なぜに東大がノーベル賞とれない?

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いろいろ話題になりますね

 10月に2019年のノーベル化学賞が発表され、吉野彰さんが受賞されました。吉野さんもそうですが、日本人のノーベル賞受賞者はたいていが京都大学のご出身です。日本人がノーベル賞を獲るといつも、「なぜ京大出身者や東北大出身者はノーベル賞が獲れて、東大出身者は獲れないのか」が議論になります。
 論理性とか数理能力、科学的思考力に関しては東大の卒業生も京大の卒業生も差異はないはずなのに、たしかに京大にノーベル賞が偏っているのは不思議ですね。
 この原因は何かを、東大の首脳たちは必死に考えていることでしょう。

 かくのごとき重要な問題について、東大にも京大にも全く関係のない、私大出身かつ地方大学在職中のぼくが意見を述べるのは不遜であるとは重々承知しています。ですので、不愉快に思われる方は、ここで読むのをお辞め願います。
 ですが、おそらくそれが、東大出身者がその能力に見合った力を発揮できていないことの直接の原因ではないにしても、かなり大きな原因にはなっているであろうなと、ぼくが自分なりに思っていることがあります。余計なお世話で申し訳ないですが、今回はそのことについて書きます。

 ぼくは故あって、長らく住んだ東京を離れ、5年ほど前から香川県で働いています。
 東京と香川では生活環境は異なります。変化が起こると、その変化の生み出す結果に自然と関心が向くもので、この5年間の間、「環境の違いは、人の性格やものの考え方にどのように影響するのか」をずっと考えてきました。
 その結果、あることに気がつきました。それは「東京など大都市に住んでいると、人間関係について考える時間が長く、香川など地方都市にいると、自然現象や事実について考える時間が長い」ということです。

 より詳しく説明します。私たちは生活してゆくうえで、なにか絶えず考えているものです。
たとえばぼくは今日、以下のようなことを考えました。
 内容1:「来年度、学会を主宰しなくてはいけないが、会場はどこにしようか。」
 内容2:「看護学生に講義をする係りを決めるが、だれにやってもらおうか。A君は熱心だが、B君の方が看護学生さんたちには人気がありそうだし。」
 内容3:「漏斗胸の患者さんには胸骨が短い人が多いが、胸骨の低成長と漏斗胸にはなにか関係があるのではないか」
 内容4:「縄文時代の人間はドングリも食べていたというが、どのように調理をしていたのであろうか」
 内容1~3については勤務時間内に考えた内容であり、内容4は勤務終了後に山道をランニングしていてドングリを見たときに、何気なく頭に浮かんだ疑問です。

 思考の内容について分類するにはいろいろな切り口があるでしょう。
今回、着目する切り口は「人間関係についての思考か、そうでないか」です。
自分の立ち居振る舞いや意見声明を見て、他の人や集団がどのように思うであろうかをおもんぱかるのが「人間関係についての思考」であり、人間関係以外の対象について考えるのが「そうでない思考」です。

 先に述べた4つの内容について、この切り口から分類してみましょう。
 まず内容1は「人間関係についての思考」です。学会の会場をどこにするのかに応じて、参加者が学会場においでになる手間も異なるであろうし、その結果として、会長であるぼくに対して批判的な意見も生まれるかも知れません。つまりこの思考の本質は、「他の人々がぼくをどう見るのか」に影響します。ゆえに「人間関係についての思考」です。
 直接の対象が自分ではありませんが、内容2看護学生ならびに講義をする先生たちのパーソナリティや評判に関心をおく点において、やはり「人間関係についての思考」と言えます。

 ところが内容3については少し異なります。漏斗胸の患者さんという、人間についての内容ではあります。しかし関心の中心になっているのは患者さんとの人間関係ではありません。あくまでも漏斗胸という疾患に関する、科学的な推察です。ゆえにこれは、「人間関係以外の思考」に分類されます。
 内容4も「人間関係以外の思考」であることは自明でしょう。
 
 ぼくは「自分が今、何を考えているのか」をときどき検証するように心がけています。というのはそうすることによって問題の所在が明らかになることが多いし、意外に思われるかもしれないが、ストレスの解消になるからです。
 たとえば、ある会合を企画していて、当日になって参加できないという連絡を一人の参加予定者から受けたとします。幹事の立場としては当然ムカッとします。しかし一度自分の外に離れてみて「今、自分はドタキャンに対して腹を立てているな」と認識すれば、腹を立てている自分が何となく恥ずかしくなってきます。そして「まあドタキャンをするよほどの理由があったのであろう」という方向に、考えが流れてゆきます。そうすると、不用意に相手を責めたりして関係を悪化させることもないし、自分のストレスも減ります。

 このような理由から「自分が今何を考えているのか」を意識化する習慣が、ぼくにはついています。
 ぼくは日頃は香川県に住んでいますが、患者さんの診察や学会の参加のために、しばしば東京にゆきます。環境の変化に応じて、自分が考えている内容は変わるかどうかを、改めて考え直してみました。


 すると、東京にいると「人間関係の思考」の割合が多いことに気がつきました。この文章の要諦はそういうことです。つまり、香川県にいる時には漏斗胸の成因ですとか縄文時代のドングリのことなども考えますが、東京にいると、明日の会合ではだれに会うからこういう話をしようとか、彼はうどんが好きだから手土産にもってくればよかったなとか、他の人の感情について考える頻度が増える、と言う事です。より平たく言うと、「モノについて考えている時間より、人について考えている時間が長くなる」と言う事です。

 なぜ東京にいると、人間もしくは人間関係について考える時間が長くなるのでしょうか。これは単純に、人が多いからだと思います
 東京にいるとどこに行っても人であふれています。例えば新宿駅ラッシュアワーに行ってみると、乗客で渋滞しています。しかもその渋滞は、毎日発生するわけです。歩行する人間が連日、渋滞を起こすという現象は、おそらく日本では、東京以外の都市では起こらないでしょう。しかも新宿のみならず、渋谷でも、池袋でも、上野でも似たような現象が連日おこっています。
 そこへ行くと香川県は人がぐんと少なく、例えば高松駅の賑わいは、せいぜい中野駅錦糸町くらいのものです。慣れてくるとその少なさが非常に快適になってきます。もっとも、ここではそういうことを問題にしているわけではありませんが。

 あるものが眼に触れる頻度が高くなると、そのものについて考える頻度が増えます。たとえば牧場の近くに住んでいれば、牛のことについて考えることが多いでしょう。山の中に住んでいる人は魚や船のことについてはあまり考えないでしょうが、海の近くに住んでいる人は、たとえば漁師や海運業に携わっていなかったとしても、ときどきは魚や船について考えるはずです。だって、身近にあるのですから。
 これは人間というより、動物一般の持っている本能なのでしょう。自分の生きている環境の中にあるものが頻繁に現れるとき、そのものが自分にとって益になるのか、害になるかを判断して対応しなくては、動物は生存できません。人間も動物ですから、日常生活においてある特定のものに遭遇する頻度が高くなればなるほど、そのものについて考える時間が長くなります。

 今までの内容をまとめると、東京は人が多い→ゆえに、いつもたくさんの人間を見ることになる→したがって、人間や人間関係について考える時間が自然と長くなる、ということです。単純な話です。

 人間が一日の中で思考に費やす時間とエネルギーは有限です。あることを考えることが多くなると、他のことを考える時間が減ります。つまり、人間や人間関係について考える時間が長くなると、相対的に事物(=モノ)について考える時間が減ります

 ノーベル賞をとるほどの方の頭の中がどうなっているのかは、ぼくには見当もつきません。ですが、やはり科学を生業として生きて行くなかで、研究する対象である事物について考える時間が長いほど、研究成果も上がるのではないでしょうか。

 この点で、こと科学研究においては地方都市の方が東京よりも環境が良い、と考えられます。これゆえに東京にいる研究者は本来の能力を十分に発揮できていないのではないか、という気がします。科学研究は人ではなくモノが対象です。モノについて考える割合が多くなれば、より研究成果が上がるのではないでしょうか?

 だから東大の理系学部を、地方に移してみたらどうでしょう。それほど人の多くない環境にいると、人について考える時間が減ります、その分、科学者にとって本来の職分である、モノついて考える時間が増えます。すると研究業績も上がり、本来は非常に優秀な彼らの才能も開花するかもしれません。