば財務省にキャリアで入職した場合、若いうちに地方の税務署長を経験させられる。新聞社なども、若者の見聞を広げるために、地方の支局に何年か出張させる。こういう「ドサ周り」を巡っている若者たちにとって、ぼくのように四国に定住したオッサンたちは、いわば地縛霊みたいなものだろう。

 ところが地縛霊たちは四国という土地で、けっこう楽しく生きているのである。

 「地縛」の理由は人によりさまざまだ。

 上とそりが合わずに組織を飛び出た人間もいる。農学や水産学のように、もともと田舎と親和性のよい分野を専門にしている関係上、四国にやってきた人間もいる。親戚の会社が四国にあって、その経営をするためにやってきた人間もいる。四国出身の女性と恋仲になって、やってきた人間もいる。

 ただみんな、あえて東京での生活を捨てて、主体的に田舎にやってきた点では共通している。

 こういう生き方は、いつの日か若い人間たちにも参考になるのではないか。

 ドラマや映画では、銀行員などが地方の支店に左遷されると、人生が終わったかのように悄然とうつむく。いわゆる「シュッコー」というやつですね。

 ただ地縛霊の立場から言わせていただくと、「なんで落ち込むの?」と思うのである。だって死ぬわけではないし、地方に行ってからの人生の方が楽しい可能性だって多分にあるわけだから。

 たとえば「四国同窓会」では以下のような会話が交わされているのである。

「先輩は大学で林業を教えているのですよね。」

「そうだよ、林業は日本の心だぜ。木を植えて木材になるには50年かかる。つまり爺さんの植えた木が、孫の時代になってやっとお金になる。世代を超えた愛情がないと林業はやっていけないよ。」

「政治家にも林業の研修をさせればいいですよね。そうすると、50年後の日本を見すえた政治ができるのではないかなー。チェーンソー持たせたりして。」

「何いってんだ(突然、怒る)!チェーンソーをなめるんじゃない!少し手元が狂うと、反動で自分の腕を切るんだぞ!」

「す、すいません。そういえば、ぼくの病院にも、チェ―ンソーで腕や顔を切った方がときどきおいでになりますよ。」

「わかりゃいいんだ。チェーンソーを使いこなすのはむずかしいんだ!」

「そうすると『13日の金曜日』のジェイソンなんかは、かなり修行したんでしょうねー。」

「そうだよ。チェーンソーは武器としては効率が悪いね。」

 このようなアホな会話が展開されているのである。チェーンソーの使い方について激論が交わされても、若者に対してエラソーな説教をするオッサンはいないのである。ちなみにこの「チェーンソー」の先輩は、T大を出てドイツに留学したかなりの教養人で、ドイツ語も通訳レベルである。

 四国を通過点にして、これから羽ばたく若者に対しても、オッサンたちは「四国をでて行くな~」とか「左遷されて四国に戻ってこい~」などとは、露ほども思わないのである(それをやったら、本当の地縛霊だよ。)」

 そうではなくて、「これから人生いろいろあるかもしれないけれど、まあ息抜きしたくなったらたまにはやって来いよ」とオッサンたちは思っているのである。優しい地縛霊なのである。

 ようするに、「四国同窓会」は、地縛霊たちのハロウィンだね。

 東京の生活に飽きた人たちの、癒しの場になりうるね。

 だから個人的には、どこの高校を卒業したとかあんまり関係なく、都会の喧騒に疲れたすべての人びとの参加を、受け入れる会にしたいね。会費はしっかりもらうけどね。

 ただそれをやるためには、他の「地縛霊」たちの意見も訊かなくてはいけない。だから悪いけど、すこし待っててくださいね。