実情人事は日本人の知恵かもしれない

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日本には「この国のかたち」がある

 先のブログ(2019年4月:「不透明な入試を論じる前に、不透明な教授選考を論じよう」)で、日本のアカデミアにおける教員選考において候補者の実績や能力が無視される場合が多々あるのは、能力主義よりも、年功序列など実情優先主義にしたほうが組織を維持しやすいからだと述べた。

 能力を示すことよりも、長く在籍することがその組織における昇進の可能性を大きくするのならば、その組織の構成員が辞めたりせずに、ずっと定着するインセンティブが高くなる。これが集団の維持を容易にするという論理だ。

 似た話になるが、必ずしも能力主義に基づいて人事を行わないほうが、より多くの人にとってその集団における居心地を良くする、という側面もあるのではないか。

 もっとはっきり言うと、実力本位の人事を行わないで、コネだとかその人の性格とか、単純に女性であることとか、とにかく能力以外の価値観もとりいれて昇進だとかトップになることを決めたほうが、その集団にいる人々を幸福にする、ということだってあるのだ。これも実情人事が日本で広く普及している大きな理由のひとつだと、ぼくは最近、思うようになった。本稿ではこのことについて論証する。

 ひとつの思考実験として、選考や昇進を完全に能力と実績に基づいて決定する会社があると考えてみよう。またそんなことは現実には難しいが、その会社においては各社員の能力の査定も正確に行うことができると仮定する。するとこの会社においてはトップである社長の能力が最も高く、ナンバーツーの副社長の実力はその次、さらに少し劣って専務、さらに劣って部長、以下同様…ということになる。
 この規則が徹底してしまうと、地位によって表現される各人の能力について、各人が言い訳できなくなってしまうのである。つまり、たとえば係長である人は、自分が係長に置かれているという現実によって、課長や部長よりも能力が低いという評価を常に白日の下に晒されることになる。だからといって課長や部長が幸せであるわけではない。だって課長は部長より能力が低く、部長は専務よりも能力が低いという事実をいつもあからさまに表現されることになるのだから。そうするとこの会社で胸を張って生きることが許されるのは、社長ひとりだけということになる。

 これに対して、地位と能力とが必ずしも比例しない別の会社があるとする。たとえば社長は代々創業者の子孫で、部長や専務になる人は取引先の御曹司、という場合が多々あるような会社だ。もちろんコネ採用の人材だけで執行部を固めてしまうと会社に競争力がつかないから、部分的にはそれなりに能力のある人間も高い地位についている。このような玉石混交の幹部が存在する会社においては、その構成の在り方によってある一種のprestigeを社員たちは受けるのである。それは「自分の地位は、たまたま今は低いけれど、これは単に自分の能力が正当に評価されていないからである」とひそかに思う権利で、いわば「自信とプライドをなんとか保つ権利」とも言えようか。

 つまり後者の会社においては「俺ずっと平社員だけど、社外のコネも上役の引きも無いから、仕方がないんだよね」というような言い訳ができる。しかし前者の会社においてはそのような言い訳は出来ない。なぜなら、その会社においては地位と能力は完全に相関するのだから。ゆえに、前者はえげつない、ぎすぎすした雰囲気の中で大部分の人が生きることになる。しかし後者の社会はなんとなく「ほんわか」している。

 どちらのタイプの組織を好むか、ということは民族や生活する自然条件によって異なるが、日本人は歴史的に後者を選択してきた。このことは隣国である中国と対比すると明白である。たとえば科挙制度を日本は採用しなかった。科挙制度は周知の通り論文試験の結果で官僚としての地位と将来が決定するシステムである。詩作と構文の能力は行政能力とは相関しないという批判はあると思うが、ともあれ個人の能力だけに基づいて待遇が決定される、完全能力主義であることは確かだ。最盛期には3000倍という恐るべき競争率の中で、大半の人間は合格しなかった。一生、日の目を見なかった2999人の苦しみは想像するに余りある。「とにかく合格しないと将来がない」という心理的なプレッシャーもさることながら、最終的には自分の能力不足を根本の原因と認めざるを得ないというその事実が、落第生たちの心をより暗いものにしていたのではないか。もちろん、試験に合格した者の人生は大変に栄光に満ちたものであったろう。

 つまり科挙は、3000人のうち1人が大変にハッピーで、残りの2999人が失意のうちに生きなくてはいけないシステムであり、本稿でいう完全能力主義がそのまま具現化したものである。 

 このようなシステムはあまりよろしくないなと考えたので、日本人は取り入れなかったのであろう。「ごく少数の人間がすべての栄光と富を手にする」のではなく、「大多数があまりアンハッピーにならない」道を選んだわけだ。これが日本という国を形作る精神であり、いわゆる「和の心」なのだろう。それはそれで優れた、人間の知恵であると思う。トップが非の打ちどころのない人間より、少し抜けているくらいの方が世の中ホンワカしますよね。バカ殿に幸あれ!

 天皇制はまさに「和の心」の現われだ。天皇は別に能力によって選ばれるわけではない。能力的には凡庸かもしれない人間を国家の象徴として据えることは、「まあ能力だけですべてが決まるわけではないですから、それなりに余裕を持って生きてくださいね」という、憲法のメッセージなのかもしれない。ただ断っておくが、ぼくは天皇の中にも、能力的に非凡な人はいたとも思っている。昭和天皇などはかなり、頭の良い方だったのではないだろうか。

 ともあれ、意図的にトップを能力以外の要素で選考する日本の社会を見直してみると、実情人事は日本人の知恵なのではないか、と思えてきます。なくならないのは無理ありません。中国人や韓国人に対して日本人に対する印象のアンケートをとると、「日本人は基本的には優秀なのに、なぜにあのような愚鈍な男(A首相の事)を担いでいるのか理解できない」という返答がかなりあるそうだ。それは、「どんな愚か者が首相になってもまわってゆく」という日本社会の成熟さと、「能力と地位を完全に相関させない方が、多くの人が幸福である」という、日本人の知恵が理由なのです。

 ただ腹が立つのは、「バカを上においておいた方が、皆が過ごしやすい」という理由でトップになったのに、自らを科挙の合格者のようなスーパーカリスマと本人が思うようになっていることですね。まあそれも、和の心を保った優しい社会を維持するための、コストと考えれば我慢はできますが。でも東京の三社祭や、大阪のだんじりで、神輿に人が乗ることはまあ良いとしても、神輿の上で踊ったら担ぎ手はやっぱり怒りますからね。ご注意を。