「黒パン俘虜記」という小説を、ぼくが英語に訳した話は前にこのブログで書いた。
面白いけれども国際的にはあまり知られていないこの小説を、他の国の人にぜひとも知ってもらおうと思ったのである。
この小説に興味をもってくれるかも知れない人たちを探すため、ぼくはJapanese-Book Loversというサイトの会員になった。Japanese-Book Loversは読んで字のごとく、日本の小説のファンのためのサイトである。
ぼくはこのサイトで「黒パン俘虜記」のあらすじを紹介した。そして、興味を持ってくれる方に、ぼくの訳文をお送りします、とアナウンスをした。
何十人かの外国の方から反応をいただいた。
訳文をお送りしたがそれきり返事をくれない人もいれば、ご自身の感想を教えてくださった方もいる。
ぼくがとりわけ嬉しかったのは、ある外国の方が、とても細かくぼくの訳文を読んでくださったことだ。
あまつさえ、ぼくのブログの他の記事すらも読んでくださって、それらに対する感想すらも加えてくれた。
この方はギリシャの方でLydia Psaradelliさんと言う。とりあえず「サラさん」ということにしておく。
ぼくはブログの中で「タコはバカか」という記事を書いたのであるが、サラさんはこの記事にも関心を示してくださった。
そして、「ギリシャでもタコはよく食べます」と言って、何枚か写真を送ってくださった。
たとえばこれは、ギリシャの市場でタコを売っているところである。
次の写真は、とれたタコを干しているところである。ギリシャでも干物をたべるのであろうか?
その次の写真は、海辺のビュフェでタコを食べている写真である。海を見ながらゆっくりと食事をするのは、豊かな時間であることだろう。
どことなく、わが香川県に風景が似ている。
サラさんのタコに対する食いつきから、ぼくはかなり昔に読んだ「美味しんぼ」の話を思い出した。
ギリシャ人の世界的オペラ歌手が日本に講演に来たのだが、なぜか声が出なくなってしまう(このモデルはマリア・カラスらしい)。
彼女の不調の原因は、いつもギリシャで食べている、本格的なオリーブオイルを何日も食べていないためであった。
「美味しんぼ」の主人公である山岡士郎は、未精製のオリーブオイルを彼女にプレゼントした。
オペラ歌手はそのオリーブオイルにタコを浸してしみじみと食べ、それで調子を取り戻した、という話。
この話を読んだのはかれこれ25年くらい前のことだったと思うが、ギリシャ人にとってもタコがソウルフードたりうるというのが意外だったので、よく覚えていた。
このたびサラさんもタコに反応してくださったので、ぼくはギリシャの人は
やっぱりタコが大変に好きなのだなと思った。
ギリシャは周辺を地中海に囲まれているから、海産物が豊富にちがいない。
また、タコは米英ではdevil fishとして嫌われているが、味のよい食材であると思う。
だからギリシャ人がタコを好きであったとしても何の不思議もない。
しかし仮にギリシャ人にとり、食材としてのタコが身近であったとしても、日本人と同じようにタコが好きなのであろうか?
ぼくはそれが知りたくなった。
日本人にとって、「タコ」は単なる食べものではない。
たとえば人のことを非難する際に、「このタコ!」と言う。
「このバカ!」というと角が立つが、「このタコ!」と言われても、それほど腹は立たない。
なぜなら、この場合の「タコ」は「ダメだけど愛嬌のあるやつ」という意味だからである。
「このタコ!」は罵声ではある。
しかし、罵られる側が、罵声に値するヘマをやらかしたには違いはないけれども、全人格を否定しているわけではない。
数年前に、ある女性国会議員が自分の秘書を「このハゲー!」と繰り返し罵倒したのが録音されて問題になったことがある。
だがもしも「このタコ―!」と言えば、それほど問題にはならなかったのではないであろうか。その場合、「君はこのたびヘマをしたけれど、努力すれば立派な秘書になれるはずだ」という、相手に対する期待と共感が、言葉の背後にあるからである。
つまり日本人にとって「タコ」とは、「駄目だけれど、憎めないやつ」というconnotationを含んでいる。
ギリシャの人たちも、タコをよく食べるのならば、そのような気持ちをタコに持っているかもしれない。
ぼくはサラさんに、こうした日本人独特のタコに対する愛着について説明した。
そして、ギリシャでもそのような愛着をもってタコが遇されているかどうかを尋ねてみた。
サラさんは非常に論理的に回答をしてくださった。以下、要約である。
「ギリシャではたしかにタコ漁が盛んで、田舎に行くと、漁師たちはよくタコを捕っています。しかし、アテネなどの大都市に生活していると、直接タコをとったりすることはありません。
また、年輩の方はタコのさばき方を知っていますが、若い主婦でタコをさばける人は少ないと思います。市場で、さばかれたタコを買うとか、レストランで食べることはあります。
タコにはウゾ(一種の焼酎)というお酒がよく合います。
タコは昔から食材として着目されていて、2400年前にアリストテレスも博物記のなかでタコの生態について紹介しています。
また、タコのデザインの装飾品も残っています。」
ぼくとしてはギリシャではタコが、日本と同じように身近な存在なのかどうか知りたかった。
その点について、サラさんはギリシャのYouTubeを紹介してくださった。
ギリシャ語で子供が歌っている。
意味はよく解らないが、算数を教える歌だと思う。
画面が大変にかわいい。子供が歌っているのであるが、声もかわいい。ぜひ聞いていただきたいと思う(https://www.youtube.com/watch?v=RGX7aj4hrG8)
耳に残る歌である。
こういう動画を作っているところをみると、少なくともギリシャにおいては、英語文化圏のようにdevil fishと言ってタコを忌み嫌ってはいないようだ。
どのような文化においても、食材として人気の高い生物は、嫌われることはないという法則があるのではないだろうか。
ただ、ギリシャにおいて、タコは少なくとも嫌われてはいないにしても、日本のように積極的に人気が高いものであろうか。
そこが疑問であったので、ぼくは第2弾のメッセージをサラさんに送った。
「日本においては、タコは単なる食材や動物ではなく、あるタイプの人格を象徴しています。慎重さや熟慮には欠け、短気ではあるものの、善良で親切、愛すべき人間です。
たとえば、「男はつらいよ」という映画があります。下町にすむ人々の温かい交流と人情を描いた映画で、日本を代表する映画です。
この映画の中に『タコ社長』という人物が登場します。この人物は下町で小さな印刷工場を経営しています。その工場の経営はいつも苦しく、タコ社長は常に資金繰りに追われています。ですが、友人が困っていると親身になって助ける、心優しい性格を持っています。
この人物は毛が薄く、赤い顔をしています。この特徴は、日本人がタコに対して描くイメージと共通するもので、そのためにタコ社長と呼ばれています。
なにより、彼の性格が善良で親切な点が、タコ社長と呼ばれるより大きな原因になっていると思います。
「タコ」と聞いて、多くの日本人が連想する人物が、もう一人います。
「たこ八郎」というコメディアンです。「たこ八郎」はもちろん芸名で、本名ではありません。
写真に示すように彼も頭を剃っています。自分がタコに似ていることを、強調するためです。このコメディアンは、もともとはボクサーでした。パンチいつも受けていたために、おそらく頭に障害が生じたのでしょう。奇妙な言動が多く、それが人々を楽しませていました。
しかし、彼は芸人として人気を得るためにわざと奇妙にふるまっているのではないかと思っている人もいました。
その疑いは、ある日、完全に晴れました。
ある日の夜、タコ八郎は酒を多量に飲んで海に泳ぎに行きました。
当然のごとく彼は溺れ、一生を終えました。
この死にざまによって人々は、たこ八郎が演技でコントをしていたのではないことを改めて知ったのです。
タコ八郎は残念ながら死んでしまいましたが、欲や利益にとらわれない生き方により、彼はより多くの人に愛される存在になったのです。」
日本人にとっての「タコ」は、アメリカ人にとってのミッキーマウスとか、ロシア人にとっての熊のように、ある意味で国民的な動物であると、ぼくは感じている。
だからギリシャにおいてもタコは愛されているかもしれないであろうが、日本ほどではないであろう。
その予測を確認するため、ぼくは上のメッセージをサラさんに送ったのだ。
サラさんからは数日で返事をいただいた。返事を見て、ぼくは思わず唸った。
サラさんはまず、ギリシャではタコを調理する際、ワインを加えることを教えてくださった。こうすると、タコの肉が軟らかくなるそうだ。
これを予備知識として、サラさんはギリシャのある寓話を教えてくださった。
「海の底で幸せに暮らしている、タコの母子がいた。
ところがある日、漁師の仕掛けた針に、子ダコがひっかかってしまった。
子ダコは水面へと、引き上げられてゆく。
『ママ、捕まったよ!どうしよう!』子ダコは叫ぶ。
『怖がらなくても平気よ』と母タコ。
『水から引き上げられちゃったよ!』
『怖がらなくても平気よ』
『お湯で、ぼくを茹でてるよ!』
『怖がらなくても平気よ』
『ぼくを噛んでるよ!』
『怖がらなくても平気よ』
『ワインを飲んだよ!』
『ああ!ぼうや、お別れなのね!』」
以上が、教えていただいた寓話である。
この寓話は何を意味するのであろうか?
ぼくにはあまりピンとこなかった。
ずいぶんとのんびりした母親だと思っただけだ。
しかしサラさんの解説を聞いて、ぼくは驚嘆した。
この話にはギリシャならではの、深い深い含蓄があるのである。
ギリシャは古来より、異民族に侵略を受けて来た。
侵略者は時にペルシャ人であり、ゴート人であり、タタール人であり、トルコ人であった(歴史的中立から言えば、ギリシャが侵略したケースもあるであろうが)。
侵略者たちへの抵抗の中で、多くのギリシャ人たちが首吊りにされ、皮を剥がれ、火刑にされた。
しかしこうした、あからさまな弾圧は畏怖に値しない。
真に怖れるべきは、笑顔の敵である。
彼らは握手を求め、甘言と享楽をたずさえてやって来る。
心を許せばいつの間にか、魂を抜き取られる。
上述の寓話で、子ダコが針にひっかかり、引き上げられ、茹でられ、食べられるというのは、あからさまな暴力による抑圧を意味するそうだ。
そしてワインを飲む部分は、友好を装った懐柔と洗脳を暗喩している。
ワインは美味であり、陶酔をもたらしてくれる。
しかし表層的な心地よさこそが、精神を腐蝕する。
われわれの怖れるべきは、そのような敵である。
タコの寓話はそのことを示している、とのこと。
やはり哲学の国の思考は深いのである。
ぼくは「タコ社長」や「タコ八郎」を持ち出した自分が恥ずかしくなった。
この脳天気さこそ、「タコ」性を地で行っているではないか!
というわけで、日希タコ論議は、日本側の一本負けになった。
しかし、「タコ」に代表される脳天気さも、日本の良さかもしれないとも思うのである。