無鉄砲プロジェクト4年目、経過報告

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食糧分配の図

 先ごろ、ギリシャの友人から、「小説の残りの半分を送ってください」というメッセージが届いた。

 このメッセージを貰ってぼくは、とてもとても嬉しかった。

  

 ぼくの本業は外科医なので、新しい手術のやり方を考え付くことが時々ある。

 思いついた方法を、世の中の皆様にも知ってほしいと思う。だからそれを発表することになる。

 医学会では公式な論文は英文が原則なので、思いついたことを英語で書かなくてはいけない。

 アイディアがいつ出るかは、自分でもわからない。

 良いアイディアが出たら、いつでも人に伝えることができるように、英語による表現力は絶えず保っておく必要がある。

 そのためのトレーニングとして、ぼくは時々、英語で文章を書くことにしている。

 3~4年前までは自分で書きたいことを書く、という徒然草のようなスタンスで、英語による駄文を量産していた。

 しかし英語でものを書くにはそれなりの労力は必要だ。

 同じ労力を使うのであれば、自己流の駄文を垂れ流すよりも、もう少し世の中のためになることをすべきではないか、と次第に思うようになった。

  そこで何を英文で書くべきかをいろいろ考えたのだが、小説を英訳することにした。

 日本には優れた小説はたくさんある。だが、英訳されているものは意外と少ない。

 村上春樹や、三島由紀夫夏目漱石などは、数えきれないくらいの訳者による訳本が出版されている。しかし彼らは例外中の例外だ。意外なことに、あまたある日本の小説の中でも、英訳されているものは、本当に一握りなのだ。

 それゆえ、素晴らしいけれども英訳はされていない小説を探し出して、それを英訳することに決めた。3年ほど前のことある。

 

 ぼくは、胡桃沢耕史(くるみさわ こうし)という作家による「黒パン俘虜記」という小説を選んだ。

 胡桃沢氏は1981年に、この小説で直木賞を受賞している。

 直木賞を受賞したということは、少なくとも同人誌などのマイナーな小説ではない。

 だからぼくも、この小説が果たして本当に英訳されていないかどうか気になって、ずいぶんと調べてみた。その結果、いままでにおそらく訳者はいないであろうと思われた。

 そこで翻訳にとりかかった。

 

 「黒パン俘虜記」は胡桃沢氏の自伝的な小説である。

 拓殖大学の学生であった作者は昭和18年に徴兵され、満州終戦を迎える。

 終戦後はソビエト連邦軍の捕虜となり、モンゴルに送られる。そして毎日、採石や森林伐採などの危険な重労働に使役される。

 捕虜たちが住んでいる収容所は、最初は旧日本軍の将校たちによって指導され、秩序が保たれていた。

 ところがある日、この秩序に変化が起こる。

 陸軍刑務所に収監されていた、元やくざの兵隊たちが「革命」を起こしたのだ。

 やくざたちは暴力で上官たちを屈服させ、収容所の権力を握る。

 そしてモンゴル側から配給される食糧を独占し、威嚇と恐怖により収容所を支配する。

 辛い労働と絶望的な食糧不足で、多くの兵士たちが日々死んでゆく中、作者は独自の才能によって生き延びてゆく。

 

 収容所(実話だから実際に存在した)には、不条理が満ち溢れている。

 支配する側のやくざ者たちは、30人ほどしかいない。

 彼等の圧政に対して、2000人もいる一般の俘虜は、一言も抗議できない。

 労働のノルマが果たせなければ、凍死するまで屋外に括り付けられて処罰される。

 そのような状況に、収容所の管理者であるモンゴル側も気がついている。

 しかし、労働目標さえ達成できれば問題なしと、見て見ぬふりをしている。

 人権もへったくれもあったものではない。

 

 作者である胡桃沢氏は、そんな過酷な環境を、なんとか生き抜く。

 彼には特別な膂力や、取引の才能があるわけではない。ある特殊な才能を活かす。 後に小説家になることと、大いに関係する才能である。

 このブログに刺激されて、「黒パン俘虜記」をお読みになってくださる方もいるかもしれない。だからネタバレにならないように、ここではこれ以上は詳しく書かない。

 

 背景が背景であるだけに、この小説は明るいものではない。

 しかし絶望的な状況の中であればこそ、人々の生き抜く意志が強く浮彫りにされ、輝きを放っている。

 だからぼくはこの小説が元々とても気に入っていて、昔から繰り返して読んでいた。

 

 この小説は文庫版で300ページだ。長すぎもしないが、決して短くはない。

 時間のある時だけ翻訳していたので、全部を訳すには2年間もかかってしまった。

 訳し終わった後も、米国人の友人と毎週スカイプで会議を開き、訳文の正確さについて検証した。それで、さらに1年間かかってしまった。

 というわけで、3年間をかけて仕上げた、「黒パン俘虜記」の私家版訳文が、今ぼくの手元にある。ちなみに題名はThe Days of Rye Breadとした。

 

 また、日本語の原版には挿絵がなかったが、イメージを伝えるには少しは挿絵があった方が良いと思い、いくつか描き足した。今回のブログの扉絵は、収容所で俘虜たちが少ない食料を分配している図である。

 

 訳し始めた当初は、単純に翻訳の練習のつもりであった。

 

 ところが半分ほど訳したところから、この小説を、ぜひもっと外国の人たちに知って欲しいと思うようになった。

 国の圧政や社会の矛盾に苦しんでいる人は、世界中に沢山いる。望まない指導者による統治を批判的に描いたこの小説は、多くの人たちの共感を得るに違いない。

 また、日本人が戦争のために味わった苦労も、ほかの国の人たちにもう少し知ってもらいたい。韓国の慰安婦像問題に代表されるように、日本は第二次大戦の「加害者」として、レッテルを貼られてしまっている。日本人も戦争によってかなり苦しんだと言う事を知ってもらえれば、日本=加害者の図式も少しは変わってくるだろう。

  もっとも、ぼくが「黒パン俘虜記」を海外の人たちに読んでもらいたいと思う、最大の理由は別にある。

 終戦後、シベリアやモンゴルに送られて強制労働に従事し、そこで命を落とした人たちは、4万人は下らないという(正確な数すら、把握できていない)。

 そして犠牲者の多くは、20代の前半であったのだ。

 捕虜の多くが旧日本軍の兵士であり、徴兵が20歳で行われていたことを考えると、この年齢分布は当然の帰結だ。

 しかし、われわれ戦後世代の頭の中では、従軍した兵士たちは、もう少し年上だったように、イメージされていないであろうか。

 毎年8月になると、戦争経験を語る催しが行われる。

 戦争は76年も前に集結している。

 したがって、戦争経験を語ってくださる方々は、例外なく高齢である。

 それがゆえに、戦争経験者=高齢なる印象が定着しているのではないか。

 だから「戦争に行った方々は、その時点ではかなり若かった」という事実が、実感をもって認識されていない。錯覚されている。何となく、今の30代~40代くらいのイメージでとらえられているのではないだろうか。少なくとも、ぼくはそう錯覚していた。

  ところが3年間もずっと取り組んでいると、小説の中の情景が自らの体感として伝わってくるのだ。

 ぼくは、かなり本が好きな方だ。

 しかし今までの人生の中で、これほど長く1冊の本にとり組んできたことはなかった。ここまで1冊の本に感情移入するのは初めてのことだった。文学が好きな人たちの気持ちが、非常によく解った。

 自らが小説の中に入って行けるようになると、収容所で過ごした兵士たちの「若さ」が、体感をもって伝わってくる。

  モンゴルに抑留されて地獄のような環境で死んだ人たちは、大半が22歳とか23歳であったのだ。今のぼくの年齢の半分に満たない。

 こういう若さで死んで行った若者たちは、気の毒としか言いようがない。可哀そうである。彼らのために何かをして差し上げたいと思う。

 しかしご本人たちはすでにお亡くなりになっているのだから、彼らに対して直接に何かをして差し上げることは、もはやできない。それならば何をすれば良いか?

 

 彼らを助けることはもうできないとしても、失われた命に、意味を持たせることは可能なはずだ。

 

 「夜と霧」という本がある。ビクター・フランクルというユダヤ人の精神科医による著書である。20世紀を代表する名著のひとつと言っても過言ではないと思う。

  フランクルは、ナチによるユダヤ人狩りにあった後、アウシュビッツに送られた。「夜と霧」は、アウシュビッツ収容所における、彼の体験を記録したものである。

 フランクルは、自身が生還できるとは思っていなかった。

 しかし収容所という、人間の存在を真っ向から否定する環境の中で、自身が何を考え、どう生きたかを人々に伝えることができれば、それだけでも人生には意味がある、彼はそう考えた。

 それがゆえに手記をしたため、「夜と霧」として日の目を見たのである。

 

 シベリアやモンゴルに抑留された、今では還らない若者たちも、同じようなことを考えたかもしれない。

 もはや故人になってしまったが、胡桃沢氏がこの小説を書いたのも、そもそもそれが動機だった可能性が高い。

 この推測が正しいとすれば、小説を英訳して外国の方々に読んでいただければ、あたら若い命を落とした人々の遺志にも沿うはずだ。

 翻訳が完成するにつれて、そういう想いが、だんだん強くなってきた。

 

 このように、ぼくの論調は勝手な盛り上がりを見せるのであるが、冷静な方々の頭には「著作権」という言葉が浮かんでいると思う。

 この小説を選んだのも、それを訳したのも、ぼくの勝手な思い込みによるものだ。

 ぼくは作者から、翻訳を頼まれたわけではない。

 勝手に小説にほれ込んで、それを訳しただけだ。

 「黒パン俘虜記」は、文芸春秋社から刊行されたから、版権は同社に所属している。

 だからぼくが訳した私家版を公にしたりすると、著作権を侵害する可能性がある(ちなみに作者である胡桃沢氏は27年前にお亡くなりになっている)。

 

 訳文(私家版ではあるが)は手元にあるから、それを何かのサイトに発表することはすぐにできる。だがそれをやると著作権に抵触するであろう、というのが今の状況だ。

 

 王道を行くなら、まずは文芸春秋社に「『黒パン俘虜記』を英訳したので、英書版にしてもらえませんか」と問い合わせるべきであろう。

 これはそのうちに、本当にそうするつもりである。

 翻訳にはかなりの時間と労力をかけたが、ぼくはそれに対して報酬を請求するつもりは露ほどもない。そもそも、そんな請求ができる立場ではない。だから、文芸春秋社さえOKを出せば、「黒パン俘虜記」の英訳版を出すことは可能である。

 

 だが直木賞作品とは言え40年も昔の作品であるし、日本ですら絶版になっているような小説を、はいそうですかと大出版社が英書化するとは思えない。さらに、ぼくはプロの翻訳家ではないから、ぼくの訳文の正確さも検証する必要があるだろう。

 

 しかし、ぼくはこの手のことにはかなり粘り強い。だから納得のゆくまで、文芸春秋社と交渉する自信はある。

 ただその交渉には、これから何年もかかるかもしれない。

 その何年かの間にも、「黒パン俘虜記」のことをもっと海外の人に知ってほしい。

 

 そこでとりあえず、ぼくは、“Japanese-Book Lovers”という、日本文学を愛する、オタク外国人が集まるサイトのメンバーになった。

 そして「黒パン俘虜記」のあらすじを紹介し、興味ある人には訳文をお送りしますよ、と書き込んでおいた。

 すると1日でなんと、20人もの人間からリクエストがあったのである。かれらの国籍は様々で、アメリカやイギリスの人もいれば、バングラデシュやメキシコの人もいる。

 リクエストはマイクロソフトの”Messenger” でお受けしたので、英訳の原稿も”Messenger”でお送りすることになった。これだと、添付できるファイルサイズには限界がある。300ページ分の訳文をすべて送ることはできないから、前半と後半に分けてお送りすることにした。

 また、ファイルサイズの問題以外に、本当にぼくの訳文を読んでいただけるのであろうか、という不安もある。3年もかけて作成した訳文をお届けするのだから、感想くらい訊いてもバチは当たらないであろう。

  そこで「まず、前半の訳文をお送りします。後半をお読みになりたい方は、再度、ご連絡をください」とメッセージを添えて20人の方々にファイルを発送した。

 

 そのうちの何人かから、感想とともに「残りの半分を送ってください」というリクエストを貰っている。冒頭に書いたギリシャの友人のメッセージはその一つである。

  ある程度の反響があったことを文芸春秋社に伝えれば、ぼくの翻訳で「黒パン俘虜記」の英書を出してもらえるかもしれない。

 そして海外から日本に人気は逆輸入され、ゆくゆくはNHKでドラマ化、そして映画化、と、ぼくの妄想は続いてゆくのである。途中経過については、さらに2年後くらいにご報告しますのでご期待を…するわけないか(笑)。