ことの発端は、ぼくがある朝、自転車に乗りつつパンを食べている少女を目撃したことだった。
少女はおそらく高校生で、寝坊をしたために食事をする時間がないまま、慌てて学校に行っていたのだろう。
その少女を見てぼくは、漫画だとかドラマでよくあるパターンを思い出した。女の子の主人公は焦りながら学校に行く途中で、誰かとぶつかる。女の子は「どこ見てるのよ!」と相手のことを非難する。ぶつかった相手は男の子で、よく見るとハンサムである。そして、しばらくして女の子とその男の子とはふたたび出会い、恋愛の始まり始まりというわけだ。
こういう物語の始まり方は非常にありふれていて、それ自体がギャグになっている。
ぼくも学生のころなど(ずっと昔であるが)、たとえばクラブ活動の帰りにパンを買って友人と一緒に食べるようなときに、この「パン食い少女」の真似をして笑いをとったものだ。具体的には、パンを口に加えて「ひこく!ひこく!」などと言いながら、小走りに数歩走るのである。「ひこく」と言うのは被告の意味ではない。「ちこく!」と言っているのだが、口にパンを加えているのでそういう発音になっているだけである。
そうするとギャグのセンスの合う友人は即座に意図を理解して、「おらー、どこ見てんだよ!」と答えてくれたものだ。ハンサムな男の子の役割を演じてくれているのである。
中年以後になってこんなギャグをやると、精神構造を疑われるであろうから、ここ30年くらいはそんなギャグはもちろんやっていない。
ただ、くだんの少女を見て、ほんとうに「パン食い少女」はいるのであるなと妙に感心した。
ぼくの調査したところ、この「パン食い少女」は、少なくとも日本国内においては、広く認知されたギャグになっている。
今回のブログを書くにあたって「パン食い」「少女」で検索すると、「パン食い少女」を主人公にしたゲームすらあるらしい。
だが、はたしてこのギャグは諸外国でも通じるのであろうか?少女がパンを口にくわえて学校へ急ぐような状況は、日本に特有なものかも知れない。
たとえばモンゴルの遊牧民の場合には、おそらくそうした状況はあり得まい。なぜなら車もしくは馬に乗って学校にゆくであろうからだ。
アメリカでも、多くの高校生はスクールバスに乗って学校にゆくはずだから、パンをくわえて道を走るなどということはないであろう。
だから彼らにとっては、「パン食い少女」のギャグがわからないのではないか、と考えたのである。
「パン食い少女」に似た例をひとつあげると、たとえば「ちゃぶ台返し」などが挙げられる。これは「巨人の星」というアニメと関係がある。
「巨人の星」はおそらく40代以上の人間ならほとんどの人が知っていると思う。
主人公である星飛雄馬(ほし ひゅうま)が、元プロ野球選手である父・星一徹(ほし いってつ)の厳しい指導とライバルとの切磋琢磨によって、一流の野球選手に成長してゆくストーリーである。
物語の中には、星一徹が食事の最中に怒って、ちゃぶ台をひっくり返すシーンがある。上に載っているご飯やみそ汁を部屋中にぶちまけるインパクトがとても強いので、このシーンは視聴者に強烈な印象を残す。それがギャグになったのである。
ちゃぶ台を使用することは、最近は非常に少なくなってしまった。
こうやってワードで文章を書いていたって、「ちゃぶ台」の「ちゃぶ」の部分にミススペルを警告する赤線がでるほどだ。
いまどき「ちゃぶ台」を使っているのは、サザエさん一家と、星一徹くらいのものだろう(それにしてもサザエさんの波平は、なぜ「ちゃぶ台返し」をやらないのだろうか)。
だが、やはり「ちゃぶ台返し」ギャグの愛好家はいる。
たとえば中年のオッサンが4人くらいで飲みに行ったとき、たまたま和風の座敷に座ったとする。割烹などでは時々、そういうことはあろう。
テーブルが割合に小さくて軽そうな場合には、メンバーの一人がテーブルの一端を少し浮かせて、今にもひっくり返しそうな動作をする。そして「バカモーン」などと言って対面にいる人間の顔にビンタするふりをする。星一徹をまねているのである。
対面にいる人間は「何すんだ!父ちゃん!」と叫ぶ。息子の飛雄馬をまねているのである。
こういうバカなオッサンたちには大変困ったものであるが、実はぼくもその一人だったりする。
こういうギャグを通じて昭和の時代をともに回顧することは、とても楽しい。
しかし、この「ちゃぶ台返し」ギャグを、外国の方が見たらどう思うであろうか?
アメリカ人が見たら、おそらく「その父親(星一徹)は息子(飛雄馬)虐待をしている。虐待は親子と言えども犯罪である」と感じるだけでギャグとはとらないであろう。
食糧危機に悩むアフリカの国々の方が見た場合には、「食べ物を浪費してもったいない!」という反応になるのではないだろうか?
このように、あるギャグがギャグ足りうるのは、特定の文化の中でだけではないかと、ぼくには思えるのである。さほどにギャグとは、繊細なものなのである。
「パン食い少女」なり「ちゃぶ台返し」が外国の方に理解されないとすれば、理解されない部分は、きわめて「日本的」ということになる。
つまり、他の文化においてはそういうギャグの背景が存在しないからこそ、理解されないのだ。
だから逆に考えると、「文化内限定ギャグ」は、その文化の特徴を浮き彫りにしていると言える。
ぼくはそういう意味で、さまざまな文化における「文化内限定ギャグ」に興味を抱いた。
そして、いろいろな国における、そういった「ご当地ギャグ」を集めてみたくなった。そこで件の「パン食い少女」ギャグを紹介し、あなたたちの国でこういうふうなギャグはありませんか、とfacebookで発信してみた。
中国とギリシャから返信をいただいた。
まず中国のギャグを紹介する。
中国で何年か前に、「真香(チェン・シャン)!」と言う言葉が流行ギャグになったことがあった。
これは日本語では「うめー!」、英語では”Yummy!”に相当する。
このギャグはどういう状況で使われるか?たとえば友人同士で食事に行ったとする。
そこで出された料理が非常に美味しかったとする。
そうすると、その一人が「真香(チェン・シャン)!」という。
この時に、なるべくアホな顔をしていうのがコツである。
周りの人間はどっと笑う、という感じ。
このギャグはどこが面白いの?と思うであろう。
このギャグには背景があるのである。
2014年に中国のローカルテレビ局が制作した番組の中で、あるプロジェクトが企画された。王境沢(ワン・ジンザー)という少年を更生されるプロジェクトである。
王は裕福な家庭に育ったが、父母により甘やかされて育ったために、わがままになった。自分の好きなものしか食べないし、すぐに怒る。はては父母にまで手をあげるようになった。
そこで王を、ド田舎の農村に送り込んで、そこでたたき直そうではないか、というプロジェクトが企画された。
王は農村に連れてこられた当初(数時間)は、貧しい農村の生活を受けいれられなかった。
農村の素朴な食べ物を受け入れられず、「おれ様は、たとえ餓死しても、おまえらのメシは食わない」とのたまった。
ところが数時間後に空腹になる(当たり前だ)。
農家のホストファミリーは彼にチャーハンを作って出す。
王は出されたチャーハンをむさぼり食べ、「真香!=ホントにうめ―!」と思わず口に出す。 まったくのアホ面で。
この落差が非常に可笑しいので、王の動画はまたたく間に拡散されることになる。
それで「真香(チェン・シャン)!」は国民的なギャグになったのである。
この出来事の動画はYouTubeで見ることができる。英語の字幕もあるので、ぜひ見て欲しい。ぼくは爆笑した。王境沢の顔のアホさが何とも言えない。
https://www.youtube.com/watch?v=VGZZQpWnAc4
とはいえ、背景にあるエピソードを知らないと、「真香(チェン・シャン)!」は別に面白くない。集団の中で共有された知識がギャグの前提になっている点で、「ちゃぶ台返し」と共通しているのだ。
もっとも、「真香(チェン・シャン)!」は星一徹の「ちゃぶ台返し」とは違って、そこに文化的な特有性があるわけではない。フランスの非行少年がフランスの田舎に連れていかれても、同じようなギャグになりうるはずである。
つまり、このギャグについては、ある程度の国際的普遍性がある。
ここまでが中国からご紹介いただいたギャグである。
最後に、ギリシャからいただいたギャグネタをご紹介する。
ぼくはかつて、①モンゴルの収容所における日本人俘虜の物語 ②タコは人々にどう思われているか について、Facebookを通じて国際研究を呼び掛けたことがある。
ギリシャ人の友人であるLydia Psaradelli(以下サラさん)は、毎回こうしたくだらない国際研究に惜しみなく加担してくださる(本当によく毎回毎回、つき合ってくださるものだ)。
サラさんは今回もギリシャ特有のギャグについてご教示くださった。
サラさん曰く”Take a jacket”と言うのが、ギリシアにおける定番ギャグの一つになっているそうなのである。
日本語に訳すと「上着を持ってゆきなさい」ということなのである。
なぜ、こんなセリフがギャグになるのだろうか?
どこの国でも、母親は自分の子供のことが気にかかる。子供が何歳になってもだ。
ただ、どうもギリシアの母親は、他の国の母親よりもずっと強烈らしい。
そのことをギリシア人たちは自覚していて、それがギャグネタになるようなのである。
たとえば上の写真は、ジャケットを忘れて出かけた息子に、それを渡そうとして追いすがる母親をネタにしたギャグである。
また下の写真は”take a jacket”という言葉そのものがタイトルになっているテレビ番組で、3人の母親とその子供たちの日常をテーマにしているらしい。
つまりギリシャ人の自覚する、ギャグ的アイデンティティは、母親の過度の愛情、ということらしい。
息子や娘が何歳になっても、まだ子供あつかい。寒かろうが暑かろうが、家を出る際には「ジャケット持った?」と訊く。
こういうジョークもあるらしい「ギリシャの母親にはなにもわからないことはない―明日の献立以外には」
また、ギャグとは直接関連はないのだが、サラさんは別の、いかにもギリシャらしい話を教えてくれた。
成功した人を妬むのは世の常で、ギリシャでもそういう人がいるらしい。
人の妬みとはやっぱり怖いもので、それが原因になって頭痛や体調不良が起こる、と信じられている。
だからギリシャの母親たちは、自分たちの子供がそういう妬みの魔力から逃れるように、おまじないをする。こういうのをxematiazeiと言うらしい。たとえば水に油をたらすことで、アンチ魔力の効果があるらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=P_8Fe1sEeMM
それに絡んだ格言「成功した人間の背後には、母のxematianzeiがある。」
今回は日本・中国・ギリシャからギャグを募ってみた。
こうしてみると、やはりそれぞれの国のギャグは、国民性をある程度は反映しているように思えなくもない。
ギリシャのギャグは格言と結びつき、少し呪術的な香りもする。さすが文明と哲学の国である。
中国のギャグは「食」に関連している。さすがは美食大国である。
日本のギャグを選んだのはぼくなのであるが、星一徹の「ちゃぶ台返し」から星飛雄馬の根性は養われたのである。この点、勤勉を美徳とする日本の文化と多少は関係しているかもしれない。
というわけで、今後も国際ギャグ研究は続くのである(たぶん)。