「弱者」から見た「すし閥」-せとうち寿司親方つれづれ話3

f:id:Nagasao:20210731154753j:plain

経済力が勝つのは、歴史の必然ですね

 この間は日本の「すし学校」の大方の歴史と、それに伴って生じた格差について説明した。まずは大まかにおさらいしようか。東京には「本郷すし学校」、大阪には「ナニワすし学校」のように、大都市には古くからすし学校が存在した。こういう学校は大日本帝国の時代からあったので、「旧帝国すし学校」と総称されている。

 ところが「すし保険制度」という、広く日本国民にリーズナブルな価格で寿司を食べてもらう制度が導入され、昔からあるすし学校の卒業生だけでは、職人の数が足りなくなった。そこで終戦後や、高度経済成長期に、多くのすし学校が新たに作られた。こういうすし学校には国立もあるし、私立もある。すし学校を新たに創るにあたっては、旧帝国すし学校を卒業した職人たちを指導者、つまり親方として招聘した。

 その結果、「旧帝国すし学校」と新設のすし学校の間に、指導する側と指導される側の関係が発生した。20世紀初頭における、欧米とアジア・アフリカの関係のようなものだ。

 時間が経つにつれて、アジアやアフリカの国にも人材が育ってくる。そうすると、ヨーロッパの国々の支配を嫌がって独立運動が起こる。新しくできたすし学校でも、同じような流れが生じている。「新しくできた」って言ったって、それは「旧帝国すし学校」たちに比べると新しいだけで、できてから40年か50年くらいは経っている。だから、今までは「本郷すし学校」とか、「左京すし学校」から人材を招いていたけれども、もう自分たちだけでやって行きたいぜということだ。

 こういう例として、「江戸前すし学校」で起こった話をした。

 新しく親方を選考するにあたって、「江戸前すし学校」の生え抜きの職人と、「本郷すし学校」を出た一流の職人が候補に挙がった。業界の知名度の点から言えば、両者の間には、比べるのもばからしいほどの差があった。しかし、江戸前学校の卒業生が結束した結果、実力差をくつがえして生え抜きの職人が親方に収まった。そういう話だ。

 この話を聞くと、江戸前すし学校はなんて駄目な組織だ、選ばれた奴も仕方ない奴だ、と思うよね。ところが、彼らには彼らなりの事情というものもあるんだ。今回は、「弱者」の立場から見た「すし閥」について話をする

 すし学校には国立のものと私立のものがあるという話は、以前にした。同じすし学校とは言っても、国立と私立のものとでは、設立された経由と趣旨が異なる。国立のすし学校は、日本国民に幅広くすしを食べてもらう、という趣旨で設立された。私立のすし学校についても、設立された表向きの趣旨としては、地域であるとか国民のため、ということになっている。

 ところが実質的には、私立のすし学校の多くは「二代目」を養成するために創られたんだ。「すし職人」たちの収入は、平均に比べるとずいぶん多い。自分で店をもっていなくて、他人に雇われている「サラリーマンすし職人」だって、世間の勤め人の2倍か3倍くらいの給料をもらっている。自分の店を持っていて、うまく切り盛りしている職人たちの収入はさらに良くて、「サラリーマンすし職人」たちの1.7倍くらいであると言われている。つまり、日本の平均的な給与所得者の3倍から5倍くらいはもらっている。

 すし職人は免許制であるので、誰でも自由に競争に参与できるわけではない。つまり制度によって守られているからこそ、経済的な保証が得られているわけだ。

 人間は誰しも、自分の息子や娘がかわいい。だから、自分の子供にも免許を取ってすし職人になって欲しい、と願う職人がたくさん出てくる。これはもう当たり前の成り行きだ。

  そして世の中の人間は、誰しも同じように考える。自分はすし職人ではないが、子供はすし職人にしたいと思う親が多くなる。 また、すし職人っていいじゃないか、俺はすしを握って世の中わたっていこう、と考える子供も増えてくる。

 国立の「すし学校」は、学費が安い。だから収入がそれほど高くない家庭の子供でも、受験することができる。「すし学校」の入試は、すし職人としての適性試験、基礎的な実技、そして数学や英語なんかの一般科目について評点して、その合否を決定する。受験する人間が多くなればなるほど、競争は激しくなる。それで昔から、コクリツのすし学校に入学するのは、かなり難しい。

 となると、子供の成績があまりよろしくない場合、すし職人たちは困ってしまう。とりわけ、大きな店舗を経営しているすし職人たちは非常に困る。自分の跡を子供について欲しいと思ったって、すし学校に入らないことには始まらないからだ。

 そこで、親たちは考えた。入れてくれる学校はないのならば、創ればよいではないかというわけで、すし学校を自分たちで設立してしまった。

 とは言っても学校をゼロから創設するとなると、相当に大きなエネルギーがいる。役所に申請しなきゃいけない書類も膨大になるし、認可されるかどうかだってわからない。だから昔からあるすし屋の規模を大きくして、そのまま学校にしてしまった場合が多い。老舗のすし屋っていうのはどこでもだいたい、それなりの歴史がある。初代から伝わる家訓みたいなものも持っている。それを「建学の精神」として、教育する体制を整えれば「すし学校」の出来上がりというわけ。大半の私立の「すし学校」は、そういう経緯で設立された。

 当然のことだが、これらの学校が設立された当初は、自前の卒業生がいなかった。だから旧帝国すし学校に頼んで、教官を派遣して親方になってもらった。こういう構造は、新しくできた寿司学校について言えば、国立も私立も同じだ。

 だけど設立の趣旨が国立と私立では大きく違う。 国立のすし学校は、その地域の人たちに、すしをあまねく食べてもらうために設立された。それに対して、私立のすし学校の多くは、すし職人の2代目を養成するために設立された。

 こういう言うと、私立のすし学校を卒業した人間がずるいみたいだよね。

 ところが私立のすし学校を出た奴には、裕福な家庭で育っているせいか、おおらかな性格のやつが多い。たしかに組織としてみると、「江戸前すし学校」のエピソードで話したみたいに、おいおい勘弁してくれよ、ということは起こる。でも個人として付き合ってみると、かなりいい奴が多い。育ちが良いんだね。

 私立のすし学校の学費は、だいたい6年間で2000万円から5000万円くらいだ。学校に応じて、学費は大きく異なる。公表した学費以外に全くお金を取らない学校もあれば、正式な学費以外に寄付金とか教材費の名目で、なんだかんだと追加で金をとる学校もある。ちなみに、国立のすし学校の学費は6年間で300万円だ。これは、せとうち寿司みたいに新しいすし学校でも、本郷寿司みたいに古い学校でも、一律同じ金額だ。

 「すし教育にはお金がかかる」と、よく言われる。例えばすし学校では、寿司の握り方の基本を教えるために、実際に魚を使って「実習」が行われる。こういう時の材料費が、それなりにかかると説明されている。また、魚の生態を学ぶために、多くのすし学校では水族館が併設されている。この維持費もなんだかんだで、高額になると言われている。こんなふうに、教育を行うための材料費やインフラが費用を食うから、私立のすし学校の学費は高くなる、と信じられている

 あたしも昔は、そうなのかと思っていた。ところがある本を読んで、この説明がまやかしだってことに気が付いた。その本は「ウソばっかりの経済常識」という本で、岩田規久男先生という偉い学者が書いた本だ。

 その本の中で「なぜ、銀座のコーヒーは高いのか」という話が出てくる。銀座へ行ってコーヒーを飲むと、一杯で800円くらいは取られるだろ?高いところだと1500円くらいとるところもある。

 なんでそんなに高いのか?店側としてはよく、「銀座は土地代がかかるから」なんて説明をする。そんなものかと、多くの客は思う。

 だが、実はこの理屈はおかしい。例えば、埼玉の越谷でコーヒー1杯を出すのにかかる費用が150円だとするね。原価にそれくらいかかるとすると、越谷あたりならまあ1杯400円で客に出すだろうね。そうすると、店側の儲けは250円になる。

 銀座の土地代は、越谷よりもずっと高い。だから喫茶店のテナント料も確かに高くなる。この分を考えると、銀座でコーヒーを1杯出すのには、たしかに300円くらいの費用がかかるかもしれない。越谷の倍だ。

 仮に、あなたがその銀座の店のマスターとしようか。あなたは、越谷と同じ儲けの250円を加えて、コーヒーを550円で出すかね?銀座で

 あたしだったら、そんなことはしない。1杯550円でコーヒーを出せば、銀座では格安だ。だから、客が引きも切らずやってくるはずだ自分の店が常にお客であふれかえっているのを見て、「良い事をした」といって喜ぶのは、キリスト様かお釈迦様、あるいはマザーテレサさんくらいのもんだろう。

 普通の人間は商売でやっているのであるから、1円でも多く利益を上げたい。だから550円で満席、となると、必ず600円に値上げするはずだ。それでもお客さんが減らないとなれば、次は650円に値上げする。さらに客の入りが変わらなければ、さらに700円に上げるだろう。そうやって段階的に値上げをしていってだね、「これ以上、値段を上げるとさすがに客は減るよな」というギリギリのところでようやく値上げを止めるはずだ。その落ち着くところの価格が、800円なり1500円というわけだ。モノの価格はこのように決まる、と岩田先生は説明している。

 銀座で商売すると、原価だって少しは高くなるかもしれない。でもそれ以上に「その金を払う奴がいる」ということこそ、モノの値段を決定する、本質的な要素というわけだね。岩田先生によるこの説明を聞いて、あたしは目から鱗がおちる思いだった。

 でも考えてみると、これは当たり前のことだよな。だって仮に砂漠で遭難したとすると、水1杯が10万円と言われたって、みんな金を出すだろうからね。でも水そのものを汲むのには10万なんてかかりっこない、それと同じだ。簡単な理屈だ。

 というところで私立のすし学校の学費に話を戻す。

銀座のコーヒーと同じで、私立のすし学校の学費も、払う奴がいるからその価格に収まる。私立であれば、実習の材料である魚の購入や水族館の併設は、基本的には自前で行わなくてはいけない。だから教育にもそれなりの費用は、たしかにかかるだろう。

 ただ、すし教育を行うためにかかった費用+α=学費 とすれば、なんで学校によって、6年間の学費が2000万のところもあれば、5000万のところもあるんだい

 すし教育カリキュラムの基本的な枠組みは、モンカショーという役所に決められている。だから教育にかかる費用に2.5倍もの差が出るわけがない。これだけ考えても、「教育に費用がかかるから、学費を高くせざるを得ない」という、学校側の言い分が嘘っぱちであることは、すぐにわかる。

 そうすると、いったい何が、私立のすし学校の学費を決める本質的な要素なんだろうか?

 さっき私立のすし学校の多くは、すし職人たちの子弟に跡を継がせるために創られた、という話をした。この点と銀座のコーヒーの理屈を照らして考えよう。すると、「その学費を出すことを父兄が納得するから、学費はその価格に決まる」ということになる。つまりある学費を投資したとしても、総合的に見て十分に採算がとれるから、その費用を払うわけだ。

 一族で寿司屋を経営していて、それが軌道に乗っている場合には、職人たちの収入はかなり良い。世間一般の基準から見ると、大半の私立のすし学校の学費は、べらぼうに高い。ところが、流行っている店のオーナーである職人たちにとっては、別にどうってことはない。そして、すし学校を卒業した子弟たちは、父兄の寿司屋を継承する。こうして、寿司業界の世襲が進んでいく。

 あたしは若いころには、こうした寿司屋の「世襲化」について、かなり批判的な見方をしていた。父兄の経済力にバックアップしてもらって世渡りをしてゆくのはフェアじゃない、と思っていた。

 けれど、あたしもいろいろな店で修行する中で、学費の高いすし学校を出た職人たちとも、ずいぶん仲良くなってきた。そこでいろいろ聞いてみると、彼らは彼らなりの事情があると言う事がわかってきた。

 どういう事情か。

 地方なんかに来ると、その地域の住民にすしを食わせるところが、一族経営の店より他にない、というケースがしばしばある。こういう店はたいていの場合、爺さんの代くらいからずっとある。それゆえ、「すし保険制度」の導入によって寿司業界を公的な存在することになっても、解体されたりはしなかった。既得権として、制度にそのまま組み入れられた。

 つまり、わざわざ市立なり県立の寿司屋を新設しなくても、まあその店にずっと頑張ってもらって、地域の皆さんにすしを食べてもらいましょう、ということになったわけだ。そして、こういう店は地域に根付いて、実際に近隣の人々に貢献している。

 こういう個人経営の店の主人が、高齢になったとするね。主人は、もう鮨を握るのはつらくなったから、誰かに店をついで欲しいと思う。仮にあなたがこういう立場にあったなら、赤の他人に店を継がせるかい?自分は何十年もかけて、地域の評判を維持してきた。人脈も作ってきた。経営もまずまずうまく行っている。

 そういう一切合切をだね、他人に任せるなんてのは、できるもんじゃない。他人に任せるくらいなら、もう店を閉めちゃおうと考えるのが普通じゃないか。

 だけどそれをやられると、店で働いている職員たちが困る。すし屋なんてのは、職人だけいれば回るもんじゃない。大きな寿司屋となると、魚を購入する係もいるし、冷蔵庫の管理番もいるし、接客の人間もいるし、そういう人たちの給与や厚生を扱う係だって必要だ。さらには、材料である魚や野菜を卸してくれる人たちの生活だって支えている。つまり、ある種のコングロマリットを形成しているんだよな。

 主人が辞めたい、と思ったって、辞めるやけには行かないんだ。辞めるわけには行かないから、後継者は必要だ。かといって、赤の他人に跡を継がせるのは抵抗がある。

 となると、これはもう自分の子弟を何とか職人にして、あとを継いでもらうしかないじゃないか。そのためには、学費が高くったって仕方ない、払いましょう、ということになる。

 こういった需要によって、私立のすし学校の学費が決まってくる、というわけ。店を継続するという「浮世の義理」と、後継者は自分の肉親がいいという「人情」が絡み合う点で、非常に日本的な話だよな。

 かくのごとく、私立のすし学校を媒介とする、すし職人の「世襲化」は我が国の風土に合うわけだ。だから目くじら立てたって仕方がない。それに世襲化が進んでいるのは、なにも寿司業界の世界だけじゃない、政治家なんてその最たるものだし、歌舞伎の世界もそうだろう。これがいわゆる「この国のカタチ」ってやつにも思える。

 こういった背景を解ってもらった上でだね。考えて見て欲しい。

 私立のすし学校にとって、もっとも大切な「お得意様」は、いったい誰だと思う?

 すし学校は寿司の握り方を教育する施設ではある。しかし学校には直営のすし店舗が併設されていて、普通に寿司屋としても営業している。だから単純に考えると、付属の店舗をよく利用してくれる人間たちが、「お得意様」のように思える。

 あたしも昔は、そう考えていた。

 ところがだね、本当の意味での「お得意様」は、じつはお客ではないんだ。このことにあたしは、最近気が付いた。すし学校で学んでいる学生たちそのものが、じつは大得意様なんだ。

 学費の高いすし学校になると、卒業までに表向きの学費だけで5000万円以上はかかる。実際には寄付金であるとか、魚の水槽なんかの設備費もかかるから、6000万以上は払っているはずだ。とすると、1年間1000万円くらいは払っていることになる。いくら鮨の値段が高くなったって、1年間に1000万円以上も寿司を食う客はいない。しかもだ。それを6年間も続けるんだ。経済的な貢献度を考えてみたら、私立のすし学校にとって、最大のお客様は、学生に他ならない。こう考えて行くと、話の最初で触れた「江戸前すし学校」で起こったみたいなことは、当たり前すぎるくらい当たり前だってことがよくわかる。

 お得意様は神様、というのが日本における商いの伝統だ。そして、お得意様は、学費を払ってくださる学生ならびにその父兄だ。だから学校としては、彼らのいうことを何でも聞かなくてはいけない。だって、神様なんだから

 「今度、寿司部門の親方をもう一人選ぶことになりました。どうしましょうか?」

 「すし学部」のガクブチョーは、最高意思決定者である、リジチョーにお伺いを立てる。

 リジチョーは答える。「候補には、だれがいるの?」

 ガクブチョーは答える、「本郷すし学校の板前と、わが校の板前です。」

 哀しいというか面白いというか、こういう場合のガクブチョーやガクチョーは、自分自身が本郷すし学校や、左京すし学校を出た人間だったりする。かれらは、最初はすし職人としての腕を見込んで、親方として雇用された。でも齢を重ねるにつれて、職人としての仕事をあんまりしなくなった。それでもなお、生きて行かなくてはいけない。

 だから事務部門の幹部に祭り上げられたりするんだね。ただ地位は高いものの、リジチョーには逆らえない。とはいえ、彼らはもともとが寿司業界のエリートである。だからすし職人としてのプライドや矜持は持っている。

 したがって本音を言えば、腕だけを見て人事選考をしたい。しかしリジチョーにとっては、エリートのプライドなんて知ったことじゃない。理想を実現したかったら、自分たちで学校をつくりゃいいじゃねえか

 鼻で嗤いつつ、リジチョーは計算する。本郷すし学校の人間は確かに優秀だ。すしを握る技術は天下一品であるし、カリスマ性もある。親方にしてやったら、一見の客は増えるかもしれない。

 リジチョーはさらに計算する。

 しかし、本当のお得意様である、学生たちの父兄はどう思うだろうか

 江戸前すし学校の学生の大部分は、卒業したあと、自分の父兄が営んでいるすし店で働く。しかし中には、すし学校に残る卒業生もいる。こういう職人たちの前途は、いままで閉ざされていた。本郷すし学校や、四谷すし学校人間ばかりが親方になってしまって、肩身の狭い想いをしていた。

 でも本来、ここは俺たちのすし学校じゃないか?立ち上げの際には、本郷すし学校を出た奴らに手伝ってもらったことは確かだ。ただそれは、俺たちの仲間が若かったからだ。今は、江戸前すし学校の卒業生もだいぶん育っている。だから、本郷すし学校や、四谷すし学校の奴らがいなくたってやっていける。

 それにだ。「親方にだってなれますよ」というのは、学生を集める最大の謳い文句じゃないか!

 つい最近までは、わが校の学生たちの多くは、実家を継ぐことだけを考えていた。親方なんてものは、あれは旧帝国すし学校の人間だけがなれるもので、自分たちとはとんと縁のないものと考えていた。

 でも、わが校の卒業生を親方に抜擢したならばだ、入ってくる学生たちに対して、より多くの選択肢を提供できるわけだ。そうしたらもっとたくさんの学生が、わが校を目指してくれるようになるだろう。お得意様たちの父兄も、喜んでくれるはずだ!

 そこでリジチョーは、厳かに「今回はわが校の卒業生で行く」と、おごそかにガクブチョーに伝える。

 ガクブチョーは「今回」だけではなくて、ここ5年くらいはずっとそうじゃねーか、と心の中で思いつつ、恭しく、引き下がる。どうせ自分はあと3年で引退するしね

 アカデミアは敗退し、キャピタリズムは勝利した。

 こういう風に考えるとだね、結局、資本を多くするものが勝利しているわけだ。

 経済学的な視点から見ると、当然の現象が起こっているだけだ。

 「すし閥」のヒエラルキーから見ると、貝塚すし学校に代表される、多くの私立のすし学校は「弱者」だ。だが経済学的な観点から視れば、彼らは「強者」だ。なぜなら「富」を有しているからだ。むしろコクリツのすし学校の人間が弱者だ。だから本ブログのタイトルでも「弱者」に括弧をつけたんだ。

 表向きのヒエラルキーが高いものが、経済的に視ると「弱者」で、ヒエラルキーの低いものが経済的な「強者」というのは、ある意味で非常によくできた社会だ。だってもしも、階層的なヒエラルキーの高低と、経済的な豊かさが比例するとするよ。すると、地位も冨も有する人間がいる一方で、両者とも持たない人間が生じる。恵まれる人間は果てしなく恵まれ、みじめな人間は果てしなく惨めになってしまう。二極分解だ。それよりも、地位の高い人間は、地位が高い代わりに豊かさはそこそこに。豊かな人間は、豊かさの代償として、地位はそこそこに。これこそ究極の平等主義であり、まさに博愛主義じゃないか。おお、すばらしい。

 と思ったが、よく考えて見たら、それって江戸時代の士農工商そのものじゃないか。武士は身分が高いが、収入は低い。これらは旧帝国すし学校の人間たちだな。商人は身分は低いが、経済的には豊かだ。これがだれに相当するかは、もう言わなくてもわかるよね。

 つまり今の寿司業界も、江戸時代の先達達が作り、300年もかかって練り上げた、完成度の高い社会システムを再現しているにすぎないんだね。

 これはこれで、まあ平和で良いシステムなのかもしれないね、黒船がくるまでは

 

(注)本ブログに登場する組織名はすべて架空のものであり、実在の人物・組織とは関係はありません。