不透明な入試を論じる前に、不透明な教授選考を論じよう

 東京の某医科大学が、入試において女子の受験生の点数を比較していたことが発覚して、全国的な問題になっている。この発覚の引き金になった、役人の子息の裏口入学と引き換えに補助金を受領したことの方が、よほど深刻な問題だとぼくは思っている。しかしその点はひとまず置いておいておこう。ぼくがこのブログで言いたいのは、生徒である学生の選考について公平性をあれこれ言うのならば、それを教える側の教授を選ぶ際にだって、公平性を論じるべきだ、と言うことだ。いやむしろ、教授選考の正当性を論じることの方が、優先順位としては高い、とすら思っている。学生と教授はいわば、親子のような関係だ。子供の素行をいくら論じたとて、親の素行が悪ければ矯正のしようがない。とても簡単な理屈なのに、なぜ誰もこのことについては声をあげないのだろう?

 最近、九州大学の研究者が、アカデミックポストを得られないことを悲観して自らの命を断つという、非常に残念な事件が起きた。彼女は仏教学では非常に優秀な研究者だそうだ。当該分野の学者に言わせると、「野球の選手で言えば甲子園で優勝したチームの投手で4番」くらいの存在だったそうだ。権威ある賞を総なめにし、著書や論文も群を抜いて多かったらしい。しかしそのような彼女であっても、20あまりのポストに応募して全敗した。経済的な困窮と将来を悲観しての行為であったようだが、わが国にとって大きな損失だと言わざるを得ない。

  彼女のケースについてマスコミは、アカデミックポストは本来、公募で選ばれるはずなのに、採用が実力ではなくコネで決まってしまうことを非難している。コネ採用は人文系に限ったことではなく、医学部における教授選考においてもしばしば似たようなことが起こる。ある大学の教授のポストに空きがでると公募が行われるが、公募が出た段階ですでに内定しているという事態など、ざらにあるのが実情だ。

  どの学問分野でも「この人だったら教授になってもおかしくないな」と誰もが認め、でもまだ教授になっていない人たちがいると思う。ぼくの属する形成外科の世界には、そのような人はいつも、だいたい10人くらいいる。こういう人たちは大学の准教授であるとか、センター病院の部長のポストにいる。ところがそうして、誰もが実力を認める有望株10人の中で、実際に教授職につけるのは、形成外科の場合には大体3人くらいしかいない。というのは実力には関係なく、ただ中に長くいるだけの人が繰り上がって教授になる場合がしばしば起こるからだ。この傾向は近年とても強い。優秀な10人のうち、ポストを得られない7人は開業するとか市中病院に行ってしまう。ぼくはそうした優秀な人たちが才能を発揮する機会を奪われるのを見るたびに、断腸の想いがする。

 ぼく自身はたまたま、今勤めている香川大学が公正に選考を行ってくれたおかげで、どうにか教授のポストにつくことができた。たまたま母校出身の適任者がいなかったせいもあるのだが、どこの馬の骨かもわからないぼくを、よく拾ってくれたと感謝している。
 しかし、ぼく自身これまでに何度も、先の仏教学者の女性と似たような目にあっている。明らかに学術的な業績も手術経験も自分のほうが優れているのに他の候補に負けてしまったという経験が、何回かある。「自分のほうが勝っていると自分で思っているだけではないか」という批判があるかもしれない。この点に関してぼくは、たとえば今までに書いた論文の価値を表す指標(インパクトファクター)を比較してください、としか言えない。手術の上手さは点数で評価できないから、どうしても証明は出来ない。すべからく人間の能力は数値化できないから、うちの大学ではこの人のことを高く評価しますよ、といわれたらそれまでなのである。この曖昧さが人事選考を不透明にする一因だ。

 

 ぼくは自分が教授になる前には、実力だけを評価基準としない選考に対して憤りを感じていた。今でも、基本的には実力のある人を教授や准教授として採用すべきだという考え方には変わりは無い。しかし大学の運営に端くれとして参加する立場になってみると、その是非はともかくとして、なぜ不条理と思われる人事採用が行われるのかについては、非常によく理解できるようになった。

 その理由をひと言でいうと、長らく組織にいる人が年功序列的にその組織の統括者になるシステムは、その組織を運営するエネルギーを低く抑えるからだ。言葉を換えて言えば、簡単に統制がとれるからだ。大学は学問の府であると同時に、ひとつの組織でもある。組織を維持してゆくために最も大切なのは、その構成員を確保することだ。そして構成員を確保するためには、その組織に新規に参入するものが継続していなくてはいけない。この目的をはたすためには、次の二つのシステムのいずれが適しているか、考えてみる。第1のシステムは、その組織に単純に長くいたものがトップにつくシステムだ。第2のシステムは、優秀な人材を外から連れてきてトップに据えるシステムだ。新規に参入するものにとっては、第1のシステムが魅力的に映るはずだ。なぜなら、いずれ自分がそのトップにつける可能性が高いからだ。第2のシステムにおいては、その組織に何年いてもトップになれるとは限らないのだから、将来に対する期待値が第1の場合に比べて低くなる。
つまり組織側にとっては、新規の参入者を獲得するために、第1のシステムを採用することが有利なのだ。日本の大学が行う「公募」が実際には公募ではなく、年功序列による出来レースになっている場合が多々あるのは、この理由による。

 しかし、学術の水準を上げるという観点に立つと、このシステムはマイナスだ。気心知れた仲間だけで固めれば、居心地はいいかもしれない。しかし居心地が良すぎて切磋琢磨ということをしなくなってしまう。本当の意味で臨床なり学術の水準を上げようと思うのならば、第2のシステムを採用すべきなのだ。先の仏教学者の件でマスコミが主張しているのはこのことである。

 

 ぼく自身は基本的に、第2のシステム(実力主義)に賛同する。しかし、組織の性質によっては第2のシステムを採用すると、組織そのものが瓦解してしまうのである。非常にわかりやすい例を挙げる。例えばある山村があるとする。この山村の村長の選挙が行われることになったとする。この時に、①その山村の村役場に25年間勤続している助役と、②東大法学部を卒業して中央官庁に勤務している官僚 の二人が立候補したと思っていただきたい。能力的には彼我のつけようも無いくらい両者の相違は明らかだ。しかし現在の日本の現状だと、官僚の方がこの選挙で勝つということは、通常の状況においては、ほぼ絶対にありえない。少し世の中のことがわかっている大人ならば、こんなことは当たり前だと思うだろう。
 では、なぜ当たり前なのだろうか。「その村にはその村の固有の状況があるのだから、内情を良く知っている古参の人間がトップについた方が、村の運営を上手くやっていけるから」というのが、表向きの説明であろう。しかし、ぼくは以下のように説明する。もし官僚が村長として選ばれたならば、その村にいる若者たちはどう思うだろう。村に長くいても上の立場につけないということがわかると、村に留まるインセンティブは小さくなる。ゆえにたとえば、とても繁盛している旅館の跡継ぎであるとかいうような、その村に留まることに特別の経済的なメリットがないのならば、さっさと都会に出て行ってしまうはずだ。この現象が続くといずれ村は消滅する。だから古参の人間を選ばざるを得ないのだ。

 多くの私立大学医学部の教授選考人事を見ていると、この現象がそっくりそのまま当てはまる。旧帝大に比較して歴史が新しく、自前の人材が育っていなかったせいもあるのだが、かつては東大や京大出身の優秀な人材が教授に選ばれるケースが多かった。しかしいつまでもこの状況が続くと、その学校を卒業した人間がその大学病院で働かなくなってしまう。どうせ一所懸命に働いても他から上が来るなら、ハードな大学病院で働いてもアホラシイ、だから開業でもしよう、ということになってしまう。こうなってしまうと大学が運営できなくなってしまう。一流大学から優秀な人材を呼んでくれば臨床の水準は高くなるかも知れないが、人を集めないことにはともかく始まらない。だからその人物の優秀さは二の次にして、とにかく自分の学校の卒業生を、ということになるのだ。

 日本の医学部における人事は少なからぬ場合において、こうした実情により行われる。つまり、選考の結果と個人の能力は必ずしも相関しないのだ。だから仮に選考に漏れたとしても恥じたり、落ち込んだりする必要はない。この点は大学の入学試験とはまったく違うところだ。大学の入学試験は実情が一切考慮されず、完全に点数のみで判定される。だから試験に落ちた場合には、反省の余地はある。それより上位のはずの教員選考が実情のかたまりであるのはなんとも皮肉な話だ。

ともあれ、大学の教員選考というものが「そういうもの」ということが解っていたのなら、件の仏教学研究者も自殺までする必要はなかったのではないか。ぼくは実力を持ちながら、いつまでも機会に恵まれない研究者たちの目に、この駄文が触れることを願ってやまない。少しは気持ちが軽くなるだろうから。

 ただしこうした実情人事は、今後は減ってくると思う。その理由については今後またのべて行こうと思う。また、頻度は少ないながらも現段階においても、実力を基準とした選考は行われていることも事実だ。これについても今後、述べて行く。