世の中に「オバちゃん」は必要だ

  ぼくは香川県を本拠地にしているのだが、ときどき東京や大阪にも手術に行く。何か前か、神奈川の病院に手術をやりに行った。患者さんは小学生であった。

 手術はうまく行った。手術の翌日にも念のために患者さんを診察に行ったのだが、さしたる問題は見られなかった。そこで安心して新幹線に乗った。

 新幹線が大阪に着いた時、突然、ぼくの携帯に連絡が入った。

 電話の主は、手術の時に助手についてくれた若い医師であった。彼はぼくの卒業した大学の後輩だ。ぼくは患者さんの管理を彼に頼んでおり、なにかあったらすぐに連絡をするように言ってあった。

 「患者さんが大変なんです」という。

 こういう電話は非常に嫌なものだ。しかし現実から目をそらしてはいけない。

 ぼくは尋ねた。

「大変というのは、具体的に何が起こったの?」

 後輩は答えた。

「レントゲン写真を見ている時、小児科の先生がたまたま通りかかったんです。そして『緊急手術の適応だ』って言うのです。」

 ぼくは後輩に、レントゲン写真を撮影して、ぼくの携帯に送るように指示した。

 送られてきたレントゲンを見ると、なんの問題もない。

 ぼくはふたたび電話をかけて、その小児科の先生が、どのような理由で「再手術」と言ったのかを確かめた。

 すると後輩は「胸郭の中に空気があるからです」と言う。

 ぼくは体の力が一気に抜ける気がした。

 その患者さんに対しては、「あばら」の形を整える手術を行った。手術を行う際には、肺を傷つけないように、いったん肺を縮ませる。だから、肺と「あばら」の間に空気が残るのは当たり前のことなのだ。

 ただ、その小児科の先生が、緊急手術が必要と言ったのも、無理はないと思った。小児科は内科系の分野だから、手術後の患者さんを診る機会はほとんどない。手術を受けていない患者さんの胸郭に空気が入るとしたら、可能性は一つしかない。肺の一部が破れて、中の空気が外に漏れだしている場合だ。この状態は気胸と言って、たしかに手術の適応になりうる、小児科の先生は、そのように考えたのであろうということが、ぼくには手に取るようにわかった。

 ぼくはそのことを後輩に伝え、落ち着いて経過を見るように話した。そして案の定、何事も起こりはしなかった。

 ただし携帯に連絡が入ったときには、ぼくの心の平和は少なからず乱された。だから記念に、この件を「新幹線大阪事件」と名付けさせていただいた

 それにしても、後輩の焦りぶりは尋常ではなかった。だから、その小児科の先生が彼にどのような言い方をしたのかに、ぼくは興味を抱いた。そこで、ほとぼりが冷めたころ、その点について尋ねてみた。

 後輩曰く、その小児科の先生は、子供の呼吸器に病気については権威(自称)だそうだ。そこで肺炎を中心とする呼吸器疾患のおそろしさを、彼に微に入り際にわたり、後輩にじっくりと講義したらしい。経験の少ない研修医にとっては、恐れおののくのも無理はない。そこで、ぼくに電話をかけてきたわけだ。

 おそらくその小児科の先生は、純粋に親切心から、アドバイスをしてくれたのであろう。考えようによってはありがたいことだ

 いったいその小児科の先生はどういう人なのだろう?ぼくは興味を持った。小児科は形成外科とは接点がそれほどない。だが、その病院にはぼくと同じ大学を卒業した医師が数多く勤務しているので、もしかしたらその先生の事を知っているかもしれない。そこで後輩に、その小児科の先生の名前を尋ねてみた。

 その名前を聞いて、ぼくは思わず爆笑した

 彼はぼくの知っている先生だった。のみならず彼とは、25年ほど前(彼はぼくとほぼ同年配である)にまったく似たような関わり方をしている。

 ぼくはそのころはまだ若かったので、先輩の手術した患者さんの管理を任されていた。夕方まで患者さんの様子を見てから帰ったのだが、夜に突然、看護師さんから電話があった。患者さんの状態が「急変」したというのだ。

 ぼくは押っ取り刀で病院に駆け付けた。ところが、患者さんの容態は異常には見えない。

 そこで担当の看護師さんに詳細を尋ねたところ、血圧が下がったからコールしたとのことであった。たしかに、ぼくが帰る前に比べると血圧は少し下がっている。

 だがそれくらいの変動はよくあることだ。そこでぼくは看護師さんに言った。

 「これぐらい、血圧が下がることは、よくあることだと思うけど」

 「私もそう思うんですけど、T先生(例の小児科の先生)が緊急事態だと」

 「???」

 そこへやおら、T先生が顔を出した。

 そして、小児の血圧管理には細心の注意が必要であることを、ぼくに対して講義し始めた。小さな血圧低下を見落としたがために、重篤な結果を招いた例を交えながら。

 ぼくはその頃はまだ20代で、自分の知らないことがたくさんあることに打ちのめされる日々を送っていた。だから、T先生の説教じみた「講義」もありがたく拝聴しておいた。T先生とぼくとは同年配ではあるが、なにしろ向こうは小児科だ。小児の管理についてはぼくよりかなり詳しいことは事実だと思ったからだ。

 とはいうものの、「なんで俺が説教されるの?」という違和感はあった。

 血圧の低下を見落として事故になった例はあるかもしれない。ただし、ぼくが目の前で管理している患者さんについていえば、血圧が低下したと言っても、それほど大きく下がっているわけではない。言ってみれば、電車にこれから乗ろうとしている時に、「電車に乗ると大事故が起こることもあるよ」と説教されたようなものだ。

 ただT先生は、彼なりの親切心でやってくれているようだ。だからぼくは、彼の長い長い説教を、じっと辛抱して最後まで、おとなしく拝聴した。

 このように、小児科のT先生の巻き起こした騒ぎに、ぼくは2回も巻き込まれている。

 特に2回目の「新大阪新幹線事件」のプレッシャーは大きかった。

 人間はひやりとする目に合うと、「寿命が縮んだ」という。心拍の増加と精神の緊張が、体力を疲弊させるためである。「新大阪新幹線事件」によって、ぼくの寿命は少なくとも3日くらいは短くなったと思う。

 でもT先生に対して、「相変わらず困った奴だな」という苦笑いの心境であっても、彼のことを怒ったりする気にはなれない。たとえそれが結果的に間違いであったとしても、その人なりの情熱で動いているのであり、根底にあるのが私利私欲ではないからだ。ギャグマンガの主人公にそういうタイプが多いバカボンのパパなどがその典型で、自分の思い込みが強くて他人を引っ張り込むタイプである。小林よしのりのマンガの主人公も、そういうタイプが多い。

 と書くと、ぼくの友人など「お前もそうだよ」と言うと思う。ご心配なく、ちゃんと自覚していますから。ぼくも思い込みは強い方で、とくに「あばら」の形を整える手術については、かなりうるさい。学会などで、他の医師がいい加減な手術をしているのを見たりすると、けっこう歯に衣着せずに批判してしまう。だから、ぼくをギャグマンガにするのは簡単だと思う。

 開き直って言わせてもらうと、T先生やぼくのように、思い込みが強くて他人の領域に遠慮なく入り込んでくるタイプというのは、医療を行う上では必要なのである。

 医者にはいろいろ専門がある。たとえば子供は小児科、骨を治療するのは整形外科、というように。しかし人間の体と言うものは、非常に複雑にできている。人為的に決めた区切りの中に納まらない病気など、山ほどある。

 たとえば早老症という病気がある。細胞の老化が異常に早く進行する病気で、当然、寿命も短い。この病気の場合、年齢的には10代なのに、身体は通常の人の70歳に相当するようなことが起こりうる。

 そうした患者さんが転んで骨折した場合、どうするか。

 年齢的には小児でも、実際の体は老人である。だから小児科の知識だけしか持っていない医師は、自分だけでその患者さんを診ることはできない。ましてや、骨折の治療などはできない。かといって、骨折の治療はお手の物である整形外科医も、独りで治療を進めるとなると、二の足を踏むであろう。体質そのものが違うので、常識が通用しないからだ。

 だからまともにこういう状況に対応しようと思ったら、「俺はこれが専門だから、そのほかのことはやらない」などと言ってはいられない。わからないながらも、他人の領域に踏み込んでいく、「おせっかい」な人間も必要である。

 それがゆえに、ぼくはT先生のような人間が、嫌いでないのである。類は友を呼ぶのである。

 ところが最近、役人が「働き方改革」などという、おかしなものを進め始めた。

 「働き方改革」では、医師の労働をマニュアル化して、一定の労働時間を定める。そして、その時間以上は働くな、と言う。つまり、自分の仕事をここからここまでと定めて、あとは手を出しなさんな、と言うことである。

 それで物事がうまく回って行けばよいのだが、そう甘くはない。

 「働き方改革」の最大の問題点は、想定外の事態を考慮していないことにある。

 真面目に医療をやっていると、思いもよらない事態と言うのが、どうしても起こってしまうのだ

 たとえばいくら手術を完璧にやったつもりでも、患者があとで、急に痙攣をおこしたりすることがある。また、状態が安定しているなと思っていても、急にアレルギーを起こす、なんてことが時々起こってしまう。

 こういう時に「痙攣はおれの専門ではない」とか「アレルギーは皮膚科の仕事でしょ」などと言っても、らちが開かない。問題なのは目の前の問題をどうするか、ということなのだ。

 「働きかた改革」の成果がうまく出て、その患者を手術した医師が家に帰ってしまっていないような場合には、どうするか。こういうときこそT先生のように、他人事にも首を突っ込んでくる人間が必要なのである。

 昭和の時代には下町に長屋があって、町内を仕切っている「オバちゃん」がいた。

自分の家でつくったお惣菜なんかを人の家に持ってくる。近所に夜遅くまで酒を呑んでいる人がいると、「あんた、飲み過ぎは駄目だよ」と諭す。高校生なんかがたむろして煙草を吸っていたりすると、物おじなど少しもせずに注意する。

 こういうオバちゃんいたからこそ、塀もなくて壁も薄い長屋に住んでいても、泥棒や強盗などが起こらず、治安はそれほどわるくなかったのだ。

 世の中は、一人一人の人間で成り立っていることは確かである。そして、その一人一人が担っている任務がある。

 「働きかた改革」の根底にある発想は、一人一人の人間が自分の任務を果たしていれば、全体もうまく廻っていくでしょう、と言う事である。

 ところがこれは、まったく間違っている

 それぞれの人間の任務は完全に独立しているのではなく、相互に連関し合っているからだ。特に医療では。

 そのことを無視して仕事を定義するのは、「柱」だけ使って家を建てるようなものだ。柱同志を横に連結する「梁」がないと、家などすぐに倒壊してしまう。

 仕事もこれと同じで、個々の人間の任務を横に結び付ける役割が必要なわけですね。それが、「オバちゃん」と言うわけです。

 T先生は病院の中でこういう、オバちゃん的な存在なわけですね。ぼくも自分の専門のなかでは、オバちゃん的な存在なわけですよ。

 だからぼくは君とは案外、気が合うかもね。T先生。今度いっしょに飲みに行こう、と言いたいところだが、お手柔らかに。また寿命を短くしたくないので(笑)。