外国語の難しさ

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人工知能に淘汰……される?

 以前ある人から、バレーボールでセッターをやる人は、ある程度テキトーな性格でないと務まらないという話を聞いたことがあります。
セッターはスパイクをするアタッカーにボールを上げる役目ですが、通常は2人いるアタッカーのいずれがスパイクをするのかが事前に相手にわかってしまうと、防御がしやすくなります。だからギリギリのタイミングまでそれを相手に悟られないようにする必要がありますが、セッターがどちらにボールを上げるかをあらかじめ決めてしまっていると、セッターの体の微妙な動きを見て、相手はどこにボールを上げるのかが読まれてしまいます。  
 これを避けるためには、セッター自身が直前まで、誰にスパイクを打ってもらうかを決めていない、という状態が一番良いわけです。つまり、その場で適当に決めるという能力がセッターには求められます。真面目な人ですとどうしても予めスパイクを打たせるアタッカーを決めてしまう傾向があるので、これはなかなか難しいのです。言葉は悪いですが、ある程度のいい加減さが要求されます。

 通訳とか翻訳の仕事も、あまり真面目にやりすぎると務まらないとつくづく思っています。たとえば先日ニュースで「夏のオリンピックでは、廃棄された機械からとられた金属を使ってつくたたメダルが使われます」とアナウンサーが話していました。
 ぼくは現在、香川大学が行っている国際交流事業や、今年からぼくの教室で採用した中国人の大学院生のための書類づくりで、ほとんど毎日、何かしらの翻訳や通訳の仕事をしています。だから日常生活の中で興味ある内容の文に出会うと、これは果たして中国語でどのように言うのであろうかということを反射的に考える癖がついています。

 そこで先の文章を中国語に訳してみます·。語順通りに訳すと“在今年夏天举行的奥林匹会使用的牌子是用从被废弃的机器采取的金属制作的。”ということになりますが、この文はネイティブの中国語話者にとっては不自然に感じるはずです。どんな風に変かというと、日本人が、「夏期のオリンピックでは、機械を廃棄してその金属を使ってメダルを作ります」と·いう文章を読んで感じるようなものでしょう。この文は少し変です。なぜならオリンピックのために、意図的に機械を壊すようにも取れるし、わざわざ質の悪い機械を選んでその金属を使うようにも取れうるからです。


 ぼくはそうした細かい差異が非常に気になる性質です。そこでぼくがこの文を訳すと“为环保,有些人从已经不使用的机器采取金属,用它制作别的产品,在今年举行的奥运会,日本政府将使用如此制作的奥运牌,将它们赏给选手们。”となります。
これを直訳すると、「環境保護のために、使用済みの機械から金属を抽出し、別の製品を作成する場合がある。夏に行われるオリンピックでは、日本政府はこうしてメダルを作成し、それで選手を表彰するのである」となります。

 この文章の内容には誤りはないものの、いかんせん長すぎます。そこで訳し終わってからぼくはまた、煩悶するのであります。なぜなら「日本政府メダルを作成する」と言い切ってしまいましたが、オリンピックを開催するのは日本政府なのか?という新たな疑念が生まれるからです。オリンピック財団かなにか、国際的な組織が主催者ならば、この部分は誤りということになります。また、銅メダルや銀メダルならば廃材の金属を使って作成が可能にしても、さすがに金メダルは無理ではないか、というような疑問も訳し終わってから生まれてきて、割り切れない気持ち悪さを感じます。

 そもそも趣味として訳を考える際には、まだ時間的な余裕はあるが、同時通訳のレベルになると話者と同じスピードで話さなくてはいけません。だから文章が長すぎることは致命的なのです。このように、精密さを追求しすぎると、通訳・翻訳というものはどんどんと泥沼に入って行ってしまうのです。

 そこで再び最初の文章「夏期のオリンピックでは、機械を廃棄した金属を使ってメダルを作ります」に戻って、これを見直してみると、意外と悪くなく思えてきます。わざわざオリンピックのために機械を廃棄するはずもないということは、まあ常識の範囲でわかるはずです。また、再利用した金属で金メダルが作れるのか否かまで、原文の内容は踏み込んでいません。だからその部分については、あえて触れなくてよいでしょう。

 こう考えてあらためて二つの文を比較してみると、前者の一見、いい加減な訳の方が実質的には優れているという結論に落ち着きます。

かくのごとく、こと通訳、とくに同時通訳の領域について言えば、多少のアバウトさは気にしない、いい加減さというか大胆さがかえってよいことも多いのです。先に述べた、バレーボールのセッターと同じ理屈です。

 ところが、絶対の正確さが求められる状況もあります。1972年に日中国交回復のために田中角栄氏が訪中した際、スピーチの中で田中氏は戦争責任に触れて「中国の皆様に多大なるご迷惑をおかけした」と述べました。これを通訳は“给中国的民众添了麻烦”と訳しました。“添麻烦”というのも確かに謝罪の言葉ではありますが、例えば水まきをしていて少し水が通行人の足にかかった程度の状況で用いられるもので、日本語でいうと「失礼しました」くらいの意味である。このスピーチは人民大会堂の大ホールにおける晩餐の際になされたものです。それまで会場を覆っていた和やかな空気は一瞬にして凍り付いたそうです。あれほど大きな災厄を中国人にもたらした戦争についての謝罪としては不適切、と感じた聴衆は、騒然となったそうです。直後に行われた会談にてこの文言に関する訂正が行われ、結果的に友好条約は締結されたものの、この語訳がゆえに国交が決裂していた可能性もあります。ことほど左様に言語は繊細な側面を持っているので、いつもいい加減にやっていると大きな失敗をすることになります。

 つまりいい加減さと、几帳面さを併せ持つことが職業的な通訳には必要なのです。時々、「通訳の職業は人工知能に淘汰される」という人がいますが、ぼくにはこういう人は、外国語のことがなにもわかってないな、と思えるのであります。