せとうち寿司つれづれ日記10―「すし学会」は未来の鏡

オシャレしたい気持ちはわかるけどね

 

 すし職人の業界には「学会」というものがある。

 皆が集まって仕事に関わる情報を交換するのが、学会の目的だ。

 たとえばある職人が、寿司の新しい握り方を開発したり、いままでになかったネタを使った寿司を創作したりしたとする。役に立つことを発見した時には、それを人に伝えたいものだ。「すし学会」は、こうした発表を行う場所である。発表はふつう、パワーポイントや動画を用いて行われる。新しく開発した寿司の写真を見せたり、どうやって寿司を握るかを動画で説明したりするわけだね。

 あたしは「いかに美しい寿司を握るか」を専門にしている。この専門領域で最大の学会は、「日本すし美会」と言って、毎年4月に行われる。

 「日本すし美会」の下にも、いろいろな学会がある。魚の皮を美しく調理する「光り物研究会」なんて言うのもあるし、器用に包丁を操作して、きめ細かい刺身を作ることを競う「微小技術研究会」なんて言う学会もある。職人はそれぞれ興味の対象が異なるし、得意分野も異なる。だからそれぞれ「同好の士」が集まってマニアックな討議をするわけだ。

 すし学会で発表をする場合には、一人当たりの持ち時間が決っている。だいたい5分から10分くらいが制限時間だ。限られた時間のなかで思っていることを伝えることは、なかなか難しい。聴く方にしても、「この発表は面白いから、もうちょっと詳しく話を聞きたいな」ということがよく起こる。こういう場合のために、学会の後にはふつう、懇親会が行われる。もっと話を聞きたいと思う人は、発表した職人に懇親会で会いに行って、さらに深く議論を行うというわけだ。懇親会は立食パーティの形式で行われることが多い。それゆえ学会は(参加者の人数にもよるが)だいたいの場合、ホテル、もしくはホテルに近接する会議場で行われる。

 ところで、最近のパンデミックにより、すし学会の開催のされ方は一変した。いままではホテルなり会議場に皆が集って情報交換が行われていた。しかし大勢のひとびとが集まれば、感染が拡大する危険が増す。それゆえ、ここ数年で、ZOOMなどの遠隔会議システムを用いて、発表を行う方式が、急速に広まった。

 遠隔会議システムを使えば、会わなくても情報を交換することができる。その意味ではたしかに、「すしに関する情報を交換する」という、すし学会の本来の目的は達しているとはいえるだろう。だから今後は、皆が会場に集まって議論を行う、伝統的なやり方は完全になくなってしまうであろうと言う人もいる。 

 しかし、あたし自身はそうは思わない。学会に参加することにより得られるものは、単純に知識だけではないからだ。人と人が直接会ってはじめて伝わるものがあると、あたしは思っている。

 たとえば学会には、ご年配の職人の方々も大勢、参加される。あたしにとっては彼らの姿をみることが、自分の生き方を再考する上で、とても良い参考になる

 あたしは今のところ、わりに恵まれた環境のなかで仕事をしている。お客さんも全国から来てくれるし、弟子も毎年、入門してくれる。

 しかし世の中、すべてのものは移ろい行く、永久にこの状況が続くわけではない。先の話ではあるが、いつかは職場を去る日が来るのだ。その時までに何をすべきなのか、そして、その後どのように生きるかについて、ときどき考える。そういう目で学会に参加される先輩方を見ると、いろいろな事が見えてくる。

 まず感じることは、「地位」というものは、はかないものということだ。

 現役の時にかなり高い地位にあった大御所たちも、すし学会によくおいでになる。退任してしばらくは、みな彼らの事を覚えている。だから会場を歩けばすれ違う人たちは皆あいさつするし、懇親会に出れば周りに人の輪ができる。

 ところが退任して3~4年も経つと、少し雰囲気が変わってくる。30代~40代ぐらいの中堅の職人はビッグネームを覚えているから、廊下なんかで会えば頭を下げるし、エレベーターに乗り合わせれば80センチくらいは距離をとる。

 ところがすし学校を出たばかりの若い職人は、彼らが大御所だなんて知りはしない。だからすれ違ったって会釈もしないし、懇親会に出ても若い仲間で話しているだけだ。かつてのビッグネームたちは彼らの傍らで、寂しそうな顔をしている。そういう姿を見ると、諸行無常」という言葉が身に刺さる

 何年か前のすし学会で、こんなことがあった。

 すし学会では昼休みに「ランチョンセミナー」というものが催される。包丁のメーカーや、魚の卸売り業者にとって、寿司職人はお得意さまだ。だから学会の昼休みを利用して、自分たちの商品を宣伝する。これがランチョンセミナーだ。

 たとえば包丁メーカーであれば、ある職人にいくばくかの謝礼を渡して、店で包丁を使って貰う。そしてランチョンセミナーで、自社の包丁の切れ味がいかに素晴らしいかを、他の職人たちに話してもらう。

 ただでセールストークを聞くやつも少ないから、メーカーとしてはお弁当を用意する。みんな昼休みはどこかでメシを食わなくちゃいけないが、ホテルのメシは高い。そこで参加者たちはランチョンセミナーに参加して、お弁当をもらう。お腹を満たすのと同時に、新しい製品についての情報も得られるから、一挙両得なわけだね。

 その学会でもランチョンセミナーが設けられて、あたしもそれを聴きに行った。セミナーのテーマは、「いかに魚の色合いを良くするか」についてであった。レーザーという器械を使えば魚の皮膚の色を美しくしたり、ツヤを出したりすることができる。そのセミナーを主催したのはレーザーの器械のメーカーで、職人たちにレーザーの性能を知ってもらうことがセミナーの目的であった。面白そうな内容だったので、それを聴きに来た職人が多かった。あたしが会場に到着した時には、席はほぼ埋まっていた。

 ふと見ると、会場の入り口に、ご年配の職人が所在なさげに立っている。この方は、魚の色を見栄え良くする技術については、先駆者とも言える人だった。彼もセミナーを聴きに来たのだが、席がなくて座れないのだ。

 あたしは彼とは直接の面識はないし、専門も大きく異なる。しかし彼のことはひそかに尊敬していた。

 あたしは思った。普通の人ならともかく、彼はその道の開拓者だ。たしかに混んでいて席は少ない。だからといって、高齢の彼に立ち見などさせてよいものであろうか

 そう思ったので会場の前の方に行って、空いている席がないかどうか、よく探してみた。

 席はほとんど埋まっていたのだが、2つだけ空いていた。ただその上に、女物のコートやバッグなどが置いてある。空席の隣には、若い女性の職人が3人ほど並んで座っていた。席の上の荷物は、彼女たちのものと思われた。

 すし学会は、学術的知識の交換の場ではあるのだが、若い職人たちにとっては、出逢いの場でもあるのだ。全国から職人たちが集まるので、優秀なイケメンもたくさん参加する。だから女性の職人など、美しく着飾って来る人が多い。コートやバッグはそのアイテムなのだ。

 とりわけその3人の服装には気合が入っていた。高そうな指輪なんかもしていたし、みんな銀座のホステスみたいな、化粧と髪型をしていた(銀座なんか行ったこと、ないけどね)。

 美しく着飾りたい彼女らの立場も解るが、他の人が座れないのは困る。

 だからあたしは嫌みったらしく「ここ、空いているの?」と、彼女らに話しかけた。

 彼女らは露骨に嫌な顔をした。彼女たちはすでに弁当を食い始めていた。

 われわれ2人を座らせるためには、

 ①弁当をいったんしまい、

 ②空席の上の荷物を膝に乗せ、

 ③その上で弁当を再び広げる という動作をしなくてはいけない。

 これは面倒だ。せっかくイケメンと知り合いになろうと思って気合を入れていたのに、席につこうとしているのは、たちの悪そうなオッサンと(あたしのことだ)、ジーサンだ。鯛を釣ろうと思っていたら、ウツボとクラゲが釣り針にひっかかったようなもんで、面白かろうはずがない

 さらに、膝の上にコートをおいて、その上でメシを食うと、食物が落ちてシミになる可能性もある。

 だけどそんなことあたしの知った事ではないし、彼女らに睨みつけられたって屁でもない。こういうの気にしないのが、オッサンの特権だ

 だから、渋るお姉さんがたに荷物を無理矢理どかせて、あたしはその老職人を空いた席にお連れした。そしてその大御所と隣り合って席についた。

 銀座のバーは「座るだけで5万」と言われるが、幸いにしてそれらのオネーチャンたちには舌打ちされただけで、お金は請求されずに済んだ。よかった。

 「それにしても」とあたしは思った。

 セミナーの会場には40代以上の職人もたくさんいた。若いお姉さんたちはさておいて、中堅どころの職人ならば、かの大御所を知らないはずがない。それほどの人ですら、現役を退いて10年も経つと、このような扱われ方をしてしまうのか。

 もっとも、あたしの場合には、すでにそういう「忘れられる」経験を一度している。あたしは長らく、東京にある四谷寿司に務めていたが、今から8年前に、四国にある「せとうち寿司」に転籍した。つまり四谷寿司はあたしの古巣なのだ。

 しかし最近の、四谷寿司の若い職人は、みんなあたしのことなんか知らない。時が流れたのだから当たり前なのだが、やはり虚しさは感じる。年を経て忘れられる孤独さと、なじんだ組織を離れる虚しさは、似た部分が多かろう。もともと地位とか肩書なんかは自分の「外」にあるものであって、立場が変われば失われるものなのだ。すし業界においては、ほとんどの職人が、自分が卒業したすし学校と関わり合いながら一生を過ごす。ところがあたしは、自分の古巣をとび出るという、例外的な道を歩んだ。このことには得も損もあるが、「人はいずれ忘れられる」という真理に直面し、ある種の免疫がついたように思う。これは一つの収穫ではないかと思っている。学会に出て、去っていった老兵たちをみると、この真理をしみじみ認識する。

 ただ、時とともに忘れられるのが世の習いであったとしても、年月を得ても輝き続けるものは、たしかに存在するのではないだろうか。そういうものが本当の意味での実力だと、あたしは思う。

 あたしの眼から見ると、その人でなければできなかったであろう、と思うような偉業をやり遂げた人というのは確かに存在する。そういう人の数は少ないが。

 たとえば、前にアルプス寿司学校の親方をしていたM師匠なんかは、魚の眼の周辺を調理する名人だった。今は浜松で自分の店を開いている。彼は単純にたくさんの寿司を握っただけではなくて、新たな調理法を次々と紹介した。もともと目の周りを上手く扱える職人はすごく少なかったが、その親方が編み出した調理法のおかげで、食っている人間がたくさんいる。すしを握るのが上手な職人はたくさんいる。だけど、ある分野を創り上げて、自分だけじゃなくて他人のメシの種もつくるなんてことは、そんじょそこらの職人にはできるもんじゃない。

 また、非常に細かく魚の血管を処理して、刺身が水っぽくなるのを防ぐ調理法を開発した職人もいる。彼は東京の一流すし学校で親方をしていたのだが、今までは不可能と思われていた調理方法をたくさん発表して、一つの分野を作った。彼の技術は世界的に評価されていて、彼の愛弟子たちも非常に活躍している。

 こういう人たちは優秀だが、おしなべて癖が強い。だから第一線を退いたあとは、冷遇とういうのは言い過ぎにしても、彼らの実績に見合った厚遇を受けていないことが多い。ただ、少なくともあたしは彼らを尊敬する。さっきあたしが、「ランチョンセミナー」で、ある老職人に席を探して差し上げたと書いた。その方も歯に衣着せぬ物言いが有名で、かなり癖のある人物だ。ただ彼が若いころに行った仕事は、たしかに価値あるものだとあたしは思っている。それで、あたしなりに礼儀を尽くさせていただいた次第である(彼からみると余計なお世話だったかもしれないが)。創造的な仕事をした人間は、たとえモノを知らない若者には無視されたって、その偉大さは、わかる人間にはわかるのだ。

 業績とはすこし別の話だけれども、自分が苦しいときに良くしてくれた人の事も、やっぱりあたしは忘れない

 あたしは東京のあるすし学校にいたころには、親方に好かれていなかった。その親方はあたしと同じすし学校を卒業し、かつ20歳ほども齢が離れていた。それなのになぜ、ここまで冷遇されるのか、不思議に思うくらいであった。もっともあたしの態度や性格にも問題があったことは自覚しているから、文句を言うつもりはない。馬が合わない奴って、だれにでもいるからね。

 とは言えアカデミアの世界は、上からの「引き」がとても重要なことは、まぎれもない事実である。そうであるのに直属の上司に嫌われていたのだから、お先真っ暗な気持ちであった。

 そんな時に、ある学会の懇親会で、K師匠に話しかけられた。K師匠とあたしとは、それまで面識がなかった。K師匠は近畿地方にあるすし学校を卒業されたが、東京で修行をして、本郷寿司の「すし閥」に属す人だった。その頃には東北のあるすし学校で、親方をしていた。

 彼はかなり酔っていたのだが、私の肩に手を置いて言った。

「N(あたしの名前)~。お前、これから一体どーすんだよ!

 あたしは、面識がないと思っていたK親方に、急に話しかけられてびっくりした。

 「あたしのことを知っているんですか?」

 「知っているよ。お前は頑張っているが、可愛げがないのがよくない。なんか、生意気そうに見えるんだよな。もう少し愛想よくした方がいいぞ。だから上に好かれないだよ。」

 K親方はさらに、お前はあごひげが似合わないとか(そのころのあたしは、あごひげを生やしていた)、背が高くて偉そうに見えるから、横に太いお前の上司には好かれていないだろうとか、いろいろ言いたいことを言った。

 初対面で「お前」呼ばわりされれば普通はむっと来るところであろう。ただK師匠は、口は悪いけれども親身になって心配してくれているのが、あたしにはよく解った。

 自分の知らないところで見ていてくれる人がいることが、あたしにはとても嬉しかった。またその後、彼の忠告を受けて「偉そう」な態度を改めようと、自分なりに努力はしたので、いまいるせとうち寿司学校から「うちに来ないか」と誘っていただくことができた。

 K師匠にアドバイスをいただいたのは10年くらい前の話だ。

 だから彼も、もう引退してしまっている。

 このあいだ岡山で学会が開かれた際に、K師匠も参加されていた。そこであたしは、そのとき「アドバイス」をいただいたことについて、お礼を言った。K師匠は、話した内容については詳しく覚えていなかったけれども、あたしにアドバイスをしたことはよく覚えていた。あたしは彼に心から感謝をしている。その気持ちはK師匠に伝わったらしく、彼も嬉しそうにしていた。

 以上つらつら述べてきたが、尊敬とか感謝の気持ちは時空を超えて存在するものであるし、実際にその対象である方々に会えば、さらに輝くものではないか。そうした輝きを感じたいと思えば、やっぱり実際に人と人とが会うしかない。その理由で、全ての学会が遠隔システムになることはないであろう、とあたしは思うのである。

 ここまで書いて気が付いたんだが、ランチョンセミナーの会場で、コートで席をふさいでいたオネーチャン方も、人と人とが会うことの大切さをよーくわかっていたんだよな。だって、遠隔会議システムで学会に参加しても、イケメンとは知り合えないからね。かっこいい彼氏見つけるためには、実際に会場に行かないとね!そう考えると、あたしとあのオネーチャン方は、「主義を同じくする同志」と言えなくもない。

 彼女らのコートに、ベントーの汁はこぼれなかっただろうか。狭い同業の世界のこと、彼女らももしかしたら、このブログを読んでいるかもしれない。もしそうなら連絡くださいね。クリーニング代払いますから。5万円は払わないけどね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「流れ者」たちの宴(うたげ)

こういう近況報告が多いんですよ

 先週の土曜日に松山で、高校の同窓会が催された。

 正確にいえば高校の「四国同窓会」で、卒業生で四国に今すんでいるか、住んだことのある人間たちが年に一度集まって、酒を飲むのである。

 この集まりがまた、味がある。

 一口に同窓会といっても、いろいろある。

 ほとんどの学校の同窓会は、その高校なり大学の所在地で行われるはずだ。

 たとえば香川県には高松高校という名門高がある。香川県ではナンバーワンの進学校だ。お盆や正月に高松のホテルに行くと、この高校の同窓会をよくやっている。皆が帰省したおりに、行われているわけだ。

 高松高校を卒業した後に、仕事の関係で東京や大阪に移り住んだ人もかなりいるだろう。しかし就学期に高松にいたということは、おそらく実家は高松か、その近辺にあるはずである。だからこそ高松高校の同窓会は、ほとんどの場合、高松で行われるのだ。高松高校の同窓会が、たとえば那覇で行われることは、滅多にないと思う。

 ところがぼくの卒業した高校は、松山なり高知で「四国同窓会」をやってしまう。高校が東京にあるにも拘わらず、である。これはかなり、異色なことなのではないだろうか。

 「四国同窓会」の異色な点は、もうひとつある。

 通常の同窓会であれば、同じ学年か、あるいはせいぜい2~3年の学年内で招集がかかる。とくに共学の学校の場合はそうだろう。共学の学校では、在学中に恋愛をすることも多いはずだ。恋愛とまではいかないまでも、ひそかな思慕であるとか、憧れの気持ちをクラスメートに抱くことは、だれでも多かれ少なかれあるはずだ。時を経て「憧れの君」と再会し、思い出を甘酸っぱく噛みしめることも、同窓会の目的のひとつに違いない。とくに20代や30代前半の場合には、単なる再会に留まらず、さらに結婚につながる可能性だってありうる。だからあんまり齢の離れている人間同士は、集まらないだろう。したがって招待される人間の年齢がある程度、限られてくる。

 要するに、フツーの同窓会というものは、①卒業した学校の近くで行われ ②参加者の年齢は近接しており ③(共学の学校の場合には)疑似恋愛的な要素も含む ものである。

 ところがわが「四国同窓会」は、これらの基準すべてに、見事に当てはまらない

 高校は東京の荒川区にある。この地域はいわゆる下町で、高級な地域とはお世辞にも言えない。ただし交通については極めて至便で、15分も電車にのれば池袋や上野につく。

 これに対して四国同窓会は毎年、徳島・高松・高知・松山をローテートしつつ行われる。これらの街は、一応は県庁所在地ではある。だからメチャクチャな田舎、とまでは言えない。しかし東京からは、かなり離れている。

 距離のみならず、心理感覚的にも、四国は東京からかなり離れている。

 香川・愛媛・徳島・高知はすべて、関西文化圏にある。ぼくなどはもともと山口の出身であるので、さしたる違和感もなく四国の生活に溶け込むことができた。しかし生粋の関東の人間が移り住んだ場合には、馴染むまでに少し時間がかかるはずだ。

 つまり四国は距離的に東京からかなり離れているし、その距離感は文化的な差異により増幅されるのである。

 それなのに、高校の同窓会を松山や高知で開催する強引さがたいしたものである。

 参加者の年齢層が幅広いことも、「四国同窓会」の異色な点である。

 なぜ年齢層が広くなるかというと、年齢に関係なく、卒業生というだけで招待状を出すからだ。関西圏ならば卒業生もそれなりいるだろうが、四国ともなると、住んでいる卒業生は、やはり多くはない。だから年齢の制限など設けてしまうと、十分な参加人数が集まらないのである。

 それゆえ蓋を開けてみると参加者は、23歳の医学生から、20年間も大学で教えているオッサン教員まで、年齢差がほぼ30歳にわたることになる。

 ここまで異質な同窓会であるがゆえに、そこで交わされる会話の内容も、普通の同窓会なんかとは全く性質が異なる。

 まず、同窓会にありがちな出世自慢が一切ない。

 これは別に、参加者たちが人格者だからではない。単純に、出世自慢なんかしたって意味がないのである。

 この点については、たとえば医者の同窓会と対比するとよくわかる。

 ぼくは高校を出た後、都内の大学の医学部に進んだ。その大学は総合大学であるが、医学部だけは別のキャンパスだったので、他の学部との交流がほとんどなかった。そのため同窓会は、医学部の内部だけで行われる。しかも開催される場所は毎年、大学病院の近くにあるパブと決まっている。つまり同じ同窓会とは言っても、「四国同窓会」とすべての面で真逆なのである。

 医学部の同窓会は、どういう雰囲気であったか。

 ぼくは8年前に香川に越して来る前は、母校の大学病院に勤務していた。そのときには毎年、大学の同窓会には必ず参加していた。クラスメートたちはいい人間が多く、彼らと過ごす時間が楽しかったからだ。

 一つだけ残念だったのは、どうしても皆、出世自慢に流れる傾向があったことだ。

 ただこれは、考えてみると当たり前の帰結なのだ。同じ職業で同じ世代の人間では、(世俗的な意味での)成功をはかる物差しが、大きくは違わない。だからちょっと話を聴いただけで、その人がどういう境遇にあるのかが、簡単にわかってしまうのだ。

 そのためどうしても、みんな自分を大きく見せようという心理が働いてしまう。そうすると、どこそこの教授になりましたとか、院長になりましたとか、近況報告が自慢話のオンパレードになってしまうのだ。

 教授や院長くらいならまだ良いほうで、酒に酔ってくると、開業をしていて収入が何千万円ありますとか、製薬会社の役員をやっていて交際費が年間2000万円使えますとか、えげつない話も出てきてしまう。(この模様は前にブログで書いています→チョンル・プージン - Nagasaoのブログ (hatenablog.com))。

 別に医者の世界だけではなく、同質・同業の人間が集まるタイプの同窓会においては、これと同じ現象が起こるのではないだろうか。たとえばぼくの高校にも、「四国同窓会」とは別に、キャリア官僚たちが集まる同窓会とか、弁護士たちが集まる同窓会があるらしい。

 ぼくは官僚でも弁護士でもないので、そういう同窓会に参加したことはない。しかし、例えば官僚の同窓会では「このたび局長になりました」とか、「官庁を辞めて民間企業の役員になりました」などという話が、多く出てくるのではないかと思う。

 ところが「四国同窓会」においては、ほとんどそういう話はでてこない。

 主たる原因は、参加者の職業がバラバラであることだ。出世を自慢したって、他の参加者には、その価値がわからないのである。

 「四国同窓会」の参加者の職業は、証券会社を経営していたり、弁護士をしていたり、農学部林業を教えていたり、高知県の過疎地域で町おこしをしていたり、新聞記者をしていたり、外科医をしていたりする人間たちで、見事なまでに統一性がない。

 だから例えばぼくが、「こういう手術を年に何百例やっています」なんて自慢をしたとしても、「あっそう。フーン」で終わってしまうのである(しないけどね)。

 その素っ気なさが非常によい

 ただしみんな、お互いに対して無関心というわけではない。

 たしかに他人が「世俗的な意味でどのくらい成功しているのか」についてはほとんど興味がない。

 しかし「どのような人生を歩んできたのか」については、大いに関心がある。だから新メンバーが加わると、「お仕事は何をしているのですか」ではなく、「あんたは、なんで四国に流れてきたの?」から会話が始まるのである。

 刑務所に新人(?)が収監されると、まずは牢名主の前につれて行かれて、「てめえはシャバでなにをやらかした」と訊かれるそれとよく似ている

 刑務所の中では、囚人により刑期が異なる。終身刑クラスの大物から、2-3カ月暮らせば釈放される小物まで、多岐にわたる。

 「四国同窓会」も構図が似ている。20年もいる長老もいるし、今年から四国に来ました、などという初心者もいる。

 だいたいにおいてこういう「初心者」は20代後半か、30代前半くらいである。官庁やマスコミなどでは、若い人間たちを鍛えるために、いわゆる「ドサ周り」をやらせる。たとえば財務省にキャリアで入職した場合、若いうちに地方の税務署長を経験させられる。新聞社なども、若者の見聞を広げるために、地方の支局に何年か出張させる。こういう「ドサ周り」を巡っている若者たちにとって、ぼくのように四国に定住したオッサンたちは、いわば地縛霊みたいなものだろう。

 ところが地縛霊たちは四国という土地で、けっこう楽しく生きているのである。

 「地縛」の理由は人によりさまざまだ。

 上とそりが合わずに組織を飛び出た人間もいる。農学や水産学のように、もともと田舎と親和性のよい分野を専門にしている関係上、四国にやってきた人間もいる。親戚の会社が四国にあって、その経営をするためにやってきた人間もいる。四国出身の女性と恋仲になって、やってきた人間もいる。

 ただみんな、あえて東京での生活を捨てて、主体的に田舎にやってきた点では共通している。

 こういう生き方は、いつの日か若い人間たちにも参考になるのではないか。

 ドラマや映画では、銀行員などが地方の支店に左遷されると、人生が終わったかのように悄然とうつむく。いわゆる「シュッコー」というやつですね。

 ただ地縛霊の立場から言わせていただくと、「なんで落ち込むの?」と思うのである。だって死ぬわけではないし、地方に行ってからの人生の方が楽しい可能性だって多分にあるわけだから。

 たとえば「四国同窓会」では以下のような会話が交わされているのである。

「先輩は大学で林業を教えているのですよね。」

「そうだよ、林業は日本の心だぜ。木を植えて木材になるには50年かかる。つまり爺さんの植えた木が、孫の時代になってやっとお金になる。世代を超えた愛情がないと林業はやっていけないよ。」

「政治家にも林業の研修をさせればいいですよね。そうすると、50年後の日本を見すえた政治ができるのではないかなー。チェーンソー持たせたりして。」

「何いってんだ(突然、怒る)!チェーンソーをなめるんじゃない!少し手元が狂うと、反動で自分の腕を切るんだぞ!」

「す、すいません。そういえば、ぼくの病院にも、チェ―ンソーで腕や顔を切った方がときどきおいでになりますよ。」

「わかりゃいいんだ。チェーンソーを使いこなすのはむずかしいんだ!」

「そうすると『13日の金曜日』のジェイソンなんかは、かなり修行したんでしょうねー。」

「そうだよ。チェーンソーは武器としては効率が悪いね。」

 このようなアホな会話が展開されているのである。チェーンソーの使い方について激論が交わされても、若者に対してエラソーな説教をするオッサンはいないのである。ちなみにこの「チェーンソー」の先輩は、T大を出てドイツに留学したかなりの教養人で、ドイツ語も通訳レベルである。

 四国を通過点にして、これから羽ばたく若者に対しても、オッサンたちは「四国をでて行くな~」とか「左遷されて四国に戻ってこい~」などとは、露ほども思わないのである(それをやったら、本当の地縛霊だよ。)」

 そうではなくて、「これから人生いろいろあるかもしれないけれど、まあ息抜きしたくなったらたまにはやって来いよ」とオッサンたちは思っているのである。優しい地縛霊なのである。

 ようするに、「四国同窓会」は、地縛霊たちのハロウィンだね。

 東京の生活に飽きた人たちの、癒しの場になりうるね。

 だから個人的には、どこの高校を卒業したとかあんまり関係なく、都会の喧騒に疲れたすべての人びとの参加を、受け入れる会にしたいね。会費はしっかりもらうけどね。

 ただそれをやるためには、他の「地縛霊」たちの意見も訊かなくてはいけない。だから悪いけど、すこし待っててくださいね。

 

 

 

のび太、しっかりせんかい!(1)

ジャイ・ハーン

 

 

おことわり(この物語はフィクションであり、実際の国家や人物とはなんら関係がありません)

 

 最近、ジャイアンのび太の関係が、あまりよくありません。のび太ジャイアンの家は近いのですが、ジャイアンはちょくちょくのび太の家の裏庭に入ってきます。シズカちゃんにも時々、ちょっかいを出しているようです。それで、のび太家の人々は、ジャイアンに対して警戒心を強めています。

 しかし、ジャイアンのび太はずっと仲が悪かったわけではありません。ジャイアンのび太には、長い長い付き合いがあります。のび太家とジャイアン家は、実は遠縁だという話すらあります。遠い昔、ジャイアン家の一人が不老不死の薬を創ろうとして本家を出てゆきました。彼は新しく家を興しました、その子孫がのび太家であるという説です。もっとも、この真偽はだれもわからず、単なる伝説にしかすぎませんが。

 ところで現時点においては、のび太家の人々は、ジャイアン(家の人々)を単に「粗暴な人(たち)」と認識しています。もっとひどい言い方をすれば「アブナイ人(たち)」です。しかし、何世代にもわたるジャイアン家の人々の中には、かなりの教養を持った人間がたくさんいました。というより、ジャイアン家ではどちらかというと、もともと武力よりも、作詩や作文など文芸活動に大きな価値を置いているのです。その証拠に、数多くの思想家を輩出しています。いまのジャイアンを見るとなかなか信じられないかもしれませんが、ジャイアン家における尚文の気風は、じつは今でも不変なのです。

 ジャイアンの先祖は文字を創り、のび太家の先祖に教えました。この文字を、のび太家では今でも使っています。これは不老不死の薬の伝説とは違って、れっきとした事実です。ちなみにスネ夫の先祖にもジャイアンは文字を教えましたが、スネ夫の家ではその文字を使うのをやめてしまいました。ジャイアンの影響を排して独自の文化を創ろうという心意気は立派ですが、はたしてうまく行っているのでしょうか。ドラマや映画を作るのは非常にうまくなったようですが。

 ジャイアン家の先祖たちがのび太家に伝えたのは、文字だけではありません。集団をまとめるノウハウとか、作物の作り方とか、実に多くのことを教えてくれました。

 このように、ジャイアン家とのび太家の間には、長い付き合いがあります。

 でもずっと前のことから話し始めると、いくらページがあっても足りません。

 そこで、あまり昔のことは端折ってしまって、「ドラえもん」に関連するところから、今日のお話を始めることにします。なぜならジャイアンのび太も、「ドラえもん」の登場人物だからです。実際の主人公は明らかにのび太だと筆者は思うのですが、一応タイトルは「ドラえもん」になっています。ですからやはり、ドラえもんの顔は立てなくてはいけません。

 われわれの目にする漫画や映画のストーリーにおいては、ドラえもんはずっとのび太と一緒にいます。そしてのび太に困ったことが起こると、なにか道具を出して、窮地に陥ったのび太を救ってくれます。

 ところが現実の世界においては、ドラえもんのび太を助けてくれたことは、歴史上たった2回しかないのです

 ジャイアンの家の北側に、ジャイ・ハーンという少年がいました。ジャイ・ハーンは最初のころはジャイアンよりは少し弱く、彼に服従していました。しかし成長とともに、乗馬がうまくなりました。ジャイアンがいくら腕っぷしが強くても、馬に乗って攻めて来られてはひとたまりもありません。ジャイ・ハーンに負けて、子分になってしまいました。

 ジャイ・ハーンはジャイアン服従させたあと、のび太も家来にしようと思い、攻めてきました。

 のび太を将来から見ていた孫は、ドラえもんを派遣しました。ドラえもん「突風発生器」をポケットから出すと、ジャイ・ハーンを吹き飛ばしました。ジャイ・ハーンはもう一度攻めてきましたが、その時もドラえもんは「突風発生器」でジャイ・ハーンを撃退してくれました。こうしてのび太家は、ジャイ・ハーンによる蹂躙を免れました。ただしこの事件の後、しばらくはのび太家の内部での内輪もめが続いたようです。

 少し本筋とは離れますが、この時だけなぜ、ドラえもんのび太を応援したのか、筆者にはわかりません。ずっと後にのび太が、(身の程知らずにも)デキスギ君に喧嘩を売ったときこそが「突風発生器」の出番だったのではないかと、筆者はひそかに思っています。

 実際にのび太だってその時、ドラえもんが再びやって来て、「突風発生器」でデキスギ君を吹っ飛ばしてくれると信じていたのです。ですが新兵器を使ったのはデキスギ君の方で、のび太をメタメタにやっつけてしまいました。なかなか粘り強く戦っていたのび太も、最後には全面降伏してしまいました。

 話をジャイ・ハーンと、のび太の紛争の時代に戻します。

 ジャイ・ハーンにはたくさんの兄弟がいました。兄弟同士の仲はあまり良いとは言えず、ジャイ・ハーンの家は次第に分裂してゆきました。相続争いにつかれたジャイ・ハーンは、次第に精彩を失ってゆきました。

 そこでジャイアンはジャイ・ハーンをぶっとばして、自分の家から追い返すことができました。

 のび太も「突風発生器」の援けを借りたとはいえ、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったジャイ・ハーンを撃退したわけですから、かなり自信をつけました。それで、ジャイ・ハーンと一緒に攻めてきたスネ夫に対し、仕返しに行こうとしたりしました。しかしこの試みはうまく行かなかったようです。

 ちなみにのび太スネ夫も、昔はかなり仲がよかったのです。筆者は、遺伝子学的にも、のび太家とスネ夫家はほとんど同じと考えています。ただのび太の家とスネ夫の家は、あまりにも近いのです。ジャイアンの家よりもさらに近いのです。家が近すぎるがゆえに、なにかと衝突をするのでしょう。

 ジャイ・ハーンの事件からの後かなり長い間、のび太ジャイアンの関係は、比較的落ち着いていました。のび太は時々ジャイアンの家に遊びに行きましたし、ジャイアンのび太の家によく遊びに来ました。

 ところが平和な日々は永久には続きません。

 ジャイアン家にある事件が起こり、その影響が、のび太を含む周辺の人たちに次第に波及していったのです。

 ことの発端はブリ男でした。ブリ男は船に乗るのが好きで、いろいろな商品を外国から持ってきて売るのを商売にしていました。このブリ男が、ジャイアンの父になんと麻薬を売りつけるようになったのです。当然のことですが、ジャイアン家は急速に困窮しました。ジャイアンの精神状態もがたがたになり、ジャイアン家は弱体化しました。

 それに目をつけて、ジャイアンの周辺にいるさまざまな人が、ジャイアン家を食い物にしようと狙い始めました。たとえば弱体の原因を作った張本人のブリ男は、ジャイアンの庭の一部を囲い込んで小さな店を始めました。店では麻薬を売ったり、盗品を転売したり、通行人を脅してお金をとったり、やりたい放題です

 それにも関わらずブリ男は、街では「紳士」であることになっています。ブリ男の宣伝と情報操作のうまさは見上げたものですのび太もいつの日か、これくらいのしたたかさを身に着けて欲しいと、筆者は心から思っています。

 ところでジャイ・ハーンの牧場よりさらに北に、ジャイスキーという男が住んでいました。ジャイスキーはブリ男がジャイアンの家を食い物にしているのを見て、うらやましく思いました。そこでジャイアン家の庭にちょくちょく表れて、ジャイアンのものを持ってゆくようになりました。ちなみに、この話は時代に沿って書いていますが、現段階(2022年)での町一番の困りものは、どう見てもジャイスキーのようです。

 話を戻しますが、ジャイスキーがジャイアン家にちょっかいを出していた時、のび太はどうしていたのでしょう?実はのび太は密かに力を蓄えていたのです。のび太ジャイアン家がブリ男やジャイスキーにさんざん食い物にされているのを見て、危機感を抱きました。このままでは自分の家も危なくなると考えたのび太は、もはや昼寝ばかりしている少年ではなくなりました。喧嘩の腕を鍛え、必死で勉強もしました。その甲斐あって、それなりに強くなりました。

 ところで、ジャイスキーはブリ男の尻馬に乗ってジャイアン家に食い込んだあと、のび太の家を狙っていました。ジャイスキーの家は、なにしろ寒いのです。冬になると、なにもかも凍ってしまいます。冬になっても凍えない部屋を手に入れることは、ジャイスキーの悲願でした。そこでジャイスキーはちょくちょく、のび太にちょっかいを出すようになりました。

 ジャイスキーの目から見れば、のび太なんかジャイアンの子分にすぎません。だからジャイスキーは、のび太を叩き潰すくらい、赤子の手をひねるようなものだと思ったのです。

 ところがまれにみる努力を重ねていたのび太は、それなりに強くなっていました。なんとジャイスキーを返り討ちにしてしまったのです。これには町中がびっくり仰天しました。小柄で弱いのび太が、ケンカ慣れしたジャイスキーをやっつけるなんて、誰も思わなかったのです。ただその時たまたま、ジャイスキーの家もごたごたしていました。日々、工場で汗を流して働いている次男(ジャイーニン)が、アパート経営のあがりで生きている長男(ジャニコライ)と大喧嘩をして、長男を家から追い出してしまったのです。こういった、ジャイスキー家のごたごたが、のび太の勝因の一部分にはなったのかもしれません。

 とはいえ、のび太は自信をつけました。

ジャイアンより(今は)強いジャイスキーに、ぼくは勝った。だったらジャイアンの家に、ぼくも乗り込んで行ってなにか持ってきてもいいんじゃないか?昔からあいつ、上から目線だからな。ぼくだってホントは強いんだぞ!」

 というわけでのび太は、ジャイアンの家の北庭に木材を持ち込んで、基地をつくりました。

 このことがジャイスキーにとって、面白かろうはずがありません。ブリ男にしても、のび太ごときが生意気やるんじゃねーよ、と苦々しく思っていました。しかし喧嘩にとりあえずは勝って、脂の乗っているのび太を怒らせると、何をするかわかりません。それゆえ手が出せず、のび太はますます自信をつけてゆきました。

 ところがもう一人、のび太をいまいましく思っていた人物がいました。デキスギ君です

 デキスギ君は昔、家にばかりいるのび太を、外に引っ張りだしてくれたことがあります。デキスギ君は見栄えも良いし、明るい性格をしています。そのため、ちょっと前までは街の誰しもに好かれる人気者でした。かといって必ずしも善人というわけではありません。ベト子ちゃんなど、小さな女の子をいじめたりしたこともあります。

 デキスギ君がのび太を家から引っ張り出したのには、いろいろ理由があります。そのひとつはブリ男の影響です。実はブリ男とデキスギ君は親戚で、ブリ男が本家筋です。ブリ男の家からデキスギ君の家が分派する際に、両家ではけっこうな争いがありました。ある喧嘩の際にデキスギ君が、手近なところにあったお茶缶をブリ男に投げつけた話は有名です。しかし、昔はこういう争いをしても、とりあえず今は仲良くしているところが彼らの大人なところです。

 ブリ男は今でも紳士で通っているのですが(不思議なことです)、さっき書いたように、昔は麻薬を売ったり人身売買をしたりと、それはもう大変な「紳士」ぶりでした。もともとが海賊だから仕方がないのですが。ブリ男が文字通りブリブリ言わせているのを見たデキスギ君は、自分も街の他の人たちと「仲良く」したかったのです。「ドラえもん」に出て来る本物のジャイアンは、のび太の持っているものが欲しいときによく、のび太~。仲良くしようぜ」といってコブラツイストをかけたりします。デキスギ君もそういう意味で、のび太と「仲良く」したかったのです。

 そして、のび太の交流関係における最重要人物は、次第にジャイアンからデキスギ君に変遷してゆきます。その話は次回以後に書くことにします。

 

 

 

せとうち寿司シリーズ9ー「すし処方」について

武田仕出し店製造「マンボウすしパック」

 

 一般業界の方々は、すし職人と言えば、みんな包丁を朝から晩まで握って刺身を切っていると思うだろう。

 ところが、必ずしもそういうわけではない。

 たしかにあたしを含めて、包丁を一日中握っている職人も多い。だが、まったく包丁を握らないで仕事をしている職人も多いんだ。

 こういうと、みなさまの「職人」の概念が大きく変わるかもしれない。

 しかし「すし保険」のしくみに悖(もと)って考えると、これはごく当たり前の帰結なんだ。

 「すし保険」の根本的な精神は、「日本が世界に誇る、“Sushi”の文化を発展させるために、あまねく国民に寿司を食べてもらおう」ということだったよね(せとうち寿司親方ブログ第1話参照)。この「あまねく国民に」というところがポイントだ。大きな街に住んでいる国民ならば、寿司を食べに行くのはたやすいことだ。

 ところが国民の中には、過疎の村に住んでいる人がたくさんいる。海から遠く離れた山奥に住んでいる人も数多い。こうした人たちにも旨い寿司を食べてもらえるように、日本政府はどんな場所であろうと、なるべく寿司屋を置くようにしている。国や地方がお金を出して公立の寿司屋を設立する場合もあるし、職人に補助金を与えて、そういう場所で店を持つことを奨励してもいる。

 そういう辺鄙な場所には、新鮮な状態で魚を運ぶのは難しい。そこでニーズにこたえるべく、「仕出し」ビジネスが現れ、発展してきた。「仕出し」の会社は、工場で寿司をつくってそれを真空パックにする。そして造った寿司を店に発送する。

 職人たちはストックされたパックのなかから、その客に合ったものを選択して提供する。この客は太っているからトロは駄目だな、だからマグロの赤身をだそう。この客は血圧が高いから、塩分を控えた方がよい、だから塩気の多いイクラはやめておいて、酢で〆たコハダをだそうとか考える。こうやって客の状態にあった鮨を組み合わせて、それぞれの客に向いたメニューを作る。

 このシステムにおいては、たしかに職人は自分で包丁を握らない。

 しかし客たちには、自分のコンディションにあった寿司を食べることができる。だから、わが国の偉大なる「すし文化」を国民に理解してもらおうという、「すし保険」の基本精神は実現されているわけだな。

 今はとりあえず解りやすいように、山奥だとか過疎地を例にとって説明した。だけど、都市部・田舎を問わず、職人が一人でやっているような店では、この「仕出し」システムを利用している店が多い

 都市部だと、活きの良い魚を買い付けることはさほど難しくない。しかし職人が一人で切り盛りしている店では、魚をさばいたり、下ごしらえをしたりなんて手間のかかることはなかなかできない。だから「仕出し」システムを利用するわけだ。

 国内の「仕出し」の大手としては「大塚仕出し店」や「武田仕出し興業」なんかが有名だ。すし店側は、こういう「仕出し店」でつくられた「すしパック」を、客に提供するわけだね。ちなみに「仕出し店」には外国資本のものもあって、「ファイター仕出しカンパニー」なんかは非常に有名だ。

「仕出し店」とすし店の関係は非常に深い。とくに外国の「仕出し店」との関係は、国益にすら関連しうる。ただこれについては、別の機会にお話する。

 「すし店」と「仕出し店」の関係に戻る。読者の皆さんはきっと、「ちょっと待ってよ。自分で寿司をつくらないのに、どうやって利益を上げてるの?どうせ『すしパック』を食べるんだったら。お客さんが直接、パックを買えばいいじゃない?」と思うにちがいない。

 これに対する答えだが、店はそれぞれの客に適したメニューを考えることに対して報酬を受け取るんだ。さっき言ったように、年齢や状態に応じて、それぞれの客に向いた寿司は異なる。たとえば肥った客に対しては、トロやウニみたいな脂肪分の多いネタは向かない。したがって「イカ・カッパ巻き・シャコ」みたいなメニューを作成する。成長期の子供に対してはカルシウムとタンパクを十分に与えなくてはいけない。したがって「生シラス・アジ・カジキマグロ」みたいなメニューが適している。

 こういうメニューを一人一人の客に対して作ることに対して、「すし保険機構」から、一回当たり何千円かの報酬が、店に支払われる。だから、職人だけど包丁は握らない、という生き方が成立するわけだね。

 ただ正直なところ、あたしみたいに、いつも包丁をふるっている職人からすれば、包丁を握らないで、はたして楽しいのであろうかと思う。

 ところが彼らにしてみれば、いやいや包丁を持つなんていうのは単なる肉体労働なのであって、それに固執するのは古いスタイルだ。本当の職人は手先じゃなくて頭を使うものだ、と思っている。

 まあ人間っていうのは自分の生活スタイルが、他人より上だと思いたがる動物だからね。北国の人は、雪景色の美しさを自慢するし、南国の人は青い海を誇りに思っている。それと同じなわけで、どっちが上かなんて争うのは虚しいことだ

 包丁の技で勝負するタイプの職人は、俗に「外派」と呼ばれている。すなわち自己の外面にある道具を使って刺身の持ち味を出そうとすることから、こう呼ばれている。メニューを考えるタイプの職人は「内派」と呼ばれている。内面的な思考、つまり頭を使うことによってお客さんを満足しようとするからだ。

 これとはまったく別の括りになるが、すし職人は、勤務の形態によっても二つに分類される。あたしみたいに、店に雇われているタイプと、自分で店を持つタイプだ。前者は「勤務職人」、後者は「開業職人」と呼ばれている

 つまり寿司職人は、業務の内容により「内派」と「外派」に二分され、勤務形態により「勤務職人」と「開業職人」に二分されるわけだ。

 そしてこれら二通りの分類の間には、ある程度の相関がある。「外派」としてやっている大半の人間は「勤務職人」であり、「開業職人」の大部分は「内派」なんだ。

 そうなるのは、きわめて自然なことなんだ。

「外派」は魚を自分でさばく。魚は、海の状態によって獲れたり獲れなかったりする。つまり供給が不安定だ。したがって在庫管理をする係が、まず必要だ。注文の多寡に応じて魚を解凍する係も必要だ。さらに、豆アジみたいな小さな魚であれば骨を外したり、エビやカニであれば殻をむいたりする、下ごしらえの係も必要だ。このように、ある職人が「外派」として腕をふるうためには、たくさんのスタッフに支えてもらわなくてはいけない。それほどたくさんの人間を雇用することは、個人経営の店ではなかなか難しい。したがって、「外派」でやって行こうとすれば、大きな組織に属さざるを得ない。それで「外派」の多くの職人は「勤務職人」なんだ。しごく当然の理屈だろう?

 これに対して、「内派」は仕出し店の送ってくれる、真空パックの寿司を客に供する。だから、魚を加工するための大がかりな設備や、大勢のスタッフは必要ない。ゆえに、基本的にはワンオペでやっている「開業職人」の働き方に、よく馴染む。こういう理由で「開業職人」の大半は「内派」なんだ。これもわかりやすい理屈だろう?

       

 ところが、この逆は成立しない。「開業職人」の大半が「内派」ではあっても、「内派」の職人のほとんどが「開業職人」かというと、それは違う。「勤務職人」の中にも「内派」はたくさんいる。というより、「勤務職人」も半分以上は「内派」なんだ。

 というのは、パックの寿司を提供するとは言っても、個人経営の店ではなかなかあつかいきれない客もたくさんいるからだ。たとえば、マグロやイカみたいに、ありふれた素材が向かない客がいる。こういう客は体質的に、リュウグウノツカイだとか、マンボウなんかの寿司を食べないと、弱ってしまう。これらの魚は、非常にまれにしか獲れない。だから獲れた時にパックに加工しておくしかない。また、他の魚との取り合わせが難しいので、包丁の技術というよりも、寿司全般に対する知識の方がものをいう。ゆえに、「外派」ではなくて「内派」の職人が担当する方が向く。ただ、開業している職人の店だと、リュウグウノツカイの寿司パックなんか置けない。だって、滅多に出ないから。

 このように、まれな素材が不可欠な客や、品目を複雑に組み合わせることが必要な客は、けっこう多い。こういう客は、いくら真空パックのすしを出すと言ったって、職人が一人でやっている小さな店では扱いきれない。人も設備も伴った店でないといけない。したがって、大きな店舗にも「内派」部門が必要になるわけだ。

 ただ「内派」と「外派」では、「勤務職人」と「開業職人」の比率が異なっている。「外派」ではほとんどの職人が「勤務職人」だが、「内派」では「勤務職人」と「開業職人」の割合は4対6といったところか。この関係は、下の図を見てもらえるとわかりやすいと思う。

 

       

 ところで昨今、政府により新しいシステムの導入が検討されている。このシステムに対して「内派」の「開業職人」たちは、かなり警戒心を抱いているらしい。

 どういうシステムか、説明する。

 さっき話したように、「開業職人」には、すしのメニューを考えることに対して「すし保険機構」から報酬が支払われる。この報酬が彼らの収入源となる。すなわち、こうしたメニューを提供する回数が多いほど、彼らの収入が増えるわけだ。

 いままでは、患者が来店して寿司を食べるたびに、職人がメニューを作成していた。寿司をひと月に1回食べるのならば、1年間に12回、職人からメニューを作成してもらわなくてはいけなかったわけだ。すなわち、一人の客について年に12回分の「メニュー作成料」が、「すし保険機構」から職人に支払われていた。

 ところが人間の嗜好なんてものは、そうそう変わるものじゃない。だから作ってもらうメニューが、何年も変わらないなんてことがよくある。

 そこに財務省が目をつけた。「毎月メニューを変えるわけでないとすれば、1回作ったメニューを、何か月か続けて使っても良いんではないか?」と言い始めた。そしてこのシステムを「リフィルメニュー制度」命名した。日本のファミレスもそういうシステムをとっているところが多いが、「リフィル」というのはもともと、アメリカの大衆レストランのシステムだ。こういうレストランでは客に大きなコップを渡す。客はコーヒーだのコーラだのを自分でつぎにゆく。コップには”It’s free to refill”と書いてある。リフィル(refill)は「もう一回注ぐ」という意味で、つまり、「お代わりはタダだよ」という意味だ。それと同じように、開業職人が作ったメニューも、いままでのように1回だけではなくて何回も使えるようにしなさい、というふうに、財務省は言っているわけ。

 開業職人たちにとって、これは由々しき問題だ。彼らの収入のうち、かなりの部分はメニューを作成することに対して、「すし保険機構」から支払われる報酬だ。1回作ったメニューを何回も繰り返し使えるとなれば、かれらが手にする「メニュー作成料」は何分の1かになってしまう。だから当然、減収になる。

 いまのところ「リフィルメニュー制度」の受け入れは強制ではない。それのシステムを採用してもいいし、採用しなくてもいいということになっている。

 だけどある店がこのシステムを採用したら、周りの店の客たちは、システムを採用した店に流れるだろう。客も「メニュー作成料」の20~30%を支払っているわけだからね。支払うお金が少ない方が良いに決まっている。それもあって、主として「開業職人」から構成されている「日本すし会」は、「リフィルメニュー制度」の導入に大反対をしている

 「リフィルメニュー制度」の構想は、けっこう前からあったらしい。「すし保険」の財源は、国民が払っている保険料だ。保険料は強制的に徴収される。つまりは税金だ。そして、税金の使い道を管理することが財務省の仕事だ。

 すし保険のバランスシートは、大幅な赤字になっている。また今後も、どんどん赤字が拡大してくることが予測されている。この理由は簡単で、人々の寿命が延びているからだ。齢をとっても寿司は食う。それだけでなく、若い時よりも、もっと手の込んだ寿司が必要になる。骨がのどに刺さったりしたら大変だから、包丁をふるう「外派」の職人たちは、魚を調理する際に相当、気を付けなくてはいけない。真空パックのすしを扱う「内派」の職人にしたって、塩分や脂肪分にかなり注意しないと、旨いと言ってもらえない。

 このように、齢をとるにつれて寿司に対する要求水準がどんどん高くなってくるのに対し、支払う保険料の額は少なくなる。引退して収入が減るのだから当然だ。

 それゆえ、「すし保険」の財務状況は火の車になっている。そのため政府は国債を発行して穴埋めをしているのだが、このままいくと破綻するのは時間の問題だ。

 だから、日本の財布を管理する立場の財務省としては、「すし保険」にからむ支出を抑えようとするのは当然のことだ。それで、どこか削れるところはないのかと、かねてから目をつけていたんだね。

 ところが、主として開業職人たちから構成されている「日本すし会」は、ずっと「リフィルすしメニュー」制度に反対していた。自分たちの収入が減るから、当然のことだ。そして「客のコンディションは一定しないこと」を反対の根拠としていた。つまり年齢によって味覚は変わるし、体調によってもその時に食べたい寿司は違う、だから少なくとも1か月に1回は客に会って状態を確認しないと、よい寿司を食べさせることはできない、という理屈だ。

 この理屈もそれなりに説得力がある。それに、なににもまして「日本すし会」の反対が強硬であるがゆえに、あれほど強大な権力を持つ財務省(と、直接の監督官庁である厚労省)とてそう簡単に「リフィルすしメニュー」を導入できなかった。

 しかし、ここ数年のコロナさわぎで、状況ががらりと変わってしまった。まず、客たちが店に来なくなってしまった。店で他の人に肺炎をうつされるのが怖いからだ。開業職人たちも、店にあんまりたくさん客が来るのを歓迎しなくなった。自分も肺炎をうつされる可能性があるし、クラスターなど発生しようものなら営業停止になる

 

 そこで職人たちは、新しいシステムを一時的に使うことにした。電話で客の状態を聞いて、状態が変わらないようであれば、先月作成したメニューをそのまま使ってもらう。客は先月つくったメニューを持って、「仕出し店」に自分で寿司をとりに行く。こうすれば、今までは毎月すし店に行っていたのを、2か月もしくは3か月に1回に減らせるではないか。

 このシステムを使い始めたばかりのころには、客たちは「本当に大丈夫なの?」と不安に思っていた。やっぱり月に一回は職人に会わないと、味覚が狂ったり、体調が悪くなったりするのではないか、と怖かったのだね。

 ところがおどろいたことに、いざシステムが回り始めてみると、ほとんど困らない。つまり、毎月すし屋に行かなくたって大丈夫だってことに、客たちは気が付いてしまったんだね。

 あたしなんかは、そりゃそうだろう、と思ったね。あたしは、魚の胸鰭のあたりを使ってすしを作るのが得意だ。こういう寿司はかなり特殊なので、職人がたくさん働いている大きな店でも、なかなか握っていない。それで、いろいろな都道府県から、あたしの店にお客さんが来てくれる(ありがたいことだ)。お客さんたちは、日ごろは地元の店で寿司を食べている。あたしがお客さんに握るのは、自分でさばいた胸鰭を使って握った寿司だ。これに対し、お客さんたちがいつも召し上がっているのは、仕出し屋が作った真空パックの寿司である。同じ寿司といっても性質はまったく違う。

 とはいえ、あたしは彼らに寿司を握るにあたって、日ごろどういう寿司を食べているのかを確認しなくてはいけない。日ごろどういうものを食べているかによって、そのお客が求める味は異なるからね。

 そこで、近所の店から発行されている、かれら向きの「すしメニュー」を確認すると、ホントーに変化が少ない。1年や2年、同じメニューを使っていることなって言うのはザラであるし、ひどい場合には5年くらい全く同じなんてこともある。だからあたしとしては、毎月すし店へ行くことを義務化する必要があるのであろうか、とずっと前から思っていた。

 ただ断っておくが、あたしは開業職人という生き方を否定しているわけではない。都市部だと開業職人はだいたい9時5時の生活だが、地方の店だと本当に忙しくしている職人がたくさんいる。近くに大きな店がないから、寿司を食べたくなると、地域の住民がみんな、個人の店に来るんだね。確かに田舎だと人口は少ない。だが、寿司屋の数はそれ以上に少ない。それに過疎化の影響で高齢者が多い。高齢者の中には夜中に突然、「親方のすしを食べないと調子が悪い」といってやってくる人も多い。さらに言えば、そういう客には真空パックの寿司を食べさせるだけでは駄目な場合も多々ある。近隣の漁師さんにお願いして魚を手に入れた上、自分で魚をさばかなくてはいけないこともある。あたしは、こういう職人たちを心から尊敬している

 ただ仕事が大変なもんだから、地方の職人には成り手が少ない。それで、学費を免除する代わりに、へき地での勤務を10年くらい義務付ける、「自立すし学校」という学校が関東地方の北部にある。なにが「自立」なのかはさっぱりわからないんだが、すくなくともその学校の設立の精神については、あたしは深く共鳴するね。

 このように、地域住民のために命削って働いてる人たちが、「開業職人」の中にはたくさんいる。こういう職人たちはむしろ、「リフィルメニュー制度」の導入を歓迎しているのではないだろうか。業務が減るわけだから。

 あたしの観察するところによると、「リフィルメニュー制度」に反対している職人は、都市部に多い。すし職人に限らず、今の時代はみんな大都市に住みたがるよね。これは一種の現代病ではないかとあたしは思っているんだが、それについては、またあらためて話す。

 とにかく、すし職人たちが集中するものだから、東京や大阪には寿司屋が増えすぎてしまった。当然、一人当たりのパイは小さくなるわな。ちょっとした減収でも大きく響くことになる。それで、躍起になって新制度の導入に反対しているわけ。

 でもあたしは、いくら職人たちが反対しても「リフィルメニュー制度」は必ず定着すると思っている。それが時代の流れだからだ。

 さっき述べたように「日本すし会」は、前には「客の状態を月に1回は把握しないと、よいメニューは作れない」と言うことを、反対の論拠にしていた。

 ところがその根拠がなりたたないことが、コロナさわぎによってわかってしまった。

 そうすると「日本すし会」は、「すし職人の収入が減るから」と言い出した。

 あたしは、そのストレートさにびっくりした

「日本すし会」は主として、「内派」の開業職人によって構成されている。これにたいしてあたしは「外派」であり、かつ「勤務職人」だ。リャンハンついて彼らと異なっている。職務内容も俸給体系も大きくちがっているので、実際には彼らとは全く別の職種だ、と言っても良い

 だけど「すし職人」という点で、世間からはひとくくりにされている。だから、あたしとしても、なるべく彼らの肩は持ちたい。

 だとしてもだ。「自分たちの収入が減るから制度を変えないでくれ」というのは、言い訳として、はしたなさすぎる。根本的なところで勘違いをしている。

 そもそも「すし保険制度」は、貧富にかかわらず、国民に旨いすしを食べてもらおうという精神のもとに設立された。

 昭和や平成の初期には、たまたま財源が豊かだったから、結果的に職人たちは潤った。だが、それは偶然の結果なのであって、制度そのものの目的ではない。

 たとえばフランス革命の前には、貴族階級の人間たちは、非常にいい暮らしをしていた。でも革命によりほとんどが零落した。かれらも制度の変更に対してはずいぶん不満があったに違いない。ただ中世には王政が時代に合っていたから貴族が豊かになったのであり、彼らを豊かにするために王政というものが生まれたわけではない。原因と結果をはき違えてはいけない。それを「俺たちは今までのように良い暮らしがしたいから、制度を変えるな」なんて言ったって、歴史は嗤って踏みつぶしてゆく。それと同じだ。

 既得権を守ろうとしていくら抵抗したって、世の中の変化には逆らうことはできない。財務省(とその手下の厚労省)は「日本すし会」とせめぎあいをしながらも、「リフィルメニュー制度」を定着させててゆくだろう。また「リフィルメニュー制度」のみならず、いままですし職人たちを守っていたさまざまな規制は、ひとつひとつ外されてゆくに違いない

 あたしはすし学校で職人の卵たちを教えている。すし学生や、見習い職人たちにこういう話をすると、非常に嫌な顔をされる。これはまあ、当たり前のことだ。バラ色に思えている自分たちの将来に、水をさすようなものだからね。

 ただあたしは、「あんたらの将来は暗いよ」って言ってるわけではない。「崩れ行く既得権をあてにしていていいの?」と、若い彼らに問いかけているわけ

「メニュー作成料」が減るのであれば、その他のところで頑張ればいいじゃないか。たとえば包丁の腕を磨けば、誰が作っても1回あたりの報酬が決まっている「メニュー作成料」なんかどうなったって、生きていける。

 本音を言えば、みんなが心配しているのは、自分がどうなるかってことだろう? すし職人全体の生活ではないはずだ。だったら、「すし職人たち全員を守る制度」を守るためにエネルギーを使うよりも、自分の技を磨くことにエネルギーを使った方が、ずっと効率が良い。きわめて明快な理屈だ。

 だから、「今後、すし業界は大丈夫ですかね」なんて若手に聞かれたら、「そんな心配してる暇あったら、他人の持ってない技を磨けよ」ってあたしは答えている。あたし自身だって、どうすれば他の職人よりうまく寿司を握れるか、いつも考えている。

 おっと、今回も長くなっちまった。

 それではここいらで失礼する。包丁さばきのトレーニングをする時間になったんでね。また今度。

 

 

 

 

 

 

なんもない田舎街こそ、通のバカンスだぜ

こういう街がいいんだな

 お盆前の週末に、ふっと時間ができた。そこで足摺岬の周辺を、1泊でぶらっと旅行した。ぼくの住んでいる香川県から高知市までは、車で2時間だ。足摺までは高知市からさらに3時間くらいかかる。しかし運転が好きなので、まったく苦にならない。ぼくは高知県が大好きなのだが、特に夏が良い。南国の気分を満喫させてくれる。

 今回は「土佐佐賀」という地域を楽しむ結果となった

 「楽しむ結果となった」とは、ずいぶん変な言い方だと、みなさま思われることだろう。

 ふつう旅行に行く場合には、先ず目的地を決める。たとえば温泉に行くならば、どこそこの旅館に泊まって、どの料理を食べようなどと計画を立てる。

 ところがぼくのひとり旅に限っては、そういうことはしないのである。

 ぶらっと車で行って、なんとなく気に入った場所を一日中ほっつき歩くだけ

 だから車で通りかかって「おっ!ここ、なんかよさそうじゃん!」と思ったら、そこが旅行の目的地となるのである。

 「そんな旅行が楽しいの?」と、思われる方も多々おいでになるであろう。

 楽しいんだな。これが。

 それに、こういう旅行を重ねると人生観がすこし変わるのである。このことについてはあとで説明する。

 まずは、「土佐佐賀」の駅をご紹介する(図1)。

図1:これが「土佐佐賀」の駅だ!

 これが駅ですが、なにか問題でも?まあ、新宿駅ほどにぎやかではないですけどね。喉が渇いた人のために、自動販売機だってあるのである。もちろん無人なので、駅のホームに勝手に入ったって、入場料なんかとられないのである()。

図2:ホームの様子。当然、無人駅。

 無人駅とて電車は1時間に1本は出ているし、バスだって一日に3便もあるのである(図3)。ちなみにほとんどの電車の目的地は、「中村」というところに向かう。「中村」から東京まで行くのは非常に便利で、電車・飛行機の乗り継ぎが良ければ、たった7時間しかかからないのである。ロンドンなんかより、ずっと東京に近い

図3:交通至便なのである

 「土佐佐賀」の駅は、このように交通至便なところにある。また、都市計画を練りに練って建造したので、駅前でも絶対に渋滞なんか起こらないのである(4)。

 

 

 

図4:渋滞知らずの「駅前通り」

 また、人々の気持ちがおおらかなので、駅前に車を停めたって駐車料金なんか取られないのである。それをいいことにぼくは車を駅前において、この街をさすらい始める。

 駅の近くには立派なスーパーがある(5)。日常必要なものは、コンビニなんか行かなくたって全部、手に入る。

 

 

 

 

 

図5:街で一軒のスーパー。コンビニなんか無い!

 

 レストランは街に3軒あるのである(6)。やはりというか当然というか、カツオのたたきを売っている。おそらく夜になると漁師仲間や町の人たちが集まって来て、酒盛りをやるのだろう。いつか参加したいものだ。

 

図6:街の「中心地」にある居酒屋

 土佐佐賀の駅からここまでは、だいたい15分くらい歩いて来た。建物と建物の間には、田んぼが広がっている(7)。真夏日で気温は35度くらいあるのだが、田んぼに貯まっている水のせいか、歩いてもそんなに暑くない。不思議である。

 

図7:田んぼの中に家が点在している

 

 もちろん住宅街もある(図8。一軒一軒の家に庭があり、壁や瓦に凝った造りをしている。土地が安いから建物にお金をかけられると言ってしまえばそれまでだが、都会にはないタイプの風格がある。京都だとか東京の街も、戦前はこんな感じだったのではないだろうか。

図8:住宅街の通り

 商売柄、病院や医院もチェックする(9)。おそらく近隣の中規模病院の医師が、週に何回か診察に来るのであろう。「夏だけ2週間ぐらい働いてもいいな」など、勝手なことを考える。

図9:街の診療所

 さらに10分くらい歩くと、漁港につく(10)。ぼくのルーツは大分県で、漁民の子孫である。そのせいか船が大好きで、何時間見ていても飽きない(11)。そして船のサイズを見れば、その用途がだいたい推測できる。図11くらいの船は少し小さいので、外海に行くのは心細い。おそらくは、港の近辺で養殖している、カンパチだの鯛だのに餌をやるための船なのであろう。

図10:漁港につく

 

図11:たくさんの船が繋留されている

 ここまで読まれて来て、みなさま「あんたの行きはるとこ全部、ふつうのものばっかりやんか!なんか面白いものあらへんの?(なぜか関西弁)」と思われることだろう。

 だから最初に言うたやないですか。「一日中、ほっつき歩くだけ」って

 でも「こういう旅行をすると、人生観がすこし変わる」とも書いた。

 その話に移る。

 まず、皆さまにお尋ねしたい。

 人は人生の終期を迎える場所を、自由に選ぶことができるだろうか?

 たいていの人は「できる」と思っているのではないだろうか。「生まれてくる場所は自分で選べない。でも死ぬ場所は当然、自分で選べるだろ?」みんな、そう思っているのではないだろうか。

 でも、はたして本当にそうだろうか?

 多くの人は、生まれ育った場所、つまり故郷で晩年をむかえたいと思っている。

 「俺は浅草で生まれた。高校や大学も東京で過ごした。だから死ぬときは、当然、故郷である浅草で死にたい。」

 「私は博多で生まれた。就職は大阪でしたけれど、やっぱり齢をとったら、幼馴染のたくさんいる博多で過ごしたい。」

 そう思っている人が大部分だろう。

 しかし現実は、望みどおりになるとは限らない

 たとえばぼくの友人に、内科の先生がいる。彼は都内で長く勤務医をされていたのだが、先ごろ65歳になられて、勤続していた病院を定年退職された。

 彼は余生をおくるのに十分な蓄えはあるが、医者の仕事はやめたくなかった。働くのを止めてしまうと、老け込む可能性がある。それが怖いのである。

 とはいえ、医者であふれかえっている東京で、働き口は見つからない。だから思い切って、九州のある県に移住してしまった。移り住んでまだ日が浅いのだが、自然の豊かな場所で、楽しく暮らしている。

 結果としてハッピーになったから良いのではあるが、数年前にはその生活を予期していなかったことも事実ではある。

 このように、諸般の事情により、住み慣れた場所を齢とって離れる場合はありうるのである。そして、ひとつの場所(多くの人にとって、それは”故郷”であろう)に対する執着を捨ててしまえば、よりポジティブに残りの人生を過ごせることだってあるのだ。

 幼馴染や昔の同級生は、それは大切だろう。彼ら彼女らと一緒に会うことは楽しいだろう。でも齢をとってからだって、昔の仲間と同じくらい親しい友人を、作れるんじゃないだろうか?

 そういう意味で、人はひとつの場所に縛られる必要はないと、ぼくは思っている。これは、ぼくの歩んできた道にも関係があるかもしれない。ぼくは山口で出生し、東京で修学し、医者になってからは10年くらい、修行で全国各地を転々とした。その後東京に戻ってまた10年くらい働いたものの、40代の後半になって、縁もゆかりもない香川にやって来た。そしてそこに根を下ろして、今年(2022年)でもう8年になる。中国大陸にルーツを持つけれど、東南アジアや新大陸に渡って根を下ろした華僑みたいなものである。

 いろいろな場所を移り住んだものだから、もはや「故郷」への執着心は希薄になっている。「晩年を送るなら、ここじゃなきゃ嫌」みたいな、特定の土地に対するこだわりはない。

 ただ、いくらぼくとて、どこで死んでもいいというわけではない。人と人との間に相性があるように、人と土地にも相性はあるのだ。

 そこで「ここで死ぬことになったとしても、まあ仕方ないな」と、考えているエリアを、ひそかに選定しているのである。ぼくはこのエリアを野垂れ死にOKエリア」と呼んでいる。自分はけっこうやりたいことをやって生きているので、いつかどこかで野垂れ死ぬかもしれない。そうなっても後悔はしない土地はどこか、熟考の上、決めているのである。

 12は、2014年の段階におけるワタクシの「野垂れ死にOKエリア」である。北九州や下関、東京近郊、伊豆などが示されている。北九州ならびに下関は自分の幼少時の思い出の地だ。東京は小児期ならびに学生時代を過ごした、実質的な故郷である。そして伊豆や箱根あたりは、なんとなく好きである。大阪も、理由はわからないが好きである。たぶん住民の気質が自分の性格に合うからだと思う。

 ささやかなわがままを言わせてもらうと、海のない場所で死ぬのは嫌だ。ぼくのルーツは大分県の漁民であるので、これはもう仕方ない。遺伝子に刷り込まれている好き嫌いは変えようがない。山や高原がお好きな方には失礼だが、ぼくは内陸部で死ぬのはカンベン願いたい。

図12: 2014年における「野垂れ死にOKエリア」

 13に示したのは2022年における野垂れ死にOKエリア」である。図12と比べると、瀬戸内海の周辺に、非常に大きなエリアが形成されたのがおわかりだと思う。このエリアの拡大こそ、今回のような、なんもない田舎町をほっつき歩く旅行の成果なのである。

図13:2022年における「野垂れ死にOKエリア」

 「ほっつき歩き旅行」は温泉にも入らないし、ロープウェイにも乗らない。高級なレストランにも行かない。地元の人が行くような場末の飲み屋に行く。

 だからこそ、その土地で暮らしたらどうなるかイメージできる。「もしもここで暮らすことになったら、どういう感じか」がわかってくるのである。

 人々は、長く住んだ土地をなかなか離れられない。それは、その土地を愛するからだと、みんな思っている。だが、知らない土地で暮らすことへの不安も、実際には大きな理由のはずだ。人は未知のものが怖いのである。

 ぼくとて、東京から香川に移り住んだばかりの頃には、よもや「まあ四国で死んでもいいや」と思うようになるとは予想だにしていなかった。しかし香川に来て日々を過ごすうちに、やはりその土地になじんできた。

 さらに、車で高知や愛媛に行ってぶらぶらする回数を重ねるうちに、それらの土地の良さも解ってきた。それで「ここならずっと住めるじゃん(東京弁)」と考えるようになったのである。

 不思議なことに、こうした野垂れ死にOKエリア」の拡大とともに、気持ちにゆとりが生じて来た

 入試に例えると、この気持ちがよく解ってもらえると思う。「ここの学校じゃなきゃダメ!」などと思っていると、受験にかなりプレッシャーがかかる。緊張しすぎて、かえってミスをしたりする。しかし第2希望や第3希望でもいいやと思っていると、肩の力が抜けてのびのびやれるものだ。

 それと同じだ。ひとつの場所に固執するより、ここで死んでも別にいいやと思っている候補地がたくさんある方が、人生の先行きについて気持ちが明るくなる

 だからワタクシとしてはですね、皆さんにも「野垂れ死にOKエリア」の拡大をお勧めするわけです(ここら辺の論理展開、ほんの少しだけ強引だな)。

 そのためには、高級旅館なんか泊まっちゃダメですよ。だってそれは、その土地での「日常」ではないのだから。車だけでぶらっと廻るのもダメですよ。警察の聞き込み捜査なんかと同じで、自分の足で情報を集めないと、身につきません。

 こういうわけで、なんもない田舎町をただぶらつくことの大切さが、わかっていただけたと思う。わかっていただけなくても先に進む

 

 土佐佐賀の港の近くには、やはりというか当然というか、カツオのたたきの製造工場がある(14)。高知に来ると、ほとんどすべての居酒屋にカツオのたたきが食べられる。こういう工場があるからこそ潤沢に供給ができるのであろう。道草を食いながら歩いて、ここまで駅から30分くらいである。

 

図14:カツオ工場。街の”基幹産業”である。

 さらに5分くらい歩くと浜辺につく(15)。8月第1週の週末で、しかも快晴だというのに、ほとんど海水浴客がいない。気温が高すぎるので(35度くらいあった)熱射病を怖れているのか、あるいは子供が少ないためか。

図15:漁港の隣の浜辺。夏なのに人がほとんどいない。

 「遊泳危険」の看板がある(16)。要するに、「勝手に泳いで溺れる奴は自己責任やきね(高知弁)」ということだ。「遊泳禁止」ではないところがミソである。ここら辺のおおらかさが南国気質である。

図16:「自己責任」で泳ぎなさい!死んでも知らんき!

 土佐の人は酒好きなことで有名だ。他人の家に遊びに行くとお茶ではなくて酒が出て来る、などという地域もあると聞く。もしぼくがこの街で暮らすことになったとしたら、しばしば仲間と酒盛りするに違いない。酒を飲んで泳がないように、気をつけよう。たこ八郎さんの冥福を祈る

 浜辺を見終わり、ふたたび駅に向かう道すがら、巨大な建造物が現れた(17)。これは津波が起きた時の避難施設である。中に入ってみたが、きわめて堅牢である。これがあれば、たとえ津波が起きたとしても、みな命を落とすことはあるまい。そう考えると、なんとなく嬉しくなる。

図17:津波の際の避難施設

  土佐佐賀の駅まで戻ったあと、停めておいた車に乗る。20分くらい運転して、宿毛(すくも)という街につく。宿毛高知県西部の中核都市である。しかし東京や大阪の人はまず知るまい。宿毛もやはり、「なんもない」田舎町である。まずは、本日のねぐらの安ホ…ではなく、堅実な感じのホテルに到着(18)。オッサンの一人旅にはうってつけである。

 

図18:「質実剛健」なホテル

 街並がすばらしい。平成をぶっ飛びこえて、もはや昭和である昭和どころか戦前でも通りそうな勢いである(図19NHKの朝ドラで、ときどき戦前を舞台にしたものがあるが、ここで撮影すればあらためてセットなんかいらないのではないか。図20の「まこと食堂」なんか実にいい。非常に落ち着いた街並みである。ここいらがわかるのが「通」なのである

図19:昭和の街並

 

図20:昭和30年代と見まがうばかりだ

 夕食の時間になったので、目をつけておいた店に入る。夏の夕暮れは良いものだ。一日中、炎天下を歩き回っていたのではやくビールが飲みたい。看板が光り輝いて見える(図21)。

 

図21:街の飲み屋。看板が輝いている。

 カツオのたたきを当然、注文する(図22)。この辺りはキビナゴという魚が名物だ。海のワカサギみたいな魚なのであるが、それも頼む(図23)。

図22:カツオのたたき

図23:ご当地名物、キビナゴの塩焼き

 以上ワタクシの、ある夏の週末のご紹介でした。ふつうの方々の夏休みはおそらく、露天風呂だとか、眺望の良い部屋だとか、テーマパークだとか、三ツ星シェフの作ったご馳走だとか、そういうものを楽しまれると思う。

 ところが、ワタクシの旅行には、そういうものは一切出てこない

 露天風呂なんかなくても、炎天下歩き回ってシャワーを浴びるのは(それが安ホテルだとしても)かなり気持ちいい。

 眺望の良い部屋なんか必要ない。酒飲んだらすぐに寝るから。

 テーパパークなんか行かなくたって、港で海を見ていると楽しい。

 三ツ星シェフのご馳走は食べないが、その代わりにニンニクまみれのカツオのたたきを食べる。

 こういうふうにですね、限りなく「日常」に近い楽しみを求めることが、「通」の旅行なのですよ

 そういう旅行こそ、私たちの「野垂れ死にOKエリア」を拡大し、人生に余裕を与えてくれるのです。

 わかりましたか?

 わかりましたね!

 

 

 

 

 

世の中に「オバちゃん」は必要だ

  ぼくは香川県を本拠地にしているのだが、ときどき東京や大阪にも手術に行く。何か前か、神奈川の病院に手術をやりに行った。患者さんは小学生であった。

 手術はうまく行った。手術の翌日にも念のために患者さんを診察に行ったのだが、さしたる問題は見られなかった。そこで安心して新幹線に乗った。

 新幹線が大阪に着いた時、突然、ぼくの携帯に連絡が入った。

 電話の主は、手術の時に助手についてくれた若い医師であった。彼はぼくの卒業した大学の後輩だ。ぼくは患者さんの管理を彼に頼んでおり、なにかあったらすぐに連絡をするように言ってあった。

 「患者さんが大変なんです」という。

 こういう電話は非常に嫌なものだ。しかし現実から目をそらしてはいけない。

 ぼくは尋ねた。

「大変というのは、具体的に何が起こったの?」

 後輩は答えた。

「レントゲン写真を見ている時、小児科の先生がたまたま通りかかったんです。そして『緊急手術の適応だ』って言うのです。」

 ぼくは後輩に、レントゲン写真を撮影して、ぼくの携帯に送るように指示した。

 送られてきたレントゲンを見ると、なんの問題もない。

 ぼくはふたたび電話をかけて、その小児科の先生が、どのような理由で「再手術」と言ったのかを確かめた。

 すると後輩は「胸郭の中に空気があるからです」と言う。

 ぼくは体の力が一気に抜ける気がした。

 その患者さんに対しては、「あばら」の形を整える手術を行った。手術を行う際には、肺を傷つけないように、いったん肺を縮ませる。だから、肺と「あばら」の間に空気が残るのは当たり前のことなのだ。

 ただ、その小児科の先生が、緊急手術が必要と言ったのも、無理はないと思った。小児科は内科系の分野だから、手術後の患者さんを診る機会はほとんどない。手術を受けていない患者さんの胸郭に空気が入るとしたら、可能性は一つしかない。肺の一部が破れて、中の空気が外に漏れだしている場合だ。この状態は気胸と言って、たしかに手術の適応になりうる、小児科の先生は、そのように考えたのであろうということが、ぼくには手に取るようにわかった。

 ぼくはそのことを後輩に伝え、落ち着いて経過を見るように話した。そして案の定、何事も起こりはしなかった。

 ただし携帯に連絡が入ったときには、ぼくの心の平和は少なからず乱された。だから記念に、この件を「新幹線大阪事件」と名付けさせていただいた

 それにしても、後輩の焦りぶりは尋常ではなかった。だから、その小児科の先生が彼にどのような言い方をしたのかに、ぼくは興味を抱いた。そこで、ほとぼりが冷めたころ、その点について尋ねてみた。

 後輩曰く、その小児科の先生は、子供の呼吸器に病気については権威(自称)だそうだ。そこで肺炎を中心とする呼吸器疾患のおそろしさを、彼に微に入り際にわたり、後輩にじっくりと講義したらしい。経験の少ない研修医にとっては、恐れおののくのも無理はない。そこで、ぼくに電話をかけてきたわけだ。

 おそらくその小児科の先生は、純粋に親切心から、アドバイスをしてくれたのであろう。考えようによってはありがたいことだ

 いったいその小児科の先生はどういう人なのだろう?ぼくは興味を持った。小児科は形成外科とは接点がそれほどない。だが、その病院にはぼくと同じ大学を卒業した医師が数多く勤務しているので、もしかしたらその先生の事を知っているかもしれない。そこで後輩に、その小児科の先生の名前を尋ねてみた。

 その名前を聞いて、ぼくは思わず爆笑した

 彼はぼくの知っている先生だった。のみならず彼とは、25年ほど前(彼はぼくとほぼ同年配である)にまったく似たような関わり方をしている。

 ぼくはそのころはまだ若かったので、先輩の手術した患者さんの管理を任されていた。夕方まで患者さんの様子を見てから帰ったのだが、夜に突然、看護師さんから電話があった。患者さんの状態が「急変」したというのだ。

 ぼくは押っ取り刀で病院に駆け付けた。ところが、患者さんの容態は異常には見えない。

 そこで担当の看護師さんに詳細を尋ねたところ、血圧が下がったからコールしたとのことであった。たしかに、ぼくが帰る前に比べると血圧は少し下がっている。

 だがそれくらいの変動はよくあることだ。そこでぼくは看護師さんに言った。

 「これぐらい、血圧が下がることは、よくあることだと思うけど」

 「私もそう思うんですけど、T先生(例の小児科の先生)が緊急事態だと」

 「???」

 そこへやおら、T先生が顔を出した。

 そして、小児の血圧管理には細心の注意が必要であることを、ぼくに対して講義し始めた。小さな血圧低下を見落としたがために、重篤な結果を招いた例を交えながら。

 ぼくはその頃はまだ20代で、自分の知らないことがたくさんあることに打ちのめされる日々を送っていた。だから、T先生の説教じみた「講義」もありがたく拝聴しておいた。T先生とぼくとは同年配ではあるが、なにしろ向こうは小児科だ。小児の管理についてはぼくよりかなり詳しいことは事実だと思ったからだ。

 とはいうものの、「なんで俺が説教されるの?」という違和感はあった。

 血圧の低下を見落として事故になった例はあるかもしれない。ただし、ぼくが目の前で管理している患者さんについていえば、血圧が低下したと言っても、それほど大きく下がっているわけではない。言ってみれば、電車にこれから乗ろうとしている時に、「電車に乗ると大事故が起こることもあるよ」と説教されたようなものだ。

 ただT先生は、彼なりの親切心でやってくれているようだ。だからぼくは、彼の長い長い説教を、じっと辛抱して最後まで、おとなしく拝聴した。

 このように、小児科のT先生の巻き起こした騒ぎに、ぼくは2回も巻き込まれている。

 特に2回目の「新大阪新幹線事件」のプレッシャーは大きかった。

 人間はひやりとする目に合うと、「寿命が縮んだ」という。心拍の増加と精神の緊張が、体力を疲弊させるためである。「新大阪新幹線事件」によって、ぼくの寿命は少なくとも3日くらいは短くなったと思う。

 でもT先生に対して、「相変わらず困った奴だな」という苦笑いの心境であっても、彼のことを怒ったりする気にはなれない。たとえそれが結果的に間違いであったとしても、その人なりの情熱で動いているのであり、根底にあるのが私利私欲ではないからだ。ギャグマンガの主人公にそういうタイプが多いバカボンのパパなどがその典型で、自分の思い込みが強くて他人を引っ張り込むタイプである。小林よしのりのマンガの主人公も、そういうタイプが多い。

 と書くと、ぼくの友人など「お前もそうだよ」と言うと思う。ご心配なく、ちゃんと自覚していますから。ぼくも思い込みは強い方で、とくに「あばら」の形を整える手術については、かなりうるさい。学会などで、他の医師がいい加減な手術をしているのを見たりすると、けっこう歯に衣着せずに批判してしまう。だから、ぼくをギャグマンガにするのは簡単だと思う。

 開き直って言わせてもらうと、T先生やぼくのように、思い込みが強くて他人の領域に遠慮なく入り込んでくるタイプというのは、医療を行う上では必要なのである。

 医者にはいろいろ専門がある。たとえば子供は小児科、骨を治療するのは整形外科、というように。しかし人間の体と言うものは、非常に複雑にできている。人為的に決めた区切りの中に納まらない病気など、山ほどある。

 たとえば早老症という病気がある。細胞の老化が異常に早く進行する病気で、当然、寿命も短い。この病気の場合、年齢的には10代なのに、身体は通常の人の70歳に相当するようなことが起こりうる。

 そうした患者さんが転んで骨折した場合、どうするか。

 年齢的には小児でも、実際の体は老人である。だから小児科の知識だけしか持っていない医師は、自分だけでその患者さんを診ることはできない。ましてや、骨折の治療などはできない。かといって、骨折の治療はお手の物である整形外科医も、独りで治療を進めるとなると、二の足を踏むであろう。体質そのものが違うので、常識が通用しないからだ。

 だからまともにこういう状況に対応しようと思ったら、「俺はこれが専門だから、そのほかのことはやらない」などと言ってはいられない。わからないながらも、他人の領域に踏み込んでいく、「おせっかい」な人間も必要である。

 それがゆえに、ぼくはT先生のような人間が、嫌いでないのである。類は友を呼ぶのである。

 ところが最近、役人が「働き方改革」などという、おかしなものを進め始めた。

 「働き方改革」では、医師の労働をマニュアル化して、一定の労働時間を定める。そして、その時間以上は働くな、と言う。つまり、自分の仕事をここからここまでと定めて、あとは手を出しなさんな、と言うことである。

 それで物事がうまく回って行けばよいのだが、そう甘くはない。

 「働き方改革」の最大の問題点は、想定外の事態を考慮していないことにある。

 真面目に医療をやっていると、思いもよらない事態と言うのが、どうしても起こってしまうのだ

 たとえばいくら手術を完璧にやったつもりでも、患者があとで、急に痙攣をおこしたりすることがある。また、状態が安定しているなと思っていても、急にアレルギーを起こす、なんてことが時々起こってしまう。

 こういう時に「痙攣はおれの専門ではない」とか「アレルギーは皮膚科の仕事でしょ」などと言っても、らちが開かない。問題なのは目の前の問題をどうするか、ということなのだ。

 「働きかた改革」の成果がうまく出て、その患者を手術した医師が家に帰ってしまっていないような場合には、どうするか。こういうときこそT先生のように、他人事にも首を突っ込んでくる人間が必要なのである。

 昭和の時代には下町に長屋があって、町内を仕切っている「オバちゃん」がいた。

自分の家でつくったお惣菜なんかを人の家に持ってくる。近所に夜遅くまで酒を呑んでいる人がいると、「あんた、飲み過ぎは駄目だよ」と諭す。高校生なんかがたむろして煙草を吸っていたりすると、物おじなど少しもせずに注意する。

 こういうオバちゃんいたからこそ、塀もなくて壁も薄い長屋に住んでいても、泥棒や強盗などが起こらず、治安はそれほどわるくなかったのだ。

 世の中は、一人一人の人間で成り立っていることは確かである。そして、その一人一人が担っている任務がある。

 「働きかた改革」の根底にある発想は、一人一人の人間が自分の任務を果たしていれば、全体もうまく廻っていくでしょう、と言う事である。

 ところがこれは、まったく間違っている

 それぞれの人間の任務は完全に独立しているのではなく、相互に連関し合っているからだ。特に医療では。

 そのことを無視して仕事を定義するのは、「柱」だけ使って家を建てるようなものだ。柱同志を横に連結する「梁」がないと、家などすぐに倒壊してしまう。

 仕事もこれと同じで、個々の人間の任務を横に結び付ける役割が必要なわけですね。それが、「オバちゃん」と言うわけです。

 T先生は病院の中でこういう、オバちゃん的な存在なわけですね。ぼくも自分の専門のなかでは、オバちゃん的な存在なわけですよ。

 だからぼくは君とは案外、気が合うかもね。T先生。今度いっしょに飲みに行こう、と言いたいところだが、お手柔らかに。また寿命を短くしたくないので(笑)。

 

 

 

 

 

 

すし学校における「働き方改革」―せとうち寿司シリーズ8

カストリ焼酎って、なんか、美味しそうですよね

 

 ここ数年、「働き方改革」が世の中で議論されているね。いわく「日本人は働きすぎで人生を楽しめていない。だから仕事をする時間を減らして、趣味の時間や家族と一緒にいる時間を増やしましょう」というわけ。

 あたしが受けた昭和の教育では、日本は「加工貿易」の国ということになっていた。日本には石油や鉱物の天然資源がないし、耕地も狭い。資源と言えば、人間の労働力だけだ。だから国民が一所懸命に働くしか、日本が豊かになる道はないと。

 そうやって働いて、たしかに20世紀の終わりごろには、日本人は昔に比べるとずっと豊かになった。 

 だけど21世紀が始まって20年ほど経った今、日本は再びどんどんビンボーになっている。海外に旅行にゆくと、このことがよく解る。ちょっと前までは安いなと思っていた外国の物価が、日本よりもずっと高くなっている。これは日本円の実力、すなわち日本という国の経済力が、どんどん低くなっているからにほかならない。

 貧しくなっているのだから、頑張って働いて、また豊かになろうとするのが普通の考えじゃないか?「これからもうひと踏ん張りしよう」と思うのが自然じゃないの?なぜ貧乏になっているのに、働く時間を無理矢理減らすのだろうか。

「最近、成績が下がっているから、もうちょっと勉強時間をへらそう」と言っているのと同じで、「働きかた改革」を本気で信じてるやつらがいたとしたら、すこし頭がおかしいんじゃないかとあたしは思うね。

 結局のところ、雇う側が労働者に賃金を払いたくない、そういうことだろう?企業は硬直化した体制のために外国企業との競争に負けて、収益がどんどん下がっている。そのために税収も減っているから、国もお金がない。だから、社員や公務員の賃金を引き下げたいのはわかる。ならば、「うちの会社(国)は経営が厳しくなっているから、申し訳ないが残業代は出せない。しばらく辛抱してくれ」とはっきり言えばいい。そう正直に言った方が、「まあ今は苦しいけども、会社なり国のために頑張って働こう」と、みんな思うんじゃないだろうか。それが日本の文化だったはずだ。

 それを、「お前ら労働者は働いてばっかりいて、生活の楽しみ方を知らない。お上が働く時間の上限を決めてやるから、せいぜい人生を楽しめや」みたいな、上から目線のやり方で物事を進めるところが、あたしには気に食わないんだ

 でもまあ、それはみんな思っていることだと思うし、いまさら繰り返しても仕方がない。それより今回は、コクリツの「すし学校」で起こっている「働き方改革」のアホさ加減を紹介するので、まあ笑ってやってくださいよ

 コクリツのすし学校では、職人たちの残業代をなるべく抑えようとする試みが、何年も前から少しずつ進められてきた。

 すし学校における職人たちの、基本的な勤務時間は8時半から17時半までだ。ところが、現実的には、こんなもの全く意味をなさない。なぜかというと、緊急で働かなくてはいけないことや、所定の勤務時間内でとうてい終わらせることのできない仕事が、しょっちゅう舞い込むからだ。

 これは、「すし学校」のあり方に直接関係する。「すし学校(特にコクリツのすし学校)」には、すし職人を教育すること以外に、日本のすし文化を発展させることが期待されている。つまり、すし学校の職人たちは、こと寿司に関する事ならば、すべからく国民のみなさまの期待に応える義務を負っている。このために緊急の仕事が多いんだ。

 たとえば、漁師さんが漁に出て、非常に珍しい魚を獲ったとするね。そうすると、その魚を「寿司にしてください」って言って、すし学校に持ってくる。滅多に獲れない魚を素材にして、新しい寿司を開発し、日本のすし文化の程度を引き上げてくれというわけ。

 離島や山奥でとれた魚などは、時としてヘリで運ばれてくる。そうまでして送られてきた魚であるから、あだやおろそかに扱うわけにはいかない。もたもたしていると魚の鮮度が落ちてしまうから、ヘリが到着したらすぐに調理にかかれるように、周到な準備をしなくてはいけない。

 魚によっては調理に特殊な器具が必要な場合がある。たとえば、甲羅がすごく硬い蟹だったりすると、非常に強い鋼の包丁が無くては調理ができない。逆に、肉質がきわめて脆い魚であれば、カミソリのように鋭い包丁がないと、細胞をおしつぶしてしまう。こういう器具の手配を大至急、行わなくてはいけない。

 こういう準備をしているだけで2~3時間はあっという間に吹き飛ぶから、17時半の終業時間なんて当たり前のように過ぎてしまう。というより、そもそも魚が獲れる時間が、深夜だったり早朝だったりすることも多い。それから準備を始めると、「時間外に働き始めて、時間外に働き終わる」ということになる。

 このように、「すし学校」にたいして国民が期待する役割から考えると、すし学校において「働き方改革」を行うのは、もともとかなりの無理がある。それでもすし学校を監督する役所(文科省厚労省)は、何とかして職人たちの勤務時間を減らそうとしてゴリ押しを進めてきた。

 最初に導入したのは、月並みながらタイムカードだった。出勤したらカードを押して、退勤するときにも推すという規則を作った。

 役所側はおそらく、「タイムカードを押して(あたしら労働者が)出退勤の時間を意識するようになれば、もう少し早く帰るようになるだろう」と考えたのだろう。

 ところが笑ってしまうことに、せとうち寿司学校では、かえって職人たちに支払う残業代が増えてしまったんだ。

 タイムカードが導入される前は、時間外勤務は自己申告制だった。紙媒体のシートが毎月、配布されてきて、超勤をした日と時間をマス目に書き込むことになっていた。

 ところが、すし職人たちは時間外で働いても、必ずしもそれを申告していなかったんだ。単純に申告するのを忘れたり、申告するのが面倒くさかったりしたんだろう。こういうところは、地方のコクリツすし学校のすごくいいところだと、あたしは思う。おおらかな人間が多いんだね。東京なんかでは考えられない。

 でもタイムカードを押すのが義務化されると、面倒だからといってカードを押さないでいると「欠勤」ということになってしまう。それでは無精者たちもさすがに困る。だから几帳面に出退勤を報告するようになった。その結果、いままでは報告していなかった超勤も網にかかることになって、すし学校側が支払う手当の総額が増えてしまったのだ。

 給料を下げてやろうと思って取り入れた制度が裏目にでたのは、かなり笑えるギャグだよな。すし学校の事務方にとっては赤っ恥もいいところだ。おそらく、上(役所)から言われてこんなことをやったんだろうが、かなり𠮟られたに違いない。

 ここまで不細工な結果に終わったんだから、ほどほどで手を引いときゃいいものだ。

 でも、一向にめげることなくアホな手管を使ってくる。次なるアホな規制として、「客との接触時間」などというものを言い始めた。すし職人の究極の業務は、客のために寿司を握ることだ。だから「客と接している時間に限っては、時間外勤務を認める」などと、わけのわからないことを言うんだ。

 でも、どこからどこまでを「客と接している時間」とするかは、はっきりと区切りようがつけようがない。たとえば、遠くから来てくれるお客さんと、電話とかメールで連絡をとらなくてはいけないことが、しばしばある。あたしは魚の胸鰭のあたりを調理するのがすごく好きで、その分野にかけてはかなり努力をして新しい調理法を開発してきた。だから四国みたいな片田舎にいたって、大阪や東京から沢山のお客さんが、あたしの握った寿司を食べに来てくれる。

 本当に職人冥利に尽きると、あたしはとても感謝している。

 ところが、昨今のコロナ騒ぎの際には、かなり大変な目にあった。膨大なエネルギーをお客さんとの連絡に費やさなくてはいけなくなったんだ。

 去年(2021年の夏ごろ)のことだ。大阪や東京で連日何千人も感染者が出ていたとき、せとうち県ではせいぜい100人くらいしか感染者が出ていなかった。

 だから、せとうち県では、せとうちすし学校に命令して「感染対策委員会」なるものを作らせて、「しばらく、東京や大阪からのお客さんを受け入れるな」と言ってきた。

 あたしは、とんでもないと憤慨した

 あたしのお客さんの2割くらいはせとうち県の人間だが、8割は関西や九州、関東の人間だ。これらのお客さんは、あたしの握る鮨を食べに来るために、何か月も前から予約を入れてくれている。飛行機の切符を買ったり、ホテルの予約を済ませたりしてもいる。仕事を休む段取りも済ませている。

 それを、自分の県を護るためだけに、追い返せという。

 これでは漂着してきた外国船を冷たく追い返す、鎖国時代の意識レベルと、なんら変わりはないではないか

 あたしは心底情けなくなった。こういう時こそ頭を絞って、無理してでも他の県からのお客さんを歓迎するべきなんじゃないのか?それなのにせとうち藩は、キリシタンバテレンを追い返せという。

 あたしは何度も県の役人に説明に行ったのだが、聞く耳なんか持ちやしない。

 あたし一人がいくらお客さんを歓迎しようと思ったって、県が店にお客さんを入れることを禁止するんだから、どうしようもない。

 あたしとしては、毎日、感染状況をこまめにチェックしながら、なるべく早く振り替えの手続きをとるほか、方法はなかった。

 たとえば大阪や東京の店に自分が出張して、そこでお客さんに寿司を握るなどして、お客さんになるべく迷惑のかからないように努力した。このやりくりが、すごく大変だった。

 まず、一人一人のお客さんに電話して、いつなら都合がつくのかをお聞きする。そのうえで大阪がいいのか東京が良いのかをお尋ねする。お客さん側の都合がついたら、出張する店に連絡する。そして、何月何日にお宅の店の板場を貸してくれませんか、とお願いする(とくにナニワ寿司学校の職人方には、大変お世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます)。

 こういう連絡をするのに多大な時間と労力が費やされた。この時間は、だれがどう考えたって「客と接する時間」だよな。文句がある奴がいたら、表に出ろ。

 だからあたしは、この時間分についての残業代を請求した。ただしこそこそするのは嫌なので、経理部に行って事情を説明した。経理はあたしの言い分を認めはしたが、「本当は、実際にお客さんと接して、寿司を握っている時間だけが超勤ですよ」などと恩着せがましいことを言った。

 この理屈が通るとするとだね。

 警察官は、泥棒を逮捕している瞬間しか働いていないことになるよな。

 裁判官は、判決を言い渡している瞬間しか働いていないはずだ。

 相撲取りは、取り組みの数分間しか働いていない。

 北朝鮮のおばちゃんアナウンサーは、「偉大なる首領様、マンセー」と言って万歳している時しか働いていない。

 ゴルゴ13は、ライフルの引き金を引いている時しか働いていないはずだ。月労時間は3秒くらいじゃないか。まったく、怒って狙撃されるぞっての。

 

 そういうことを担当の職員に言ってやろうとも思った。だけど彼だって上に言われてやっている訳だから、いじめても仕方ない。あほらしいので、やめておいた。

 そもそも「働き方改革」は、考え方の根本が間違っているんじゃないかと思うね。

 「超勤時間を年間1000時間以内に抑えなさい」とか、「あれをやっている時は超勤と認める、これをやっている時は認めない」とかいうやり方は、働くってことを西欧的な視点からとらえている

 よく知られたことだが、”labor”という言葉はもともと「苦行」という意味だよね。つまり、労働者が苦行の時間を資本家に提供して、その代償として賃金を得る、という考え方だ。

 あたしはこういう考え方は、わが国には合わないと思う。

 日本は極めて自然災害の多い国だ。過去における世界の大地震の、実に20%が日本で起こっている。台風も極めて多い。それなのに日本人は、環境の安定を前提とする、農耕をなりわいとして、何千年も生きてきた。

 米や麦を作っていてだね、たとえば台風が来て河が氾濫しそうになったとする。そういう時に「おれは今日オフだから、家でじっとしているよ」なんてことを言う奴、いる訳がない。自分の田んぼが大切だからね。

 こういうふうに、日本人にとって仕事とは伝統的に「単純に、やらなきゃいけないこと」なんだ。それに対して「働き方改革」では、仕事を「時間の切り売り」と定義している。この考え方が間違っていると、あたしは言いたいわけさ。

  じゃあ今後、日本人はどう生きてゆけばよいんだろうか?

 あたしは、終戦直後の日本人の生き方が、お手本になるんじゃないかと思う

 日本がビンボーになっていると言っても、それはバブルの時代を基準にした話だ。高度経済成長の前には、日本はもともとかなり貧しかった。海外旅行なんて一生に一度も行けない人間がほとんどだった。

 だから、今の状況は、単にもとの状態に戻っているわけだね。

 終戦直後に比べれば、肉だの魚だの食えるようになっているだけ、まだ幸せだ。

 あたしの亡くなった親父は戦争が終わったころ20代の前半だったんだが、そのころのことをよく話してくれたものだ。たとえば、食べ物がなかったから、小麦の「フスマ」を食べていたそうだ。フスマというのは小麦の表皮部分で、いわゆる「ぬか」だね。英語でいうと「ブラン」だ。ブランパンとか、ブランケーキとか、最近、よく聞くだろう?フスマは糖質が少なくて満腹感が得られるから、健康食品として着目されている。

 終戦後への回帰は、健康面から見ても望ましいわけだね。〇クドナルドのハンバーガーを食うのを止めてフスマ粉のパンを食べるようになればだね、成人病はだいぶん減るんじゃないかね、ハハハ。

 とにかく、「ぬか」を食ったって生きていけること、つまり日本人はビンボーに耐えうる遺伝子を持っていることを、われわれの先輩方は示してくれたわけだ。われわれだっていざとなりゃ、そういう生き方ができるはずだ。

 働き方についても伝統的なやり方に回帰して、「やるべきことができるまで働く」というのがいいんじゃないかと、あたしは思う。といっても、こういう考えが若い人に合わないのはわかっている。だから他の人に自分の考えを強要するつもりは、まったくない。

 ただ、あたし自身は「働き方改革」なんか関係なく、いままで通りに働く。たとえば来週、東京からお客さんが来るのならば、週末をつぶしたってきちんと準備する。中途半端なことはしたくないんでね。「法定」の労働時間なんか超えたって知るもんか。給料なんか出なくたってかまいやしない。それが職人だと思っているからね。

働き方改革」で、勤務時間の上限を決めるのは、勝手にやってくれ。あたしは相手にしないから別に構わない。だけど、お願いだから仕事のジャマだけはしないでくれ

 おそらく、「働き方改革」は成功し、あたしらすし職人たちの給料は減ってゆくだろう。今の時点(2022年)では「すし保険制度」のおかげで、すし職人の俸給は比較的良く、わりと良い職業と思われている。しかしこれからは、だんだんとビンボーになってゆくだろう。だけど終戦直後に比べれば、いくらビンボーになったって知れたもんさ。

 この意見に同調してくれる人がいたら、一緒にカストリ焼酎でも飲みに行きましょうか。肴はもちろん、スイトンか、ふかし芋でね。