お金がなくて、困ったら

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注:図と本文に直接の関係はないです(間接にはあるけど)

 

 

 利殖や投資の話ではないことをあらかじめお断りしておく。

 

 ぼくの研究室に今、中国から来ている留学生がいる。Gさんという20代半ばの女性である。

 ぼくの大学院では、研究に関する会話は、基本的に英語で行うことをルールにしている。

 しかしGさんは日本で医師として働きたいという夢を持っているので、英語のみでなくて日本語も一所懸命に勉強している。

 ぼく自身も、言語を勉強するのが好きである。

 だからGさんには、日本語でなにかわからないことがあれば、遠慮せずに訊きにきなさい、と話している。

 

 

 2~3日前、Gさんは日本語の問題集を持ってぼくのところにやってきた。

 ある文を指して、この文でどうしてもわからないことがある、と言う。

 

      “お金がなくて困ったら、訪ねて来なさい

  という文であった。

 

 この文は、日本人にとっては普通の文で、まったく違和感はない。

 だから、どこがわからないのかをぼくはGさんに尋ねた。

  

 Gさんが言うには:「お金がなくて困るのは当たり前のことである、だから『困ったら』と言うのは余計ではないか」

 

  言われてみると、たしかにそうである。

  こういう質問に答えるのは、本当に難しい。

 ただそれだけに、相手に納得できるように説明できたときの喜びは大きい。

 そこでぼくは頭をひねって、なぜこの文が中国人にはよくわからないのかを、しばし考えた。

 そして以下のように答えた。

 “「お金がない」ということと、「困る」ということは必ずしもイコールではないよね。みすぼらしい家に住み、質素な食事をしていても、それで幸せな人もいるから。 つまりは「お金がなくても、困らない」場合だってあるではないか。

 だからこの文章では、より状況をくわしく特定するために、『困ったら』という説明を付け加えているのです。”

 

 ところがこの説明を聞いてもGさんはまだ、腑に落ちないようであった。

 

 そこでいったん質問を持ち帰って、もう2-3日考えてみた。ぼくはしつこいのである。

 すると理屈で説明するのではなくて、言われる側の気持ちに基づいて説明すれば良いのではないかと気がついた。

 もしも、どこかの金持ちがぼくに「お金がなくて困ったら、訪ねて来なさい」と言ったとする。これは、問題集の例文そのものの言い方だ。

  実際にお金がなくなった時、ぼくはその金持ちのことを思い出すだろう。

 その金持ちのところに行ってお金を貰おう、と考えるだろう。

 

 しかし、金持ちが出した条件は、「お金がない」だけでは満たされないのだ。

 「お金がなく」て、なおかつ「困る」ことなのである。

 とすると、ぼくは金持ちのところに行く前に、自分がはたして「困っている」のかどうかについて、検証しなくてはいけない。

 

 これに対し、金持ちはぼくに「お金がないときには、訪ねてきなさい」行ったとする。これはGさんにとっては自然な言い方で、つまりは中国式の文法だ。

 これに則って行動すると、どうなるであろうか。

 ぼくにお金がなくなって、ぼくはその金持ちのことを思い出す。

 そのときに、ぼくはストレートにその金持ちに金の無心をしに行って良いのである。なぜなら、金持ちが出した条件は「ぼくにお金がなくなること」だけであって、その要件はすでに満たしているからだ。

 だから、金を普請しに行く側の心理的負担を考えると、後者の言い方の方が、ハードルが低いのである。逆に言えば、金の出す側の寛容性が、より高いことになる。

 

 より解りやすくするために別の例を考えよう。

 例えばぼくが、リッチな友人と焼肉を食べに行ったとする。

 会計のときになって友人は、貧乏そうなぼくの様子を見て言う。

   (A)「俺が、おごるよ」

   (B)「金もってなかったら、俺がおごるよ」

 おごられる側にとっては、(A)の言い方の方がずっと、ありがたい。なぜなら、「金をもっていない」ことを証明、もしくは言い訳しなくて良いからだ。

 中国人はこうした気前の良さ・寛容性を、大変に高く評価する。

 大げさな言い方をすれば、この点をぼくは、中国文化の叡智だとすら思っている。同じくご馳走するのであれば、恩着せがましくおごるよりも、四の五の言わずに無条件でご馳走した方が、おたがいに気分が良い。

 財政的なサポートをするのだって同じだ。

 だから、「金がなければ訪ねて来なさい」が自然に聞こえるのであり、「金がなくて困ったら、訪ねてきなさい」が、中国人には不自然に聞こえるのではないか。

 

 このようにGさんに説明したところ、ようやく理解していただけた。

 

 ただし正確に言えばGさんは「なぜ理解できないのかを理解した」のであって、本当の理解には、まだ到達していない。

 「金がなくて困ったら、訪ねてきなさい」という日本式の言い方の背後にある、日本独自の美学に論が及んでいないからである。

 

 前述の文の状況における、ぼくが考える日本的な美学について説明する。

 

 貧乏をして金がないからと言ってストレートに無心に来る人間と、いったん、「本当に金が必要なのかどうか」自問してから来る人間の、いずれが奥ゆかしいか。考えてみていただきたい。

 後者なことは言うまでもない。

 

 「日本の文化はこういう『奥ゆかしさ』を重要視するのだ。だから、『金が無かったら来なさい』という言い方はしない」と言っても、やはりそれはそれで筋の通った、説得力のある説明になるのではないか。

 

 また、「共感」を日本文化が重視していることの例証になっている、とも言える。「お金がなくて来ました」と言って金持ちのところに行けば、お金を貰えるかも知れない。

 しかし「そらやるぞ」的な感じがぬぐえない。

 

 これに対して「お金がなくて『困った』から来ました」と言えば、金を貸す(もしくはあげる)側の態度としては、「そうかそうか、君もいろいろ大変なのだね。わかる、わかる」と言うような与え方になるであろう。こういうのが日本人は好きなことは、みなさんにも頷いていただけると思う。

 

 つまり、中国文化は「気前の良さ」や「ストレートさ」に重きを置くのに対して、日本文化では「奥ゆかしさ」と「共感」を重視する。

 どちらが優れているか、という問題ではなくて、両者の「特徴」なのだ。

 

 「自動翻訳機が発達するから、外国語を勉強しても意味はない」と主張する人がいる。たしかに一通り、意味が解る程度の自動翻訳は今だって可能である。

 しかし、ここで述べたような微妙な「綾(あや)」を伝えるのは無理でしょうねえ、と外国語が好きなぼくとしては思うのです。

 それにしても最後まで読んでいただいたあなた、あなたもかなりの言語オタクですねー☺。