「国民様」と呼べよ

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日本国民への提案

 呼称によって人間関係は変化します。もし自分の子供を「息子様」や「娘様」と呼ばなくてはいけない決まりができたら、どうなるでしょうか。子供は親の言う事を聞くでしょうか。しつけができるでしょうか。
 あるいは教師が生徒を「生徒様」と呼ぶ決まりができたら、教育は成立するでしょうか。数学の授業で、「山田様、前に出てきて、3番の因数分解をやっていただけますか」と教師が言うことが義務づけられたとしたら、山田君はYou Tubeを見るのを止めて、黒板に出てきますかね。
 今でも親子関係や師弟関係は、昔と比べると崩れてきています。とは言っても、まだ辛うじて体裁は保っています。でももしも、上のようなバカバカしい決まりができたら、完全に関係は崩壊してしまうでしょうね。

 商行為の世界では「様」は基本的な呼称でしょう。内心で尊敬していなくても、馬が合わないと思っても、取引の相手である以上は、表面的な尊敬を装わなくてはいけません。「様」はこの意味では非常に便利な道具です。
 逆に考えると、「様」をつけることによって、「あなたと私は利益の授受を目的とした関係にあるのであって、それ以外の関係はありません」というスタンスを示しているのです。
 
 現代社会ではこういった、利益の授受のみの関係であふれています。旅館に泊まると仲居さんが愛想笑いをしながらお茶を持ってきてくれます。それはわれわれが旅館にお金を支払うからなのであって、仲居さんがわれわれを尊敬しているからではありません。
 

 とはいえ、すべての人間関係が利益の授受を目的としていると考えるのは、とんでもない間違いです。
 例えば銀行が企業に融資する際に、「御社の保有する株は200億で、不動産は300億、総資産は500億です。ですからこれを担保にとらせていただければ300億は融資できます」とは言うかもしれません。
 しかし、例えばある女性が自分の恋人に対し「あなたは年収が1000万あり、生涯年収は3億5千万円が見込まれるの。5000万の価値のある持ち家もあるわ。だから私はあなたと結婚する」と言ったら、相手の男性はどう思いますかね。ぼくだったら、顔をみるのも嫌になるでしょう。
 あるいは両親が子供を扶養するにあたって、「お前の食費は大学卒業までに1000万かかった。4人家族で3000万円の家に住んでいたのだから、住居費も按分すると750万だ。だからこの金額を、就職後には返金しろ」と言ったとします。こんなことを言わなくても、親が老いたら扶助をするのが普通の感覚でしょう。でも、もしもこんなことを言われたら、恩返しに孝行をする気持ちは失せてしまうか、さっさとお金だけ返して縁を切ってしまおうと思うのではないでしょうか。

 恋愛感情とか親子関係とか、人間が本来持っている感情に金銭を介在させると、このように軋轢が生じます。この二つの例を挙げるだけでも、「すべての人間関係を利益の授受関係としてとらえてはいけない=」すなわち「商取引でない人間関係が存在する」ということの証明になっています。

 現役の外科医の立場から言いたいのですが、医療も恋愛感情とか親子関係と同じで、商行為と考えてしまって良い関係ではありません。幸いにしてぼくは今までただ一人としてそうした人には遭遇していないのですが、目の前に札束でも放り出されて「これをやるから、さっさと治せよ」という患者さんがいたとしたら、ぼくはその患者さんを診察しません。


 ぼくは、胸のかたちを整える治療をライフワークにしています。かなり離れた土地からも患者さんがお見えになってくださるので、ほとんど毎週、手術をしています。病院で働いている時には診察や治療をしているのはもちろんですが、退勤してからも、いつも頭のどこかで臨床のことを考えています。特に、その週に手術をする患者さんの特徴は細かく記憶に残っていて、「あの患者さんの肋骨は少し長いから、ここを切ると、良い形になるだろう」などと、食事中や散歩中、運動中(ぼくはジョギングが好きなので)、寝る前、あるいは寝ながら、よく考えます。  
 今流行の「働き方改革」の角度から見ると、これはどうなるのでしょうか。労働時間を規定する、それはそれで良い事だとは思います。ですが、それは「仕事は嫌なもので、労働者は一刻も早くそれを離れたい」という、わかり易い前提に則っています。それはキリスト教的な観念に則っているのでしょう。よく言われるようにlaborとは苦役のことですからね。
 ですが、仕事を苦役と考える考え方そのものが、ぼくは好きではありません。起きている時間の半分は、仕事に使っているのですからね。仕事=苦役と考えてしまうと、人生の半分を失うのと同じではありませんか?
 そのように思っていますし、実際に手術をしたり研究をしたりしていますと心から楽しく感じます。ですので「もう少し勤労時間を減らしなさい」と訳知り顔の外野に言われたって、「あんたこそ人の人生に口出ししてないで、自分の人生を生きろよ」と平然と言い返せます。もっとも、自分の生き方を若い人に強要するつもりは全くなく、研修医が休日出勤でもしてようものなら「早く帰れよ」と、ぼくは必ず言います。これも本当です。
 ともあれ、ぼくの個人としてのライフスタイルは勤労時間の観点から見ると今流行り(?)の「ブラック」なのでしょうが、本人がやりたくてやっているのだから、他人にとやかく言われたくはない。


 話が少しそれましたが、ぼくは、勤務医であるぼくに対して労働契約の点から期待される以上のエネルギーを、臨床に費やしているということです。そしてそれを楽しんでいるということです。
 ここで本題に戻りますがこうしたover achievementができるのは、ぼくと患者さんとの関係が、商取引とは違ったものであることが大きな理由だと思っています。患者さんはぼくを信頼して、香川のような田舎まで東京や大阪から来てくれる。それらの大都市にはいくらでも外科医がいるにも関わらずです。そういった信頼と、それに対する感謝がぼくを動かしています。もちろん患者さんには規定の診療費をお支払いいただいていますが、これは断じて商取引ではありません。だいたい、ぼくは国立大学病院で働いていますので、患者さんにお支払いいただいた治療費は、国に入ってきます。

 厚労省は医師に「患者様」と呼ぶことを指導しています。これは、医師に対しては「治療費の範疇で、診察や手術などのサービスを提供すれば良いのであって、それ以上のことをやる必要はない」と言っているのと同じです。
 もっと言うと、患者に対しては「治療費に相当するサービスをしっかり回収しなさいよ」と言っているのです。
 だから医師の側は時間外労働を嫌がるようになるし、患者の側もモンスターペイシェントが増えます。サービス業である医療を商行為ととらえるなら、等価に対してより多くのサービスを提供させた方が得である。その最たる方法は、医療の結果なり医療者の態度に瑕疵を見つけて、それに相当する「値引き」を要求することだからです。
 そうした姿勢は、結果的に患者さんにとってもプラスになりません。医療を施す側の外科医とて人間ですから、あまりに不条理な要求が多くなると、標準的な治療だけを提供しようと思うのは自然で、あと一歩の踏ん張りをしなくなるからです。お金さえ払えばよいというわけではありません。
 上記のような理由で、一般の商行為と同じ人間関係を、医師と患者さんの間に持ち込むことは、医師にとっても患者さんにとってもプラスにはならないはずです。

 この論理をいちばん良く理解してもらう方法は、官僚ならびに政治家に「国民様」という呼称を義務付けることでしょうね。官僚は自身を特権階級のように思っているようですが、ぼくら国民は、優秀で公正でありさえすれば、別に官僚業務を、民間企業に外注していただいたって良いのです。現今のメンバーを保つ必要は全くない。だって彼らを愛しているわけではないのだから。内閣のメンバーにしたって同様です。行政と国民の関係は、それこそ商行為です。日本という国に対する愛情と、日本の行政メンバーに対する愛情は、全く別物です。

 ですから提案なのですが、役人はわれわれを「国民様」と呼んでくれませんかね。国会の答弁でも「国民の皆様」とか言っていますが、それより「国民様」のほうが簡単です。字数も少ないしね。「『民』はすでに人を表しているのだから、「様」とはなじまない。たとえば『労働者様』と言わないでしょう」なんて言い訳は通用しませんよ。だって「患者様」だってそういう構造をしているわけなのですから。


 世の中にはいろいろな才能がありますが、「周りの全員に馬鹿にされているのに、それに気がつかないで自分のことを偉いと思う」というのもひとつの才能です。裸の王様の寓話はそれを皮肉ったものですが、この才能から言いますとアベ総理はほとんど天才ですね。「国民様」と彼に呼ぶことを要求したら、彼も少しは自分の立場がわかるのではないでしょうか。もしも逆に、態度が変わらないとしたら、それは彼が真の意味での「天才」ということになり、これはこれで面白いのですが。