1000時間田んぼwatchingマラソン

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ランニングコース

 今年(2019年)の8月で東京から香川に移り住んで丸5年になります。住めば都とはよく言ったもので、慣れないうちにはやはり、地方暮らしの寂寞感を感じていたものの、現在では香川という土地を心から気に入っています。
 と言うと、「齢をとって田舎暮らしが性に合って来ただけだろ」と思う人は多いでしょうし、事実、そういう部分もあるかもしれません。しかし、私が香川をますます気に入って来たのは、単純に「自然が豊か」というステレオタイプな理由からではありません。
 地方に暮らしていると農業や漁業が身近になります。食糧生産の現場が日常の生活圏に存在すると、「結局、人間は何をやっても生きていけるのだな」という、楽観性というか妙な自信が身についてくるのです。何を言っているのかよくわかりませんよね。まあ、以下の話を読んでください。

 ぼくが現在勤務している香川大学は、新設国立医学部の例にもれず、非常に自然の豊かな場所にあります。世間では俗にそういう場所を「ドイナカ」と呼んでいるようです。ぼくは大学の隣に官舎を借りて部屋を使っておりますので、必然的にドイナカで寝起きをすることが多々あります。朝起きてランニングをするのが趣味ですので、大学の周りを良く走り回っています。牧場や麦畑、びわやぶどうの果樹園、池などがたくさんあるのですが、やはり一番多いのは水田です。

 ランニングをしている間、よく田んぼを観察しています。週に4回か5回はランニングをします。香川に住んでもう5年になりますから、通算1000回くらいは田んぼの周りをまわっています。しかも1回に1時間くらいは走りますので、少なく見積もっても1000時間くらいは田んぼを見ていたわけです。
 英語学習者のための教材で「1000時間ヒアリングマラソン」と言うのがありますね。「1000時間、英語を聞いていると、耳が慣れて聞き取れるようになる」と言うのがそのコンセプトですが、雑誌の広告によく出ているので、ご存知の方は多いのではないでしょうか。
 ぼくはその田んぼバージョン、いうなれば「1000時間田んぼwatchingマラソン」を「完走」いたしましたので、「門前の中年、習わぬ経を読む」の理屈で、コメ作りのプロセスが何となく解りました。
 暖かくなってきたからそろそろ苗を植える時期だなと思っていると、その翌日にはちゃんと苗を植えております。そろそろ秋だから稲刈りをするだろう、でも稲穂がまだ若いから、あと2週間は待つかなと思っていると、だいたいその通りになっています。
 つまり、いつも田んぼの回りを歩いたり走ったりしているので、コメがどのようにできるのか、だいたいのタイムテーブルを感覚的にマスターしたのですね。

 もちろん、ぼくに「実際にコメを作れ」と言われても、はたしてすぐにきちんとできるかどうかはわかりません。おそらく最初はかなりの失敗をすることでしょう。「この時期に田起こしをして、この時期に苗を植えて、この時期に薬を撒いて、この時期に刈り入れをする、ということが頭で解ってはいても、それだけでコメを作れるわけではありません。実際にコメを作る作業をしたわけではありませんので、隠れた苦労については、まだわかっていないと思います。水田には虫は出るし、台風の後にはたくさんの稲が倒れているし、日照時間が少ないせいか、年によっては明らかに稲穂がいつもより小さなこともあります。外科の手術と同じで、やるのと見るのとでは大違いで、プロの農家としてコメをつくれる技術は、ぼくの思うよりずっと難しいことでしょう。

 だからと言って、コメを作る現場で日々を送り、だいたいのやり方を知ったことは、無駄ではありません。実際にコメ作りをやってみると幾多の困難にぶち当たるにしても、「コメを作ることは自分でもなんとかできそうだ」という自信はできました。最初はいろいろ苦労するかもしれませんが、3年くらい時間をくれれば、必ずできるだろうと確信しています。

 ここからがこの話の核心です。「自分もおそらく、コメを作ることができるだろう」という自信は、「まあ人生いろいろあるけど、結局なんとかなるだろう」という楽観性につながるのです。
 今の日本には、少子化だとか景気後退とか、国の先行きを危ぶませる言説が巷間にあふれています。しかし、つまるところ人間は食糧さえあれば生きて行けるはずです。そしてその食糧を、やろうと思えば作れるだろうという自信は、なんとなく自分の生命力を根源的なところで支えてくれるのです。

 銀行員の生活を描いた「半沢直樹」いうテレビドラマが数年前に流行りました。ぼくも非常に面白いと思って視ていました。そのドラマに出てくる銀行員の一人は、預金がうまく集められないので神経衰弱になってしまいます。
 人間は動物です。動物にとって一番恐ろしいことは食べ物を得られなくなることです。神経衰弱になった銀行員にとっては、「食べ物を得ること」イコール「給料をもらうこと」だったはずです。なぜなら都会では食糧は「自分が作るもの」ではなくて「お金で買うもの」だからです。つまり銀行員の場合、「たくさんの預金を集める」→「銀行に高く評価される」→「俸給をいただく」→「いただいた俸給で食べ物を買う」というのが、生存のためのプロセスです。このプロセスだけに拘ると、「預金が集められない」→「解雇される」→「お金が入らない」→「食糧が得られない」→「生存できない」という考え方をしてしまいます。生きて行くことができなければパニックに陥るのは当然です。だから件の銀行員は神経衰弱になりました。

 ところが、食糧を自分でも作れるという自信ができてくると、この「お金が入らない」から後の部分の流れを、ぐいっと変えられるのです。つまり、「預金が集められない」→「解雇される」→「お金が入らない」→「でもコメは何とか作れそうだ」→「まあ、死ぬことはないだろう」と進めるわけですね。

 こういうふうに、「食糧を自分でもたぶん作れる」という自信は、人生を明るく見せてくれるのです。休みになると、大都会に住んでいる人たちは、よく地方に観光に来ますね。香川にも、神戸ですとか大阪から大勢の方がおいでになります。そういう方たちは自分では、美味しい空気を吸いにくるとか、きれいな景色を見に来ることが目的だと思っていることでしょう。ですが潜在意識の中では、「自分がいま縛られているライフスタイル以外の方法でも、生きて行けるかもしれない」ということを確認、あるいは模索しているのだろうと、ぼくは思っています。彼らが田舎に観光にくるのは、本当はそのことこそが、大きな目的なのではないでしょうか。