香川のゴッドファーザーにはハンザワナオキなんか関係ねーぜ

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うなぎやのオッサン

 以前、香川の田んぼのど真ん中にある、掘っ立て小屋風のウナギ屋についてブログを書いた(https://nagasao.hatenablog.com/entry/2019/07/21/152346)。

 このウナギ屋は6月の下旬から8月の中旬までしかやっていない、幻のウナギ屋だ。

 ウナギを販売する小屋の隣には、さらに小さな小屋がある。

 自分で酒を持っていけば、そこで酒を飲みつつウナギを食べることができるので、ぼくは毎年、夏になると3~4人の友人を連れてそこで宴会をすることにしている。毎年恒例の盆踊りみたいなものだ。

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うなぎの看板

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 ここの店主であるおっさんはいつも、麦わら帽子をかぶっている。

 おっさんは蒲焼を焼くだけではなく、小屋の隣の池でウナギの養殖もやっている。

このため、日光から皮膚を護る必要があるので、麦わら帽をかぶるのは合理的である。

 ウナギを焼いていないときは、小屋の中にあるソファに座って、いつも足を組んでタバコを吸っている。その姿はあたかもゴッドファーザーのようである。

 おっさんは、だれに対しても絶対に敬語を使わない。客に対する呼称は一律に「あんた」もしくは「あんたら」である。

 幸いにしてぼくは、おっさんと気が合うのであるが、おっさんは気に入らない客にはウナギを売らない。

 この店に東京の人間が行けば、食べログで酷評するであろう。

 しかしそんなことをこのおっさんは、全く気にしない。

 

 香川県人になったぼくは、この気持ちがとてもよくわかる。

 このおっさんは、ウナギの味については自信をもっているが、「それが売れるかどうか」にはあんまり関心はないのである。つまり、このおっさんにとっては「美味いウナギを焼くこと」のほうが、「そのウナギを通じて自分の評判がよくなること」よりも、ずーっと重要なのだ。

 こういうのは、東京にはないけれど、地方にはごく普通に存在するメンタリティーなのである。今日はそのことについて書く。

 

 例えば日本医師会長に診察してもらった場合、東京の人間ならば、「これほど偉い人が私を診察してくれた」と感謝するであろう。

 でも考えてみると日本医師会長は、日本で一番の名医だから、その地位についたのではない。医師会長ともなると、政治的な駆け引きにかなりの労力を使って初めてなれるものであろう。とすると、医療の本道にかけられる労力がその分少なくなるはずだ。だからそもそも医者として一流の腕を期待はできない。

 例えば麻雀日本一の人間が、たまたま力士だったとしよう。そうすると、この力士は相撲が強いと思いますかね?簡単な理屈。

 

 かくのごとく「地位」と「職業の実力」について少し考えてみると両者にはそもそも直接の関係がないはずなのに、東京ではそれらが相関すると信じられている。

 これに対して田舎の人間が人を判断する場合には、「その人がなした所業がいかほどのものか」を実利的に判断するのだ。

 つまり、能書きばかり多い日本医師会長よりも、事故で切れた手足を元どおりにつなげてくれる先生や、子供の喘息発作を鎮めてくれる先生のほうが、ずーっと尊敬されるのである。

 ぼくは東京から香川に来て、この当たり前の真実に頭をガーンと殴られる想いがした。

 この感覚を伝えるためにはどうしたらいいのかといろいろ考えた。

 おりしも、「半沢直樹」というドラマが流行っている。一流銀行に勤める主人公が、周りの人間たちの誹謗中傷に対し、行動力で巻き返してゆく物語である。

 実はぼくも、このドラマはかなり好きだ。しかし同時に、「これは東京の価値観を軸にできているドラマだよな」とも思う。

 半沢直樹は、「ビジネス上の駆け引き」が勝敗を決する社会に住んでいる。つまりは「人の決めた(人事という)ルールの内部において、どこまで遠くに行けるのか」に基づいて勝負を決定する社会に生きている。

 そして、このルールを信仰する点において、半沢と彼の打倒するライバルたちは、じつはまったく同じ宗教の忠実な信者なのだ。

 つまりどちらか一方が、「おれ、銀行で偉くなるとか興味ねーし。週末に釣りに行けりゃそれでいいんだよね」などと思ってしまったら、ゲームは成立しないのだ。

  

 東京に住んでいる人間ならば、暗黙の裡に上記のルールを守っている。いわば、人事を教義とする宗教の信者なのだ。ところが地方にくるとこの色彩が弱くなる。

 家でコメが作れるのに、銀行なんて空気の悪いところで1日に十何時間も仕事することの意味が、本当に理解できない人がたくさんいるのだ。

 香川生活の6年を経て、めでたくぼくもその一人になった。

 

 だからといって、地方を緩いと思ってもらっては困る。

 地方には地方の厳しさがちゃんとあるのだ。

 どんな厳しさか?

 地方では、「その人がなしたことが、具体的に人間の生活にどう役立つの?」ということが常に問われる。地方は東京に比べて資金的な補助が少ないのでインフラが発達していない。今回の熊本の豪雨とか土砂災害に見られるように、すぐに問題が深刻化する。

 このような環境で生活していると、人間のメンタリティも当然、変わってくる。

 例えば豪雨で河川が氾濫しそうになっている際に、「だれが堤防の補強事業を請け負ったか、その際に汚職はなかったのか」と、人の責任を突き詰めてゆくのが半沢(=東京)スタイルなのである。

 では地方ではどういう人間が評価されるとかというと、「四の五の言わずに、氾濫しそうな場所に土嚢をもっていって積み上げる人間」が評価されるのである。

 恥ずかしながらぼくも、6年までは東京の、かなりの中心地で勤務していた。とくに六本木や赤坂は近く歩いて行ったって30分でついたし、タクシーならばものの7~8分であった。

 ふりかえって考えてみると、その当時の職場で話題になっていたのは、いつも半沢チックなことばかりだった。つまり例えばカンファレンスなどをやっても、「だれがどこそこの病院で頑張っている」という噂話か、「今度の学会では、K大学(ぼくのそのころ勤めていた大学病院)の研究水準の高さを全国に伝えよう」というような、「いかに人に認められるか」を本質とする内容が、話題の大部分を占めていた。

 だが地方に来ると、病院だって東京みたいに多くないから、手術が必要な患者さんがばんばん集まってくる。だから純粋に、「目の前にいる患者さんをよくすることができるかどうか」が問題になってくる。

 40年以上いた東京を離れ、6年前より地方に赴任してきたぼくが痛切に感じることは、「医療は(農業や漁業と同じで)一次産業である」とうことだ。

 

 たとえばコメが冷害で採れない。そんなときにしなくてはいけないことは、海外の環境会議に参加することではなくて、まず田んぼを温めることでしょう。

 雨が降って道がくずれました。そんなときに必要なことは、道路を建設した会社の責任者を責めることではなくて、スコップを持って行って道を直すことだ。

 「半沢直樹」は人の不正を暴く。それを見て、留飲をさげる人は多い、だが、誰の責任や誰の不正を喝破したところで、「暴く、暴かれる」の舞台の「外」にある人間の幸福に対して、いかに貢献するというのか。大和田常務を追い落としたら、コロナ禍で職を失った人たちが救済されるというのか。

「ごちゃごちゃ言う前に、まず手を動かせや。」

 

 ウナギ売りのゴッドファーザーはテレビが好きだ。田舎の田んぼの真ん中のウナギ屋なので、客も多くはない。だからよくテレビを見ている。

 だから半沢直樹も視ようと思えば見れるのだ。

 ぼくは訊いた「最近、半沢直樹って流行ってますよね」

 うなぎゴッドファーザー、応えて曰く「ああ、おれはつまらんから視んけどな」

これが地方のメンタリティであり、それはかけがえのないわが国の文化的財産であると、ぼくは思うのです。