チョンル・プージン

f:id:Nagasao:20191104141743j:plain

先人の知恵

 ぼくは知る人ぞ知る中国文化オタクで、とりわけ中国語という言語にはかなり興味を持っています。そのひとつの大きな理由は、中国では数多くの人生の叡智が、成語という形でコンパクトにまとめ上げているからです。
 われわれは生きていく上で、さまざまな問題に遭遇します。しかし人類の歴史は長いから、どのような挫折や問題にぶち当たっても、似たような目にあっている人は、過去にかならずいるものです。さらに先人たちがそれにどう対処したかも、しっかりと記録されています。そうしたノウハウを知っておけば、自分が同類の難局に直面したときに参考になります。

 たとえば「塞翁が馬」という成語がありますね。この成語はかなり知られているのでいまさら説明しなくても良いでしょうが、念のために解説すると、塞翁というおじいさんの馬が一旦いなくなったが、雌馬を連れて戻ってきた、その馬に爺さんの子供が乗っていたら怪我をした。しかしそのおかげで戦争に行かなくてもすみ、命拾いをした、という故事から来ています。つまり、悪いことは良いことに転じうるし、その逆も然りだから、災難に遭ったからとて過度に落ち込む必要はないし、逆に良いことがあったからとて有頂天になるのは愚かしい、という教訓です。

 こうした禍福の転変はどんな人間にもあるはずだから、あらゆる文化において同様な概念は必ずあるはずです。たとえばアフリカだったら、「飼っている牛がたくさん子供を産んで喜んでいたら、そのうちの何頭かは疫病にかかってしまった、しかし病気の牛を食べたライオンが病気にかかって死んだので、村の人々は安全に暮らせるようになった」というような昔話でこうした教訓を伝えるかも知れません。おそらくほとんどすべての文化において、こうした昔話ないしは逸話はあると思います。

 ですが、たとえ同じメッセージを伝えるにしても、昔話もしくは逸話として伝えるのと、4字の成語として伝えるのでは、心に届くパワーとスピードが違います。
 たとえば、あなたが仕事や受験が上手くいかなかった人を慰める場面を創造してみてください。「まあ今回は上手くいかなかったけど、またいつか良いことあるだろう。こんな話があるよ」と言って物語を話し始めるのと、「人間万事塞翁が馬だ。次はがんばれよ」というのでは、相手の受けるインパクトは全く異なることは、簡単に想像できるでしょう。

 このように「人生において遭遇しうる問題点に、いかに対処するか」を短い言葉にまとめ上げたストックの豊富さは、ある言語の実力ともいえるでしょう。中国語では人間生活のあらゆる局面における対処法をきわめて貪欲かつ丁寧に拾い上げて、成語という形で残しています。こうした、歴史に裏打ちされた厚みという点では、あらゆる言語の中でも中国語はトップクラスではないでしょうか。

 ここから本題に入ってゆくのですが、中国語にあまた在る成語の中で、日本に伝わったものと、伝わっていないものがあります。先の「塞翁が馬」や「朝令暮改」「日進月歩」「一石二鳥」「刎頚の交わり」などは日本人の誰もが知っています。


 しかし、中国人たちが日常的に普通に使っており、かつ含蓄の深い成語の中には、日本では全く知られていないものがたくさんあります。その中には素晴らしいものも数多く、こんな奥妙な成語が日本に伝わらなかったのは、もしや中国が隠匿をしたのではないかと疑わせるものすらあります。こうしたすばらしい成語については、ぼくが書いている駄文を読んでくださっている方々に、お礼としてぜひお伝えしたい(とくに今回は長いですし)。そこで、ひとつご紹介します。


 まずは、その成語の元になった故事から紹介します。

 唐代には、地方役人の勤務態度を、中央政府から派遣された監督官が評定するシステムがあった。そうした監督官の一人に蘆(ろ)という人物がいた。蘆はある時、食糧を運搬する地方役人の勤務評定をすることになった。その運搬官の勤務記録を調べていたところ、税金として農民が納めた穀物を船で運送する途中に、船が転覆して大量の穀物が河に流れてしまったことがあったことがわかった。そしてその時に現場を監督していたのが、まさに評定を受けている運搬官だった。そこで蘆はその運搬官を呼び寄せて宣告した。
「悪いが君には『中の下』の評価しかあげることはできない。『下の下』ではないだけ、まだましと思ってくれ」


 運搬官はこう宣告されても、別に表情を変えず、「ああ、そうですか」と言った。
蘆は、運搬宮がまったく態度を変えなかったので驚いた。しかも、何日か彼の様子を見ていると、別段ふてくされている様子も、怒っている様子もない。ただ淡々と業務をこなしているだけだ。
 蘆は彼の泰然とした様子が気に入った。また、くわしく調べてみると船が転覆したのは、突発的な暴風が吹いたためであり不可抗力であったこと、それゆえ監督官にはなんら過失がないことが判明した。
 そこで蘆はふたたび監督官を呼び寄せ、あらためて告げた。
「今回の事故は全く君に責任がないことがわかった。ゆえに、君の評価を『上の上』に変更することにした。」
 突然の朗報を聞いてさだめし喜ぶと思いきや、運搬官はまた「ああ、そうですか」と言っただけで、別に表情を変えなかった。

 

 以上が成語のもととなった故事で、成語は「寵辱不驚」と言います。「寵」は「寵愛(ちょうあい)の寵」で、「辱」は「侮辱」の辱です。漢文読みすると「寵辱(ちょうじょく)に驚かず」ということになるのでしょう。中国語で発音すると「チョンル・プージン」と言うのですが、日本人の耳には「ちょうど、プーチン」と聞こえるでしょう。

 

 ぼくはこの成語が大変に好きで、座右の銘にしています。他人の評価は他人の評価、そんなものに一喜一憂しているほど、人生に時間はありません。自分に対する評価など、ちょっとした運不運でころころ変わるのだから、たまたま低い評価を受けても鼻で嗤っておけばよいのだし、高く評価されても天狗になったりしない、そういう人物をぼくは尊敬しますし、自分もそうなりたいと思っています。

 と、ここまでにしておけば上手くまとまったストーリーになるのでしょうが、そうはいかないのがこのブログなのです。
 気持ちの上だけでその運搬官を心の友として尊敬するだけでなく、「チョンル・プージン(寵辱不驚)」の精神を実践にもうつしたいと考えたぼくは、10年ほど前にそれを実行したことがあります。


 それはある日、大学の同窓会が開かれたときのことでした。ぼくの卒業したのは医学部なので、同級生はほとんど臨床医か、基礎医学の研究者になっていました。40代はじめのこととて、みな開業して軌道に乗るなり、早い人だと教授になるなり、そろそろ差がつき始めるころです。そうした年代の同窓会に参加したことがある方ならお解りだと思うのですが、皆それぞれに「気負い」があります。つまり人生という勝負の中で、自分がそれなりに上手くやっていることを、肩肘張って宣伝したい年頃なのです。

 はたしてその同窓会でも、近況報告の時間がめぐってきました。そして五十音順に、自分が今、何をやっているかということを順番に報告することになりました。始めの何人かは淡々と「横浜で開業して、そこそこやっています」とか「最近、子供が中学受験でして」など、おとなしめに近況報告を行っていました。

 ですが順番が廻るにつれて酒も入ってきますし、ありきたりの人生を送っているのは恥ずかしいという焦りもあるのでしょう。だんだんと話が大きくなってきて、「去年から某大学の教授をやっていて、先週テレビに出ました」というふうな流れになってきました。
 その程度までならまだ良いのですが、「3年前から開業して、今は年収が○千万あります」とか「自分は製薬会社に勤務しているのですが、交際費が年間○千万使えます」というような話すら出てきました。おいおいいい加減にしてくれよ、とぼくは思ったのですが、生来の優しさゆえに直接、彼らの虚栄を諌めるのも気が進みません。

 彼らを傷つけずに「寵辱不驚」の気持ちを伝えるのは自身を引き合いに出すのが良かろう、とぼくは考えました。そのころのぼくは上司との折り合いが悪く、患者さんの治療方針を巡って彼とよく対立していました。

 そこで近況報告が自分に廻ってくると、こう話しました。
「今、母校で働いています。おそらく収入は皆様の半分くらいと思われます。熱心に診察をするためか、患者さんはおかげさまで非常に増えました。でもボスには嫌われていて、いずれは別の大学に出て行けといわれています。客観的に判断すると、おそらくあと3~4年でクビになるでしょうから、その時に備えて手術の腕だけは必死になって磨いています。年収の高い方のお名前はきちんとメモしておきました。浪人して貧乏になったら、なにとぞご援助のほどを。」


 本音と真実。
 瞬間の空気の凍結。
 そして、大爆笑。

 そのあとは「いやー、開業してはみたものの閑古鳥が鳴いていて」とか「ぼくも上司には冷遇されていて」など、皆、本音で話すようになり、その年の同窓会は大いに盛り上がりました。


 チョンル、プージン、チョンル、プージンと自分に囁きながら、この成語を知っていて本当に良かったと、ぼくは胸の中で誇らしく思ったのであります。