私は胸の形を治すことを専門にしている外科医です。胸の形について悩みを持たれている方は非常に多く、300人に1人は自分の胸の形について治したいという希望を持たれているようです。こうした病気というか変形を専門にしている先生は、日本全国に何人かおられます。

 そのそれぞれが立派な先生であるとは思うのですが、一点のみ難ありと私が思う点があります。それは、そうした先生方の多くが「自分は今までに何人の患者を手術したのか」と人数を強調する点です。私自身も今までの外科医としての人生で数多くの患者さんを治療してきました。老若男女をとりまぜ何百人もの患者を治療してきました。

 そうした、今までの医師としての人生で治療を行った患者の数を公表することは、これから手術を受ける患者さんにとっては良いことではあります。ただ私が危惧するのは、数を追い求めると質が低下しないか、ということです。

 私は、外科医の仕事は手を動かしてものを創造する点で、彫刻家や画家と似ていると常々考えています。この点については、多くの方が同意してくださると思います。そこで例えば、「私は今までに1000体の彫刻をつくりました」と言っている彫刻家がいるとします。そうした彫刻家を、それだけで一流と考える人はまずいないでしょう。1000体の彫刻を彫ったということは、彫刻刀や木材の扱い方に習熟したというある程度の裏付けにはなるかもしれません。しかし、ただひたすら数を追い求めることに溺れて、ひとつひとつの彫刻を作成する過程での芸術的成長がないのならば、いくら多くの彫刻を彫ったとて意味のないことは、普通に考えれば当然でしょう。

 より卑近な例で表現すると、例えば一日に100杯のラーメンを作るラーメン職人と、一日に一組の客のみを受け入れるフレンチレストランのシェフとでは、どちらが料理人として上でしょうか?

 当然のことですが、患者さんは経験の少ない医者に手術されるのは嫌なものです。私だってもし自分が手術を受けるのならば、いままで同じ手術を3例しかしたことのない医者の手術など受けたくありません。しかし、今までに300例その手術をしたことのある医者と、今までに600例その手術をしたことのある医者では、そうレベルに違いはないはずです。どんな手術でも、100例くらいやればコツはつかめるからです。それを600例より601例、601例より602例というふうに、ひたすら数を追い求めることは、別の意味で呪縛に縛られることになります。

 私が年間に手術する症例数を必要に応じて公表しつつも、こなした手術の数を誇示しないのは、このような理由によるものです。