転勤直後の寂寞感は、地方都市そのものの責任ではない

 

 東京から香川に移住してほぼ5年が経ちました。移住当初は寂寞感、平たく言うとうら寂しい感じも少しはありましたが、その寂寞感も現在では全くなくなり、快適な生活を楽しんでいます。

 そこでなぜ、移住した当初は寂寞感を感じており、今は全く感じていないのかを考えてみました。

  5年前を振り返ってみると、その時は、東京と比べた時の高松の街の小ささがちょっと残念だなと思っておりました。高松は四国の中では最も都会的な街ですが、やはり規模という点から見ると東京には劣ります。
 高松を例えていうなら、東京23区の中で、賑わいでは中位クラスであろう、板橋区とか江戸川区がぽつんとあって、その周りはいきなり伊豆、のような感じでしょうか。日常生活を営むにはちょうど良いくらいの都会度なのですが、それでも新宿や渋谷・池袋のようなスーパータウンがありません。それがいくばくかの寂しさの原因ではないかと、赴任当初は思いこんでいました。

 ところが、その認識は間違っていたことに、5年後の今、改めて気がつきました。
 もしも赴任直後の寂寞感の原因が、都市の規模としての東京と高松の差であったとしたならば、今も同じ気持ちを感じ続けているはずです。なぜなら、両都市の栄え方の規模の差は、この5年間で全く変わっていないからです。原因が除かれないのに、結果が変化するわけはありません。
 つまり、移住当初に感じていた寂寞感と、東京と高松との都市としての格差とは、全く関係がなかったことが、証明されたわけであります。

 では、かつての寂寞感の原因は何かと改めて考えて見ますと、「構築した人間的ネットワークを一度、白紙に戻さなくてはいけなかった」ということだったと思います。
 東京に長く生活する中で、私にはたくさんの友人ができていました。こうした友人たちとの交流は、私が高松に移住するからといって途絶えたわけではありません。ですが、会ったり飲みに行ったりする頻度は明らかに減りました。その、人間的ネットワークの一時的な喪失が、寂寞感の主因だったのです。


 この5年間で高松にも大変に多くの友人ができましたので、一時は失った、あるいは低減した人的なネットワークも、別の形で補われたわけです。
それゆえに、移住当時とは全く感じ方が変わり、寂寞感も雲散霧消したのだと思います。

 つまり言いたいことは、「大都市から地方都市に移り住んだ場合、寂しいと感じることはあるかもしれませんが、それはその地方都市そのものの責任ではありませんよ」ということです。

 「ふーん。それで?そんなことを考えてどんな意味があるの?」という質問はありませんか?それを待っているんですけど(笑)。

 この議論の具体的な効用は、東京から地方都市に転勤もしくは移住をこれからしようとする人に対して、私がかつて感じたような(無駄な)寂寞感を減らしうることにあります。
 人間は逆境に陥ると、必要のない事柄までについてネガティブに考えるものです。たとえば大学入試に失敗して落ち込んでいる人がいるとします。そして、「僕は頭も悪いし、性格も良くないし」などと言って悩んだりします。
 ですが、性格の部分については、入試の結果とはなんら関係がありません。それにも関わらず、いわば「マイナスアルファ」の悩みとしてついでに抱えてしまいます。
こうしたときに、「頭の問題はさておき、性格はこの際関係ないだろ」とずばりと指摘してあげますと、悩みの程度は少しへります(たぶん)。

 こうした理屈で本文章を、これからどこかへ移住もしくは転勤する方に読んでいただけますと、無駄な寂しさとか孤立感を感じなくて済むように思うのです。

 たとえば高松にも百貨店の三越があるのですが、これは5階建てです。
 銀座の三越は何階建てだったか忘れましたが、たぶん10階建てくらいだったと思います。
 だから、仮に東京から高松へ転勤してきた人は、「東京では三越は10階建てだったけど、高松は5階建てだ。格落ちの街に来てしまったものだ」などと考えてしまうのではないかと思います。

 それに対して、私は「それは違いますよ。高松という街には責任はありませんよ。あなたが今寂しいのは、転勤したばかりで仲間がいないからなのであって、新たなネットワークが構築されれば、感じは全く違いますよ」と言うでしょう。その論拠を証明したのがこの文章なのです。

 もっともこんな文章を書くより、「君ね。実は東京って、余分にものがありすぎるんだよ。だいたい新宿とか渋谷とか、毎日行っていたかい?コンサートだって年に1回行くか行かないかだろ。時々、飛行機か新幹線乗って、遊びに行けば済む話だろ」と言えばよいだけかもしれませんけど。