江戸時代じゃねーし

 

これが何かは、読めばわかります

 ぼくは一応、大学の先生なので、学生を教育しなくてはいけない。そこで学生たちにテーマを与えて、レポートを提出するように求めている。ネット上ですぐに検索できるようなテーマを与えては学生のためにならないし、採点するのも面白くない。だから、現場で働いている医者たちにいろいろ訊いて考えないと書けないようなテーマを、工夫して与えている。

 1週間ほど前に、妙な光景に出くわした。ある学生が、中堅どころの医者に対して質問をしている。その前日に行った手術の内容について尋ねているようだった。そのことそのものは、非常にいいことだ。

 だが一つ、問題があった。その学生が、床にひざまずいて指導を受けているのである。

 レストランとか居酒屋に行くと、店員さんが注文を取りくる。その際に、片膝もしくは両膝をついて注文をとる場合がありますよね。その学生も手にメモ帳を持ち、床に両膝をついて、指導教員にいろいろ訊いていた。

 ぼくはその姿を見るなり、学生に対して「そんな姿勢はやめなさい」と言った。

 床にひざまずくという行為は、ぼくには非常に卑屈に見える。自分もやりたくないし、人がやっているのも見たくない。

 15年ほど前になるが、中国でこんな事件があった。

 ある地方都市で、日本人ビジネスマン数人が会食をした。そのとき、注文した料理がなかなか出てこなかった。催促しても「もう少し待ってください」と言うだけで、らちがあかない。かと思うと、注文していない料理が出てくる始末である。中国ではこんなことはよくある(というか日本以外の国ではしょっちゅうあるのではないだろうか)。だからぼくだったら「しょうがないな」くらいに思って、まったく気にしない。

 だが、それらの日本人ビジネスマンは、おそらく赴任したばかりだったのだろう。腹を立てて店の女主人に謝罪を要求した。中国人はこういう場合、まず謝らない。女主人も、料理が遅れて申し訳ない、くらいのことは言ったのだと思うが、日本人のように「大変申し訳ありません」と、深々と頭を下げるようなことはしなかった。

 酔ってもいたのであろう、ビジネスマンたちは、なんとか自分たちの望むやり方で謝罪をさせたいと考えた。そこで一人が後ろから彼女を羽交い絞めにして、無理矢理に膝をつかせた。他の店員が警察に通報したので、ビジネスマンたちは逮捕され、拘留された。当然のことだが、ちょっとした国際問題にもなった。酔いがさめたあと、そのビジネスマンたちは真っ青になったことだろう。

 この事件がどのように決着したのか、詳しいことは知らない。おそらくそのビジネスマンたちは、かなりの額の罰金を払わされたであろう。また、女主人の要求で、彼女に対してひざまずいて謝罪をしたのかもしれない。彼らはまったくもって割の合わないことをやったものだと思う。ともあれこの事件は、「ひざまずく」という行為が、すくなくとも中国においては、非常に屈辱的であるとみなされていることを示す。ぼくもこの価値観を共有している。だから、学生がひざまずいているのが、見るに堪えなかったのである。

 ところが、ぼくが「そういう卑屈な姿勢は良くないと思うよ」とその学生に言っても、彼はきょとんとしている。「なにが問題なのだろう?」という表情をしている。そこでぼくは、(床に)ひざまずくという行為は、外国では卑屈と見られる行為であり、アメリカ人や中国人は絶対にそういうことはしないだろうと説明しなくてはいけなかった。

 ぼくは、どこで彼がそういう「マナー」を学んだのかを尋ねた。すると、居酒屋でアルバイトをやっていた時に、客の注文を取るときにはひざまずきなさい、と店長に言われたそうだ。

 ある所作がどのような意味を持つのかは、その人の属する文化によって異なる。たとえば「3回まわってワンと言いなさい」と言われたら、たいていの人は嫌がると思う。それは、少なくとも日本では、その行為が「自分は犬と同じくらいの知能しかない」と認める行為であるからだ。

 ただ3回ワン」を純粋に現象面のみから見ると、「いい運動」とも言える。3回まわるのは平衡感覚の訓練になるし、「ワン」と発声することはストレス解消にもなる。だから、国が異なれば、ラジオ体操や盆踊りの一つの種目になったとしても、別におかしくはない。

 要するに、所作の意味は、ある文化の中での約束ごとに過ぎないのだ。

 すなわち、ある所作に屈辱を感じるか否かは、本人がその所作にどのような意味を持たせるのかによって決まってくる。

 そして、その学生自身はひざまずくことをなんとも思っていなかった。だとしたら、ひざまずく姿勢が見苦しいと言って注意するのは、ぼくの勝手なエゴなのかもしれない。だから放っておくべきだったのではないのか、そんな風に反省もしてみた。

  しかし、やっぱり言ってよかったように思う。

 ひざまずくことそのものが嫌というよりも、盲目的にそのマナーを受け入れてしまう姿勢に問題があるのではないか。

 彼が過度にへりくだった態度をとらせることで喜ぶ客もいることだろう(ぼくは嫌だが)。そういう客にとっては「サービスの良い店」として評価が高くなるかもしれない。また、「そうしなさい」と指導する側(店長)としては、なんら自分に負担がかからない。だから、経営者の側にとっては都合がよいことだ。

 だが、そういう指導を無条件に受け入れてしまって、それでいいの?と、ぼくとしては思うのである。

 彼は医学部の学生である。このところ陰りがさしてきたものの、医学部はまだまだ人気がある。親や教師の期待のままに勉強し、その結果入学してきた、素直な子が多い。人からこうしろと言われたら、「なんでそうするの」という疑問を持たないで、素直に従うことが習い性になっている。いままではそれでやって行くことができたかもしれない。ただぼくは、これから医者は厳しい時代になってゆくから、もう少し自分で考える癖をつけないと、生きてゆくのが難しくなると思うのである。

 具体的に言おう。最近、医者たちが本業に専念することがどんどん難しくなってきている。ばかげた雑務が容赦なく増えているからだ。

 たとえば役所が突然、こんな通達を出してくる。曰く:医療を行うにあたっては患者さんとのコミュニケーションが大事である。だから年に1回は研修に参加すべし

 コミュニケーションが大切ということについては、ぼくとしてもなんら異論はない。医者がコミュニケーション能力をつけなくてはいけないのは、まったくその通りだ。

 だが、「研修」とやらが東京や大阪で催されると、香川県に住んでいるぼくとしては、1日か2日、仕事を休まなくてはいけないのだ。その間は当然、手術もできないし、外来で患者さんを診察することもできない。だから、患者さんが手術をご希望になっても、1週間お待ちいただかなくてはいけない。また、ある週に外来診察を休んでしまうと、次の週は、大変に混雑する(あたりまえだ)。だから長い時間、患者さんにお待ちいただくことになってしまう。

 患者さんに対するサービスを向上させる目的で「研修」なるものが行われているのに、結局は迷惑をかけることになっている

 医療の現場を知らない役人が考えたアホなシステムがまかり通ってしまうのは、「なんでそんなことするの?」という批判がなされないからである。医者というのは、そういうことに文句を言わない人種なのである。

 こういう傾向に対し、ぼくはかなり不安を抱いている。

 例の学生も、ゆくゆくは医学会の構成員になるわけだ。あんまり素直な奴ばっかり増えてしまうと、ますます医者が世間に物を言わなくなってしまうだろう。そう思ったので、「ひざまずき」が問題である(とぼくが思う)理由を、彼に話した。

 彼は素直に聞いてくれた。ただ、本当にぼくが言いたいことを、わかってもらえたかどうかは心もとない。うるせーオッサンと思われただけの可能性の方が高い。それどころかぼくのことを、ひざまずきの姿勢を指導した店長よりも、ずーっとウザいと思ったかもしれない。

 彼はあえて反論はしなかったが、彼の側とて言いたいことはあったろう。ぼくが「ひざまずきマナー」が良くないと思うのは、中国とか欧米の文化に基づいた意見である。だが、日本は「畳」の文化である。畳の上ではみんな正座をする。「ひざまずく」という行為を屈辱と取らないで、単純に「ていねいに座る」行為と見ることもできる。

 つまり、「ひざまずく」という行為は日本人にとっては心理的な抵抗が小さいのである。

 彼のバイトしていた店以外でも、店員が注文を取る際に「ひざまずく」店をときどき見かける。店員自身が納得して、店側もそれなりの時給を払ってくれるのならば、ぼくが介入することは、それこそ大きなお世話である。

 店としては高級感を出すために、洗練されたサービスを提供したい。客を尊重する態度を示せば、客も気分がよくなる(ぼくは嫌だが)。だから高い値段を付けることができる。ビールの小瓶は1本1000円で、タコの酢の物は2000円。客単価が上がれば、バイトの給料にも反映されるだろう。時給は2000円、ということになるかもしれない。

 「ひざまずき」なしの店だと時給はだいたい1000円くらいのものだろう。そうすると、「おれ、別にひざまずいたって気にしねーし、それより時給が1000円多い方がいいに決まってんじゃん」と考えるアルバイターも多いことだろう。

 こう考えてゆくと、「ひざまずく」という行為にこれほど神経質になるぼくの方が異常かもしれない。生活の糧を得るために、1円でも多くバイト代を稼ぎたい学生たちに対してあれこれ言うことは、憲法22条で保障されている「職業選択の自由」の侵害ではないか?

 そもそも、人さまが普通にやっていることにわざわざ首を突っ込んで行く資格が、果たしてぼくにあるのであろうか?これではまるで、男女同権できーきー言っている東大教授の〇野千鶴子ではないか

 

 そうは言ってもやっぱり、ぼくとしては「床ひざまずき」の姿勢を、見過ごしにはしたくないのである。バイト学生には「職業選択の自由」があるかもしれないが、ぼくにだって、言論の自由が保障されているはずだ(憲法21条)。

 

 では結局、「ひざまずきマナー」について、どう解決をつければよいだろう?

 ぼくなりの妥協案を考えた

 結論は、「ポータブル畳」。

「ポータブル畳」というのは、ぼくがこのたび考案した器具で、25センチ×15センチくらいの畳である(これが、今回の扉絵です)。

 お店でウェイターや仲居さんが注文を取る際には、この畳をまず、床に置く。

そしてその上に膝をつく(下図を参照してください)。

 こうすれば「畳」に座っているのと同じだから、ひざまずいていることにはならない。たとえ同じ姿勢をとるとしても、過度に自分を卑下しているようには映らない。

ポータブル畳の使用法。P.Tは「ポータブル畳」

 畳を地面に置くと不潔になるから、「下駄」のような脚をつけるとさらに良いと思う。つまり鼻緒がなく、かわりに下駄のような「脚」がついた、雪駄のようなものですね。雪駄よりも少し大きいですが。

「ポータブル畳」のアイディアは、「五体投地」からいただいた。

 五体投地というのはラマ教の礼拝の作法である。チベットの人たちがラマ教の寺院を礼拝する際には、仏様に対する絶対的な帰依を表現するために、全身で地面に這いつくばる。この動作を何百回も繰り返すので、なにもしないと掌がすりむけて、血がでる。だから人々は足に靴を履くだけではなくて、手にもサンダルを履くのである。この「手サンダル」からヒントをいただいた。膝をつくのが問題ならば、下になにかひけばいいではないか!

五体投地における「手サンダル」

  

「ポータブル畳」を作成するのはそれほど難しくないはずだ。「ポータブル畳」は「下駄」と「雪駄」のあいの子のような製品だ。「下駄」も「雪駄」もありふれた工芸品だから、それらの作成技術はすでに完成しているだろう。それらを組み合わせれば、簡単に「ポータブル畳」が作成できるだろう。

 これで、日本式サービスと、店員の人権の問題が、同時に解決できるはずだ。なかなかいい発明ではないか!

 コロナの蔓延で、人々は以前ほど外出を控えている。だから履き物業界も、不況にあえいでるに違いない。「ポータブル畳」が業界に活気を呼び戻すかもしれないではないか!

 ぜひ作っていただきたい、「ポータブル畳」。

 ぼくも10個くらい買って、店に配りますよ。と書こうと思ったが、それは無理なことに気が付いた。だって、ぼくが馴染みになっている飲み屋では、バイトにひざまずかせているところなんか、一つもないからね。そんな店、行かないので。