「せとうち鮨」親方つれづれ草

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 いらっしゃい。

 いきなり「いらっしゃい」と言われても困るかもしれないね。

 だけど「ようこそ」っていうのもなんか気取ってるし、なんにも言わないのは失礼だ。

 あたしは職人だから「いらっしゃい」くらいがちょうどいいと思うんだ。

 

 まず自己紹介からしないとな。

 あたしは瀬戸内の街で、寿司屋の親方をやっている。

 あたし以外にも職人がいる、2人がベテランで、3人がまあまあ修行中、2人が駆け出しだ。他にも外国から修行に来てる奴もいるから、ざっと10人の所帯ということになる。寿司屋としてはそれなりに大きい方だ。でも東京だとか大阪に行くと、20人や30人の店もあるからね。

 

 あたしが働いている店は、国立だ。

 だからって東京都国立市にあるわけじゃない。瀬戸内にあるって言ってるでしょうが。「コクリツ」と読んでください。つまり、一応は国が経営しているってことだ。

  なんで寿司屋なのにコクリツなのかと思う人もいるでしょうな。

これは昭和の時代にできた「すし保険」の制度と関係するんだ。くわしいことはあとで説明するんだけど、べつに国立の寿司屋があったっていいじゃありませんか。

 だって例えば奈良時代には、天皇東大寺とか、寺を造っただろ(聖武天皇だったかな?)。となればあれは、コクリツの寺ってことになるわな。そこで働いてる坊さんたちはコームインだったわけさね。

 それに、ロシアでは一流のバレリーナには国から給料が出てる。つまりはこれもコームインなわけだ。そしてバレエ団はコクリツなわけだ。

 要するにだ。

 国がつくれば何でもコクリツになるし、その文化とか情勢に応じて、国にとって必要なものは異なる。国が何かを庇護しようと思って金を出せば、雇われている人間はコームインになるし、その団体は国立ということになる。

 だから、どんな職業の人間がコームインになったっておかしくないだろう。

 

 では「すし保険」について説明しようか。

 日本にはいろいろ、世界に自慢できるものがあるけど、「すし」の発明はそのひとつだ。生の魚なんてそのままじゃ食えたもんじゃない。でも日本人はそれを、握った飯にのせて、ワサビなんていう独自の調味料を開発して、「なんとか食える」どころか世界中からたくさんの外国人が食いに来る、天下の美味に仕立て上げた。自分の国の食文化をここまで高い水準にまでもち上げたのは、日本人の他にはフランス人と中国人くらいのもんだ。この点に関して、日本人は誇っていいと思うな。

 つまり寿司とは、日本が世界に向けて誇ることのできる、無形の文化だ。

 だから国としても、この寿司という文化を保護しようということになった。1961年のことだった。

 日本人っていうのはつくづく優しい民族だな。なにか制度を作るときには、国民のみんなにとっていい制度であれかし、ということを基本におく。日本人である以上、だれでも寿司が必要に応じて食えるようなシステムを作り上げた。

 毎月の給料の中から「すし保険料」なるものを、国が勝手に天引きする。給料の額によってもこの額は異なるんだが、何千円か何万円かの金額が、勝手に差っ引かれているみたいだな。そのお金を、国民のみんなでプールする。そして寿司が食いたくなったら、プールしたお金の中から7割のお金が出るような仕組みを作り上げた。つまり代金の3割だけ払えばいいわけだ。

 ただお年寄りの場合にはもう収入もないので、3割とは言え負担が大きい。75歳以上の場合には1割だけ支払えばよい、という風に優遇措置がある。ところが、日本人の寿命が延びるにつれてお年寄りの割合が増えてきた。そうすると、プールされたお金もだんだん減ってくる。だから最近、自分ではらう分を1割から2割に増やすことに政府が決めた。

 現状にいろいろ批判はあるにせよ、「すし保険」のおかげで、日本人は安く寿司を食べられているわけだな。これは間違いない。

 

 さらに、国は寿司を作る人間の養成も制度化した。モグリの職人に勝手に寿司を握られたらこまるからね。「すし職人養成学校」というものを指定して、そこを卒業した職人だけが働けるようにした。

 もっとも、「すし保険」の制度が始まる前から「すし職人養成学校」はあったんだ。

 さっき言ったように「すし保険」は昭和の中頃から始まったんだが、寿司そのものは、はるか昔からあったからね。職人のための学校があったのも当然だよな。

 こういう学校は、今あたしがいるみたいなコクリツのもあったし、資産家が出資してできた学校、つまりは私立のものもあった。

 「すし保険」というものが国民のすべてを巻き込む以上、養成学校はすべてコクリツにするのが、本当は筋だろうな。でも私立の学校も、職人たちをずっと育ててきた。つまりは日本のすし文化を支えてきたわけだ。

 だから、「寿司という伝統を守る」という、すし保険の趣旨に照らすと、やっぱりそのまま残すべきということになった。

 こういう流れは日本人にとっては当たり前だと思うだろう。でも、他の国では全然、当たり前じゃないんだ。例えば中国だったら、今まで個人で営業してた店だって、あっという間に国有化する。ひどい話だ、と日本人なら思うだろう?でも、そうとも限らないんだ。中国人はすごく逞しい。日本人なら、自分の店を国に取られると、泣き寝入りするだろうね。

 ところが中国人は逆の考え方をする。「俺の店を国にくれてやったのだから、国家は俺に尽くさんかい!」と言って、逆に権利を主張するんだ。

 こういう逞しさは日本人も見習うべきだと、あたしは思う。昭和の時代には、日本人は本当に国に良くしてもらっていた。だから、国=親みたいにみんな思っていた。でも、最近ではソーリが平気で嘘をつく。それで国のことを、みんなだんだん信頼しなくなっている。それとともに、日本人も逞しくなってユダヤ人なんかと張り合ってゆけるようになるかも知れないね。

 

 まあ、あたしは政治の専門家じゃなくて、寿司職人だ。

 だから、「すし職人養成学校」の話に戻る。

 学校では寿司の作り方を板前の見習いに教えるんだが、やっぱり実際に握って見せないと、いわゆる「畳の上の水練」になっちまう。だから養成学校に付属する店を作って、経験のある板前たちに寿司を握らせる。当然お客もいて、彼らに対してちゃんと商売をする。

 

 あたしの県では、そんなすし職人養成学校が一つあって、その棟梁があたしというわけだ。あたしの正式な身分は板前の「教師」ということになっている。でも、すしの作り方なんてもんは、教室で教えるようなもんじゃない。寿司を握ってお客さんに出して、喜んでくれるかどうか反応を見る。反応が今一つならば、どこがいけなかったのかを考えて、次は喜んでくれるように工夫をする。そういうことでしか、本当の意味での技術っていうのは伸びない。だから学校や塾の先生とあたしたちとは、同じく教師と言ってもだいぶん、スタンスが違っている。

 

 学校ではすし職人たちの卵を学校で育てるんだが、これには6年かかる。ところが6年勉強したからと言ってすぐに職人として独り立ちできるかというと、はっきり言って全然無理なんだ。言っては悪いんだが、半人前どころか10分の1人前くらいなんだ。

 6年も勉強して、なんで10分の1人前かと思うだろう。

 これにはわけがあるんだ。先にも書いたが、国は「すし文化」を守るために、すし職人を養成するための学校を作った。ところがそういう学校を作るのはモンブショウという役所の役人たちだ。彼らはすしなんか握ったことがない。でも「すし職人養成学校を作りましょう」ということが、上の方で決まってしまうと、役人たちも働かざるを得ないんだな。すしのことなんか何にもわからないんだが、上から言われたことはやらんといかんからね。それが、役人という生き物らしい。そこで、すし職人のための「しらばす」とか言うものをでっち上げるわけだ。これがまた、的外れなんだ。例えば、若い見習いたちはコメ作りの実習をやらされる。寿司にはコメが使ってあるだろう。良いすしを握るためには、よいコメを使わなくてはいけない。これは筋が通っている。だからコメのことを良く知らなくてはいけない。これも筋が通っている。しかし、だからと言って、農家のコメ作りを何か月も手伝わせたりするかね?人生は短い。若いときの時間は貴重だ。そんな時間があるんだったら、1日も早く寿司を握り始めたほうがいいと、あたしは思うんだがね。

 まあ百歩譲って、コメ作りの経験は大切だとするよ。だが、「すし成分の分析」についてはどうかね?すしは日本の誇る食文化であり、健康にも良い。だからこの食文化を世界にひろめるべきだ。これは正論だ。でもだからと言ってマグロやイカの成分分析を職人の卵にやらせる必要があるだろうか?職人学校では「きゅうこうどぶんせき」とか言って試験管振ったりしているけれど、そういうのは栄養士さんたちに任せておけば良いんじゃないかな。

 でも「よい寿司を握るためには魚の栄養のことも知っていたほうが良い」って言われると、それはもっともだ。だから反論するのが面倒くさくなっちまう。こっちは良い寿司を握るのに忙しいからね。寿司の世界は深い。いっぱしの親方になったって、まだまだ修行が必要なんだ。だからあたしは、人のことを構っている暇があったら自分の技を鍛えよう、と思ってしまう。こういう点で、あたしはやっぱり「教師」じゃなくて「職人」だと、自分で思うね。

 

 それで、学生というか見習い職人たちなんだが、寿司を握るのとは直接には関係ないことをいろいろ勉強してるから、あっという間に6年経ってしまう。

 板前なんてのは、うまいすしが握れりゃそれでいいじゃないか。だから「くろまとぐらふぃ」やってる時間があるんだったら、一匹でも多くの魚をさばいた方が良いんじゃないかな、とあたしは思うんだがね。そうやって、本当に職業に必要なスキル以外のことをいろいろ教えなくちゃいけないから長い時間をかけて卒業しても、即戦力にはならないんだな。

 養成学校を卒業したら、見習いたちは「初期研修」というのをやらされる。まあ早い話が見習いだ。寿司屋として営業している店に配属されて、そこで働いている職人たちにいろいろ教えてもらうわけだ。

 ところであたしの勤めている店は国立だと言ったが、これは例外なんだ。やっぱり、数からいうと個人で営業している店の方が多い。

 給料も、個人営業の店の方が1.5倍くらい多い。

 これは資本主義の原則から言って当然なんだ。個人営業の寿司屋は、何のために営業する?いうまでもなく、利益を上げるためだよね。だけど前に言ったように、職人養成学校に付属する寿司屋っていうのは、若い板前たちに教育することを目的としてできている。必ずしもお金を儲けるために作ったわけじゃない。ここが、個人営業の店と大きく違うところだ。だから採算を度外視、とまで言うと言い過ぎだが、儲けよりも新しいメニューを考えたり、より旨い寿司を握りましょう、という姿勢になっている。

 たとえば、香川県にロシアの大統領のプーチンが来たとする。聞くところによると奴は寿司が好きなそうだ。だから日本のガイムショーとしては、奴の夕食に寿司を手配しなくてはいけない。

 そういう時に、あたしのような、「寿司養成学校」に付属している職人にお呼びがかかるんだ。県、もっと言えば日本を代表する寿司を作れって、ハッパをかけられる。

 こういうことがしばしばあるので、国としてもあたしらの技術の水準を保っておきたいんだろうな。いい魚が港に上がったりすると、優先的にあたしらの店に、その魚が回ってくる。個人の店ではどうしても設備が小さくて、大きな魚はさばききれない。また、そういう魚を仕入れたって、素材の費用が高いので、採算がとれるかどうかわからない。それで必然的に、あたしたちのところに魚がめぐってくる、というわけさ。

 つまるところ、「寿司養成学校」に勤務してる職人たちは、個人営業の職人に比べると、いろいろ経験する機会は確かに多い。その代わりに収入は少ない。一方で、個人で店をやっている職人は、大ネタをさばくような機会は少なくて、仕事にはあまり変化はない。その代わりに収入は多い、というわけだ。

 ただ、これはあくまで一般的な話だ。一つのネタに特化すれば、個人で店をやっていても、かなり高い水準のことができることもある。たとえば、ヒラメならヒラメの寿司だけを売るということにしておけば、材料を安定的に確保できる。また、同じ魚を毎日さばいていれば、腕もどんどん良くなる。ことその魚の調理に関してはだれにも負けない、というくらいになれば、個人の店で職人が1人や2人しかいなくても、全国的に有名になって立派にやっていける。ただ、そのレベルまで到達できる職人はやっぱり少ないけどね。

 

 あたしの考え方によれば、40歳くらいまでは「寿司養成学校」附属の寿司屋でいろいろ経験を積んで、それを過ぎたあたりになったら、自分の店を持つのが、いちばん人生のバランスがいいように思う。

 実際のところ、今まではそういう生き方をする職人たちがかなりたくさんいた。

 でもそういう人生設計は今後、だんだん難しくなるんじゃないかな。

 理由は二つある。

 ひとつは、修行ってものが成立しなくなっている点だ。職人の技術っていうのは、もともとマンツーマンで伝えるべきものなんだ。だから昔ながらの徒弟制度が、本当は修行に一番向いている。そうすると、教える側の人間の立場のほうが、教えられる人間の立場よりも強くなる。

 あたしは、寿司を握る技術というものに最大の価値をおいているので、人を支配するってことにはほとんど関心がない。ところが、地位に執着するタイプの人間も多くて、昔いろいろと問題になった。たとえば「白い木板(もくばん)」なんて小説を書いた奴がいた。寿司を出す白木のカウンターを「権力の象徴」と暗喩しているらしいんだが、あたしのような、大きめな寿司屋の棟梁を批判してるんだ。

 たしかに、昔の職人教育には目を覆うものがあった。あたしが若いころなんか、寿司がうまく握れないと2時間も3時間も罵倒されたもんだ。それはまだいい。一番辛かったのは、中途半端に魚のさばき方を指定されることだった。あたしの昔の親方は、魚の唇を調理するのが得意だった。小さな魚はダメだが、マグロであるとか大きな魚だと頬っぺたや唇の肉もそれなりに量がある。そういう部分を調理するのが得意だったんだ。これに対して、あたしは魚の胸鰭のあたりを調理するのが昔から好きだった。胸鰭と頭とでは、全然、扱い方が違うんだ。たとえば、同じ魚を調理しても、頭の部分はさっぱり蒸しあげた方がよいけれど、胸の部分は造りにした方がよい場合がある、というのはわかるだろう?そういう場合、あたしとしては魚を造りにしたい。だが、親方は「蒸せ」という。魚の胸の部分の扱い方については、あたしの方が詳しいんだから、好きなようにやらせてくれよと思うんだが、それは許されない。こういうのが一番つらかった。だからしょっちゅう、親方とは対立して、しまいには喧嘩別れしちまった。

 だから、今あたしの店では、下の人間に、わりに好きにやらせている。もっとも、明らかにおかしいことをしようとすると軌道を修正はするんだが、その場合でも理由をきちんと説明する。

 

 修行ってものがもはや成り立たないもう一つの理由は、グローバライゼーションというか、人々の考え方がどんどん変わっていることだ。「グローバライゼーション」の「グローブ」とは世界のことだ。「グローバライゼーション」は「世界標準化」ということだ。じゃあ、なにが「標準化」して「世界」に広がっているのか、答えられるかい?

 これはあたしの意見だが、すばり「それが金になるか」という尺度でモノをはかる価値観が、「標準化」している、つまり広がっているんじゃないだろうか?

 たとえば昔は、川端康成だの三島由紀夫だの、優れた小説家というものがいた。いまでも小説をもとにしたドラマや映画が時々ブームにはなるが、「時代の寵児」とまでは言える小説家はもう出ないんじゃないかな?その理由は簡単で、小説よりも漫画やライトノベルの方が売れるからだ。みんな、本というものを読まなくなったからね。今、ベストセラーの小説だって30万部も行かないだろう?でも「少年ジャンプ」なんかは毎週、400万部も売れているらしい。「悪貨は良貨を駆逐する」というのとは、少し違うかもしれない。だって、漫画には漫画のいいところがあるからね。でも、人というものは易きに流れる、というのは確かだと思う。

 そんなわけで、寿司の世界のあり方も変わっている。稼ぎ出す金の額をなるべく多くしようと思ったら、味の判る通人より、大衆を相手にするのが一番だ。数が多いんだから当然のことだ。それで、技にこだわり抜いて高い寿司を出すよりも、ほどほどの味で良いから数をさばきましょうって店が、どんどん増えている。

 2~3年も修行すればそういう店には、どうにか勤められる。なおかつ、養成学校付属の鮨屋よりも、給料がよいと来ている。だから養成学校を卒業するとすぐ、大衆相手の店に就職する職人がとても多い。それが、「修行が成立しなくなっている」とさっきあたしが言った理由だ。

 でもあたしは、そういう「ゆるい」修行をしている板前は30代くらいまではいいけれども、40代以後は、生きて行くのが厳しいんじゃないかな、って思っている。

 そこそこの店にずっと勤めていると、技術は一定の水準以上には伸びない。だから後から入ってきた職人に、すぐに追いつかれるだろう。技量が同じだとすると、体力がある方が雇われるからね。仕事を探すのがだんだん、難しくなると思うな。

 そうなったら自分で店を出せば良いじゃないか、って思うかもしれない。でも今はエーアイってんだっけ、人工知能ってものの開発がすさまじい勢いで進んでいる。併行して資本の集約も進んでいる。だから「すしロボット」が普及して、大資本がチェーン店でロボットに寿司を握らせるようになるのは、時間の問題だ。

  そうなると、仮に自分で店を持っていたって、「これは」というもがなければ立ち行かなくなるんじゃないかな。

 

 だから、エーアイだとかすしロボットにはないスキルを身につけろって、あたしはいつも、見習いの職人たちに言っているんだ。

 あたしの店の馴染みの客に、ケーセーゲカとかいう専門をやっている医者がいる。奴曰く、人間の体っていうのは一人一人、みんな違っている。だから同じ人間が、まったく同じ手術をやっても、結果が全然違うなんてことがしょっちゅうある、というんんだ。

 どうも野郎は「あばら」の形を治すのが好きらしくて、酔っ払ってくると、ロッコツがどうだの、ロクナンコツがどうだの、独りでぶつぶつ言いながら考えている。

 あたしはそれを冷ややかに見てるだけなんだが、奴の気味悪さはさておいて、言ってることにはなんとなく共感できるんだ。

 

 魚だってまったく違うんだ。同じく刺身を作るのだって、たとえばブリのさばき方とタイとでは全く違う。これは誰でも当たり前だと思うだろう。でも、同じタイって言っても日本海のタイと瀬戸内のタイでは違うし、さっき穫れたばかりのタイと、二日たったのとでは違う。さらに言えば、同じ一匹のタイの中だって、背びれのあたりで造りを作るのと、胸鰭のあたりを調理するのとでは全然、違うんだ。まあ、これはおいおい説明してゆくよ。

 

 まあ今回はあいさつだからね、ほどほどにしておこう。あんまり長い挨拶は嫌われるからね、アハハ、もう十分に長いか。

 とにかく今日はここまで。またおいでください。