キャッシュと偶像崇拝

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共通するものは

 ぼくは買い物にはほとんど興味がないのだが、ワインだけはデパートに買いに行く。ビールなどはどこで買っても味は同じだが、やはりワインだけは産地と価格によってずいぶん良し悪しがあるからだ。
 ある日のこと、ぼくがワインを選んでカウンターに並ぶと、ぼくの前に若い父親と小学校の低学年あたりと思しき息子がいた。父親もかなりのワイン好きと見えて何本もワインを購入し、クレジットカードで支払いをした。
 息子は現金を支払わないで商品を購入できたことに非常に驚いたらしい。父親に向かって「お金払わないとだめだよ」と言った。
 「パパはこのカードがあるからいいのだよ。」父親は答えた。
 「だってそれ、お金じゃないでしょ?」
 「でもいいんだよ」
 息子にとってはクレジットカードが、打ち出の小槌か魔法の杖のように思えたらしい。
 「じゃあ、ぼくもそのカードほしい。ぼくもそのカードで、いろんなもの買う。」
 「これは、パパだから使えるんだ。○○(子供の名前)がこのカードで、ゲーム下さいって言っても使えないよ。」
 「なんで?子供だから?」
 クレジットカードの意味を教えるには、まだ息子は幼すぎると父親は思ったらしい。
 と同時に、これを教育のための良い機会として使おうとも思ったらしく、こう言った。
 「これはね、パパがいろんなものを買って良いっていう証明なんだ。パパは一所懸命働いているからいろんなものが買える。○○もよく勉強して立派な仕事につき、ちゃんとした人になれば、お金を直接払わなくても、たくさん物が買えるようになるよ。」
 「ふーん。」

 彼らのすぐ後ろに並んだぼくも、クレジットカードで支払いをした。
 ぼくを何とはなしに見ている小学生の視線に対し、「ちゃんとした人」であるとの気恥ずかしさを感じながら。

 その瞬間、いままでわからなかった、ひとつの謎が解けた気がした。
それはなぜイスラム教においては偶像の崇拝を禁じているのか、という謎だ。
キリスト教ではキリストやマリアの石像や絵を飾るし、寺には仏陀の像が置いてある。
それに対しイスラム教では、絵画や像をもって神を表象しない。というより、それを禁じている。
 ぼくはずっとその理由を、信者が信仰を理由に迫害を受けるのを避けるための方便かと思っていた。
 このことは江戸時代の「踏絵」を考えるとよくわかる。
 隠れキリシタンたちはマリアやキリストの石板を踏むことができなかったがゆえに処刑されてしまった。もしもキリスト教偶像崇拝を禁じていたのならば、こうしたタイプの迫害は避けられたはずだ。信仰を外的に表象する偶像がなければ、踏むとかつばを吐きかけるとかいった身体的動作を以って、信仰を冒涜することはできない。


 古来、宗教的な戦争を繰り返してきた中近東という地域にあって、特定の宗教を信仰することはそれ自体リスクがあったはずだ。そのリスクは極力、低くしなくてはいけない。その最も有効な方法のひとつは、その宗教の信者として特定されないことである。そのためには信仰を隠す必要がある。
 しかし偶像によって信仰を表象してしまうと、それを冒涜することを強要されて信仰があぶりだされてしまう。冒涜の対象がなければそうしたテストそのものが成り立たない。ゆえにイスラム教では偶像の崇拝を禁じたのであると、ぼくは思っていた。

 

 ところがこの論理は、偶像崇拝を全面的に禁止した理由としては、いまひとつ弱い。踏絵のように、絵を踏むことを強要することはできないにしても、神を冒涜するような言葉をいうことを強制することによって、信者を見つけることは可能だからだ。
 たとえば「神は全能である」という代わりに「神は無能である」と言うこと強要することで、踏絵と同じように信仰の有無をチェックすることはできるだろう。

 この点を突かれると、「信仰の偶像化を許せば、偶像が試金石として使われて信者が特定され、迫害を受ける可能性がある。それを防ぐために偶像化を禁じたのである」という先の理論では反論することはできない。そのことが今まで、ぼくの心に引っかかっていた。

 ワイン売り場の父子の会話を聞いたとき、この謎がふっと解けた。

 信仰を偶像化しないほうが、その信仰の対象に、より大きな威厳が付くのである。

 このことについて説明する。
 その子の視点から考えてみる。もしも何の価値の移譲もなされることなく、父親がワインを持ち帰ったのでれば、それは窃盗である。ワインを手に入れた代わりに、なにがしかの価値が交換として父親から店に移ったはずだ。


 その価値はどこにあるのだろう。


 現金を払ったのならば、話は解りやすい。価値は「お金」というモノにあったのだ。
しかしそうではない。
 父親という人間がオーラのような形で価値を身に携えており、その一部が店に移ったと考えるほかはない。
 もしも支払ったのがキャッシュであったのならば、そのお金は能力とか地位とか、父親の優れた属性に拠って得たものであるとは限らない。たとえば父親がそのお金を拾ったのかも知れないし、極端なことを言うと盗んだのかもしれない。しかしクレジットカードで支払うとなると支払われたお金は、父親の所有に属すべきものとして認められたものであるから、少なくとも拾ったとか盗んだとか、不当な転機により父親に帰したという可能性は否定されるのである。
 

 ゆえに同じく「お金」という価値を支払ったとは言っても、キャッシュで支払うのとクレジットカードで支払うのとでは、支払い主である父親という人間に帰せられる権威や威厳は異なるのである。

 宗教を構成するのは信仰の対象たる「神」と、信仰の主体である「信者」である。この関係を先の親子に対応させ、「父親」=「神」、「子供」=「信者」と考える。信仰は、子供が父親に寄せる尊敬、である。「神」は「信者」に対して何かをなし、それがゆえに信仰が強まる。これは通常、「みしるし」と呼ばれる。モーゼが海を切り開いたことや、キリストがらい病の患者に触れると治ってしまった、というようなことがこれにあたる。

 父親がワインの支払いをしたことは、こうした「みしるし」に相当する。
 神を偶像化することは、「神はこのようなお姿をしていますよ」と示すことであり、信仰を強めるためのひとつの方法である。ゆえに、偶像化は「みしるし」の一類型である。
 キャッシュで支払うよりもカードで支払った方が父親の権威が高まるのと同じ理屈で、「みしるし」に偶像という形をとらせるよりも、「なにかわからないもの」としてミステリアスにしておいた方が、信者の尊敬は高まるはずだ。くだんの父親と子供の会話を聞いていて、このことがピンと来た。

 つまり神を偶像で表象してしまうと、その偶像によって神の偉大さにceilingがされてしまうのである。たとえば私たちは、100mを10秒で走る人がいることは知っている。しかしいくらある人の背が高く、かつ筋肉が発達していたとしても、まさか1秒や0.1秒で100mを走れるとは、とうてい信じにくい。人間の形をしている以上、そこまで早くはないんじゃないの、と無意識に思ってしまう。
 もちろん神は全能なはずだから「神は100mを0.01秒で走れる」と言われると信じはする。しかし、神を人間の形で表象しないで曖昧模糊なイメージにしておくほうが、はっきりと人に例えるよりも、より少ないエネルギーでそう信じられる、ということだ。
 
 偶像崇拝を禁ずるのは、そうした理由が大きいのではないか。そんなことを考えた。