半世紀も生きてきたので世の中のことはだいたいわかっているつもりであったのだが、自分の無知さに打ちのめされている今日この頃である。
「ちゃぶ台返し」の件である。
ことの発端はぼくが実際に、パンを食べながら学校へ急いでいる高校生を目撃したことにある。
「パン食い少女」は日本の定番ギャグである。寝坊した女子がパンを咥えて学校にゆく際に、偶然のきっかけからイケメンと知り合ってしまって恋に落ちる、という展開をたどる。
この出会いパターンは非常によくできている。恋愛を構成する要素である、「突然性」「意外性」「偶然性」という3要素が、全て満たされている。
これら3要素は「ロミオとジュリエット」とか「タイタニック」とか、タイトルを聞くだけで(ぼくのようなオッサンにとっては)「うえー」と言いたくなるような、他国のベタな恋愛物語にも共通している。
人間に人種の差はあっても思考の回路にさほど差はない。だから、恋愛の始まり方にそれほど違いがあろうはずもない。
しかし、本質的な構成が共通するからこそ、おのおのの文化・生活習慣に特有な背景というものが浮かび上がってくるのではないか。
たとえば、モンゴルにおいては「パン食い少女」の話はそれほど受けないであろう。パンを咥えて学校に行くなどという事態そのものが存在しないからだ。
「パン食い少女」モンゴル編を(ぼくの勝手な偏見に基づいて)あえて創作させていただくと、次のようになる。
ある少女が馬に乗って学校に行っている。いつものように今日の朝も、彼女は羊たちを柵から出して草場に連れて行った。
その時、一部の羊たちが小競り合いを始めたために手間取って、30分ほど無駄に費やしてしまった。そこで急いで学校に向かっているのだが、なぜか本日は愛馬の調子が悪い。鞭をくれても、いつものように飛ぶがごとく草原を奔ってくれない。
いらいらしているうちに後ろから声がかかる「お嬢さん、駄目だな。馬の気持ちってものがわかってない。」見ると駿馬に乗ったイケメンが一人。イケメンは自分の馬を降りると、少女の乗っている馬に近寄り、足を観察。なんと、蹄鉄の釘が少しずれているではないか!
イケメンは常に携帯している小槌で蹄鉄を直す。
「これで大丈夫。でも俺の馬の方が早いから、送ってやるよ!」
2人は風のように草原を疾走し、恋愛の始まり始まり。
書いているうちにアホらしくなってきたのでここらでやめておく(だいたい、何世紀の話やねん!)が、言いたいことは何となく伝わったであろうか。
ラブストーリーが始まるパターンなんて、だいたいどこの国でもそう変わりはない。
基本的な部分が変わらないからこそ、それを構成する「状況」が意味を持ってくる。
このことから発展して「ギャグに反映される、文化の固有性」という問題に足を踏み込んでしまい、「ちゃぶ台返し」に行き当たった。
ぼくが「ちゃぶ台」に目を付けたのは、「ちゃぶ台」というものが日本独自のものだと思ったからだ。
伝統的な日本家屋は狭いので(「ウサギ小屋」と揶揄されて問題になったほどだ)、テーブルを常設することはできない。食事をする場所はダイニングルームでもあり、今でもあり、時により寝室であることすら要求される。ゆえに携帯式のテーブルが重宝する。アメリカの家屋と対比して考えるとよくわかる。アメリカの家屋は日本に比べて大きいので、部屋数も多く、一つ一つの部屋も大きい。だからテーブルを携帯式のものにする発想はないであろう。
さらに、日本家屋は畳を基調とするので、出し入れをしてもテーブルが土や埃によって汚染されにくい。このことは、たとえば中世フランスの家屋(農家)を考えるとわかりやすい。彼らは土の上で暮らしていた。家屋そのものは大きくはないので、本来ならば携帯用のテーブルを使用するのが便利ではあったはずだ。
しかし、中世フランスにおいて「ちゃぶ台」のごとき携帯用のテーブルを使用したことがあるとは聞いたことがない。原因はいろいろあるが、衛生上の問題もその一つだろうと思う。テーブルを片付けて土の上に置いた場合、テーブルの一端が土に付着する。土の上には無数の微生物がいる。それがテーブルの上に付着すると、テーブルの上に置いた食物・食器・水差しなどを経由して、微生物が人の口に入る可能性がある。それで、携帯テーブルが出現しなかったのではないであろうか。
「家屋が狭い」「衛生的にテーブルの収納ができる」という点において、日本人の生活習慣と「ちゃぶ台」との相性は非常に良い。考えて見ると旅館の宴会によく出てくる「お膳」も、携帯用テーブルの一種だ。
こういう理由で、「ちゃぶ台」は日本独自の文化であり、したがって「ちゃぶ台返し」も日本独特のパーフォーマンスであろうと、ぼくは推察したのである。
しかし、甘かった。
ぼくのブログを読んだある友人が、ちゃぶ台返しのシーンを集めた動画をご紹介してくださったのだ (https://www.gizmodo.jp/2014/06/post_14730.html)。
その動画の中では、チームメイトにイラついた野球選手や、仕事がうまく行かない会社員や、研究に行きづまった学者がテーブルをひっくり返すシーンが出て来る。
あまつさえ、こうした行為に“table flipping”という一般名称すらつけられている。
いろいろな人がテーブルをひっくり返すシーンを見て、ぼくは「ちゃぶ台返し」が日本独特の文化(?)であるという考えを改めざるを得なかった。
すこし残念な気持ちになったのだが、ご紹介くださった動画を見て、もっと別の事にぶったまげた。
かの有名なイエス・キリスト様が、テーブルをひっくり返すシーンが出てくるのである。
しかも、他のテーブル・フリッパーたちは一つか、せいぜい二つのテーブルをひっくり返すだけなのに、イエス様は続けさまに10個くらいテーブルをひっくり返しているのである。
この動画を見てぼくは、「イエスを題材にしたギャグ映画なのであろう」と思った。
そこで、しばらくしてアメリカ人の友人とたまたま会ったときに、この動画の事にふれてみた。
「イエスを題材にしてギャグ映画なんか作っちゃっていいのかね?アメリカだと、宗教にうるさい人もいるんじゃないの?」と、ぼくは訊いた。
彼の返答は、ぼくを非常に驚かせた。
イエスによるこの「ちゃぶ台返し」は、彼の言行のひとつとして、聖書にはっきりと記載されているのだそうだ。マグダラのマリアが自分の髪でイエスの足を拭いた話とか、イエスが石打の刑から女性を救った話などと同列に、聖蹟の一つとしてとらえられているそうなのである。
ぼくは仏教徒なのであるが、キリスト教についても少なからぬ関心がある。聖書も読み物として面白いので、ぱらぱらと「めくり読み」をしたことも何回かあった。
しかし、イエス様が大々的に「ちゃぶ台返し」をなさったことなんてチットモ知らなかった。
そこで、この件を「イエス様ちゃぶ台事件」と勝手に命名し、その詳細について調べてみた。
「イエス様ちゃぶ台事件」は、英語では”Cleansing of the Temple”と言う。「神殿の浄化」というわけだ。
事件はエルサレムの神殿で起こった。神殿の庭では出店が出ていて、商人たちが商売をしていた。神殿には多くの人が集まるから、そこで商売をするのはごく自然なことだ。羊や鳩を売るものもいるし、野菜や果物を売るものもいる。両替商もたくさんいる。エルサレムは国際都市である。だからローマやギリシャから交易にやってくる商人も多い。彼らが商売を行うためには、現地通貨を手に入れなくてはいけない。だから両替商が発生するのは当然なことだ。
ところがイエス様はこれにカチンと来たのである。「私の父の聖なる庭で商売をするな!」と叫びつつ、手近にあった縄を振り回した。商人たちがそれに怯むと、台の上のさまざまな商品をはたき落とし、台をひっくり返した。
イエス様そういう狼藉に出た直接の原因は、聖なる場所のはずである神殿で、俗世間の象徴である金銭を得る行為に腹をたてたことらしい。その気持ちはわかる。
しかし、「なんでいきなり『ちゃぶ台返し』するの?」と思いませんか?
考えて見ると不思議な話だ。イエス様はカンニングの竹山氏のような「切れキャラ」ではない。磔にあっても、自分をそんな目に合わせた人々のために「神よ、あわれな人々を許したまえ」というほど心の大きな人間である。なぜこんな切れ方をしたのであろうか?わからない。
ともあれ、ぼくはイエス様はもう少し穏便にやるべきだったと思いますね。
だって、その当時の人達の立場から考えて見てほしい。
仮に「エルサレムテレビ局」があったとして、事件をニュースで報道するとだ。
「本日、神殿で20代の男性が暴れまわる事件が起こりました。神殿の庭は鳩や果物を売る人や、両替をする方々で賑わっていましたが、男性は台の上の商品をはたき落としたり、台をひっくり返すなどの行為を行い、周辺を騒然とさせました。エルサレム警察の取り調べによると男性は、『神殿は礼拝をする場所だから、商売をするのはおかしいと思った』と話しているとのことです」となる。
イエス様ほどの方になると、ご自分が将来、世界で屈指の宗教の教祖となることぐらい予想できたのではないか。だったらこういう狼藉が、信者たちをのちのち困らせることくらい、考えるべきじゃないか?
どういうふうに後世の信者たちが困っているか、調べたので報告する。
たとえば、「イエス様の振り回した縄が、人に当たったか否か」ということ一つが、神学的論議の重要なテーマになったりしているのである。
つまりこういうことだ。イエス様の振り回した縄がもしも人に当たっていたとすると、イエス様は人に対して暴力をふるったことになる。
こう解釈すると、キリスト教の信徒たちが、自身の暴力を肯定する口実になりうるのである。
ひとつ例を挙げる。ミシェル・セルヴェという16世紀の神学者は、三位一体説を否定して火刑に処せられている。この処罰を正当化するために、教会の権力者たちは、table cleansingを引き合いに出している。「イエス様ですら神聖なる創造主をお守りするために、あえて暴力をふるった。だから私の行為も許されるはずだ」というわけだ。
十字軍なども回教徒をずいぶんひどい目に合わせたが、やはりそれを正当化するためにイエス様の「ちゃぶ台返し」を引き合いに出している(興味ある人は「聖ベルナルドゥス」でググってみてください)。
イエス様のように影響力の大きな人間がなにか事件を起こすと、かくのごとき波紋を巻き起こすのである。
同じく「ちゃぶ台ひっくり返し仲間」である星一徹が、のちのち教祖になったと想像して欲しい。
ほぼ全ての宗教は祭事を伴う。
キリスト教にはクリスマスや復活祭があるし、ユダヤ教には「過ぎ越しの祭り」がある。イスラム教には断食月があるし、仏教にも甘茶祭りがある。
「一徹教」ができたとすると、「ちゃぶ台返し」は祭事の一つになるに違いない。
そうすると、ちゃぶ台の上に乗っていたのが、ご飯だけだったなのか、汁物も乗っていたのかで、準備と後片付けの手間がずいぶんと異なるだろう。
かくのごとく、影響力の大きな人間は、その場の衝動なんかで軽率に動いてはいけないのである。
ではイエス様はどうすればよかったか。
まずは、商人たちに警告するべきだ。「神殿は礼拝の場所なのであって、商売をするところではありません。商品をしまって速やかに撤去しなさい。」
とアナウンスすべきだったのではないか。
とは言っても商人たちも生活がかかっているので、簡単に店を撤去したりはしないであろう。
その場合にはだ。信者を連れてきて協力を仰げばよい。
イエス様の別の聖蹟として、5つのパンと2匹の魚を5000人以上で分けた話がある。
こちらの方は、ちゃぶ台返し事件よりも、ずっとよく知られている。
5000人も付き従う人間がいるのだから、そのうちの100人くらいを動員することはできたのではないか。彼らに分担して、商人たちの屋台を神殿の外に移し出せば良かったのではないだろうか。
日本の引っ越し屋さんは優秀で、まったく片づけをしておかなくても、ありのままの状態で荷物を運んでくれる。
ぼくの友人が、ある業者に依頼して引っ越しをしたところ、台所にあるネギをそのまま台所にもってきてくれたそうだ。
かくのごとくですね、日本の引っ越し屋さんのような丁寧さを持って、商人たちの店を運び出せばよかったのではないかと思いますね。ぼくは。(今回のイラストは、そういうイメージで描かせていただきました。)
そのためにはやっぱり、手で運ぶのでは少し難しいですね。
だから、荷車なんかを用意する必要がありますね。これはできれば購入した方がよいでしょう。
「ただ一回、商人たちの店を移設するだけなのに、荷車なんか購入する必要はない」という意見もあるでしょうね。
でも大丈夫、"Table Cleasing (神殿の浄化)"に使用した後、購入した荷車はずっと、何百年にもわたって使える筈なのです。
いったい、荷車をなんにつかうのか?
それは、弟子のペテロがのちのちサンタクロースになった時に、プレゼントを運ぶのに使えるからですよ。
サンタクロースは橇(そり)にのっていますがね、雪の多い地域は良いにしても、フィリピンだとかブラジルのような熱帯や亜熱帯にもキリスト教徒は沢山いますし、彼らの子供たちにプレゼントを配るんだったら、橇よりも荷車の方が便利に決まってます。
そういう地域でプレゼントを配るのに、荷車を使えば良いのです。
とオチの着いたところで、今回は終了。